ペトロ物語(02)
「ペトロの召命@」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 詩編39編3-8節
新約聖書 ルカによる福音書5章1-11節
出会いは一回ではない
 ペトロは、後にイエス様のお側で仕えた十二弟子のリーダーとなり、教会の大指導者ともなった人物でありますが、もともとはガリラヤ湖で魚を捕る一介の漁師でありました。結婚もして、新居も構え、それなりに幸せな暮らしをしていたようであります。

 しかし、他人が見れば何の不足ない生活をしている人でありましても、魂のレベルにおいては貧しさや恐れを感じている人があります。1903年(明治36年)、旧制・一高で哲学を学んでいた藤村操という16歳のエリート学生が、「巌頭之感」という辞世を書き残し、華厳の滝で投身自殺をしました。

 悠々たる哉天壤、
 遼々たる哉古今、
 五尺の小躯を以て比大をはからむとす、
 ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
 萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
 既に巌頭に立つに及んで、
 胸中何等の不安あるなし。
 始めて知る、
 大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。

 とても16歳が書いたと思えない難しい文章ですが、要するに「人生は不可解だ」と言って死んだのです。まあ、一説によると、夏目漱石に予習をしてこないと厳しく叱られたのが原因ではないかとも言われていますが、しかし彼の「人生不可解なり」との言葉に共感して、その後4年間の間に185人もの人が華厳の滝に身を投げるという異常な社会現象が起こったそうです。それ以来、華厳の滝は自殺の名所になったという話です。

 ペトロはそこまで思い詰めていたとは思えませんが、しかし、何か生活に飽き足らないものを感じていたのでありましょう。ちょうどその頃、バプテスマのヨハネという人が、「悔い改めて、真の信仰をもて」と人々に訴えかけ、ヨルダン川の水で洗礼を授けるという信仰復興運動を繰り広げておりました。ペトロはそれにいたく興味を抱いたようでありまして、仕事を休み、弟アンデレ、また漁師仲間のゼベダイの子ヤコブとヨハネを連れ立って、その教えを聞きに行くのです。それは距離にして百二十キロ、片道で三日はかかる大旅行でありました。彼らはきっとバプテスマのヨハネから洗礼を受け、しばらくヨハネのもとにとどまって学んでいたようであります。

 そんな或る日のこと、ペトロらはイエス様に出会います。そして、イエス様の教えを受け、この方こそ神様に遣わされたメシアであると確信をもつようになって、イエス様に従う者となったのであります。それが、先週お話ししたペトロとイエス様との最初の出会いとなったのでありました。

 しかし、聖書にはもう一つ、ペトロとイエス様との出会いの物語があります。今日、お読みしたガリラヤ湖畔での出会いがそれであります。『ヨハネによる福音書』は、先週お話ししましたような出会いを記しており、他の福音書は今日お読みしましたガリラヤ湖での出会いを記しているのです。

 これは、どちらが本当かというお話しではないと思います。出会いというのは、一度限りのものではないからです。たとえば、夫婦だって、「ああ、この人にはこんなところがあったのだ」という新しい発見をすることが多々あるのです。問題は、それが良い発見の時もあれば、悪い発見の時もあるということですが、たとえ悪い面を発見した時であっても、それもまたその人の真実の一面なのですから、そこから、より深くお互いを知る者として新しい関係を築いていくことは可能です。「雨降って地固まる」と言いますけれども、喧嘩をすることによってお互いの関係が深まるという経験はまさにそういうことではないでしょうか。新しい発見をして、新しい関係を築いていく。そうやって人と人の関係は深められていくのです。

 イエス様と私達の関係もそうなのです。イエス様を初めて知った。それは大切な出会いです。しかし、それでイエス様と私達の出会いが終わるのではありません。イエス様は限りない栄光に満ちておられるお方です。今日、イエス様の素晴らしさを知っても、明日はもっと素晴らしいイエス様の素晴らしさを知るかもしれない。パウロは、『フィリピの信徒への手紙』の中で、イエス様を知る喜びについて、このように語りました。

 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(『フィリピの信徒へ手紙』3章8節)

 これは、イエス様の本当の素晴らしさに出会った人でなければ言えない言葉でありましょう。しかし、パウロは、この後にすぐに、このようにも言うのです。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。(『フィリピの信徒へ手紙』3章12節)

 すべてのものを失ってもいいと思えるほど、喜びに満ちたイエス様との出会いをしていながら、私はまだイエス様のことを本当に分かったわけではない、もっともっと知りたいと思って信仰生活に励んでいるのだ、と言っているのです。

 このパウロの言葉によれば、信仰生活というのは、日々、新しくイエス様と出会うことを目的とした生活。それによってイエス様をより深く知り、イエス様とのより強いつながりに生かされることを祈り求める生活だと言ってもいいのではないでしょうか。
新しい出会いを果たすまで
 さて、ガリラヤ湖での新たな出会いのお話しをする前に、最初の出会いを果たしたペトロの、その後の歩みついてお話をしておきたいと思います。バプテスマのヨハネのもとで、イエス様に出会ったペトロたちは、イエス様と一緒にガリラヤに帰っていくのであります。イエス様もガリラヤ出身の方でありますから、これは自然な成り行きと言えましょう。ガリラヤに帰る途中で、フィリポとナタナエル(バルトロマイ)がイエス様の弟子に加わり、従ったとも記されています。

 三日目に、一行はガリラヤのカナに到着しました。目的は結婚式でありました。だれの結婚式かはわかりませんが、母マリアやイエス様の兄弟たちもそこにいたといいますから、イエス様のご親戚の結婚式だったかもしれません。イエス様は弟子たちと一緒にこの結婚式に出席なさいまして、一つのハプニングに遭遇します。お客様に振る舞うための葡萄酒が足りなくなってしまったのです。その時、イエス様は、この祝いの席の危機を、水を葡萄酒に変えるという神の御業をおもってお救いになりました。これがイエス様のなさった最初の奇跡であったと、聖書は記しています。

 もっとも、この奇跡はひっそりと行われたものですから、イエス様に言われて水を汲んだ召使いと、イエス様の側にいた弟子たちしか気づきませんでした。他の人たちは、奇跡が行われたということも知らずに、その葡萄酒をおいしい、おいしいと言って飲んでいたのであります。しかし、奇跡を目の当たりしたペトロ、その他の弟子たちは、改めてイエス様を信じたと言われています。イエス様が神様から遣わされたお方であること、そして神様がイエス様と共におられることを、今までよりももっと深く信じたということであります。先ほど申しましたようなイエス様との新しい出会いがここでも起こっているわけです。

 その後、イエス様は、弟子たちを伴い、ガリラヤの町々、村々に巡り歩かれ、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、人々に説いて回りました。イエス様がお育ちになったナザレにもお帰りになり、故郷の人々にも福音は宣べ伝えられました。しかし、故郷の人々は、「あれは大工のヨセフの子ではないか」と馬鹿にして、イエス様を信じようとしなかったと言われています。こうして故郷を追い出されてしまったイエス様は、カファルナウムにお住みになったと、聖書には記されています(『マタイによる福音書』4章12-13節)。

 カファルナウムというのは、先週もお話ししましたが、ペトロが妻と、そのお母さんと一緒に住んでいた町であります。アンデレもペトロと一緒に住んでいたと、聖書には書かれています(『マルコによる福音書』1章29節)。こうしてみますと、ペトロの家は立派であるとか、広々としていたとか、そういうことではないと思いますが、そんなに貧しい家でもなかったようです。イエス様がカファルナウムにお住みになったというのは、もしかしたらペトロの家に居候されていたということではないかなという想像も成り立つかもしれません。
疲れた人間
 いずれにせよ、イエス様はカファルナウムを本拠地として、神様の愛と救いを人々に宣べ伝えるお働きをなさるようになります。ペトロたちも、イエス様のお働きを一生懸命にお手伝いし、支えました。しかし、漁師をやめたわけではなかったようです。今日お読みしたところには、こう書かれています。

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。(5:1-2)

 「ゲネサレト湖」というのは、ガリラヤ湖の別名です。「漁師たち」というのは、明らかにペトロたちのことでありまして、彼らはまだそこで漁師を続けているのです。おそらく夜が明ける前、2時とか3時とかに漁に出て、朝方に帰ってくる。そして網を洗い、破れたところを繕い、漁師の仕事を終えてから、日中はイエス様のお供をして、宣教のお働きをお支えする。そんな毎日を送っていたのだと思います。

 しかし、この日は、漁を終えたペトロたちがまだ網を洗い終える前に、大勢の人々がイエス様から神様のお言葉を聞こうとして、ガリラヤ湖畔に集まってきたと書かれています。イエス様の評判は日に日に高まっていたようでありますから、だんだん人々が集まる時間が早くなってきたとも考えられます。

 けれども、私はちょっと違うのではないかと思うのです。実は、人々がいつもより早く集まってきたというよりも、ペトロたちの仕事がいつもより遅かったのではないか、そう考えるのです。というのは、5節にあるシモン・ペトロの言葉から分かりますように、この日の漁では、結局、一匹の魚も捕れなかったというのです。大漁ならすぐに帰って来ることができたはずです。しかし、この日は、おかしいな、おかしいなと思いながら、漁場をあっちに変え、こっちに変え、できるぎりぎりの時間まで、何度も網をおろして頑張ったに違いありません。それでも、一匹の魚も捕れなかったというのです。

 ペトロはまったく疲れ切っていました。疲れというのは、もちろん仕事をすればだれでも体は疲れるのですが、精神的な要素も無視できないのです。実りがおおければ、疲れてもそれは爽やかな疲れです。自然、網を洗う手を軽くなり、さあ今日も元気にイエス様の喜ばれる働きをしようという気持ちになる。しかし、今のペトロは徒労感に満ちています。それが疲れを一層辛いものにし、肉体を重くさせるのです。自然、網を繕い、洗う手も緩慢になります。

 そういうしているうちに、イエス様から神様の言葉を聞こうとする人たちがあつまってきてしまう。それでも、まだペトロは自分の仕事を終えることができません。ああ、疲れた。今日はイエス様のお供をお休みして、このまま家でぐっすり寝てしまいたいなあ、どうやってイエス様にそれを言い出そうかなんてことを考えながら、のろのろと網を洗っているのです。

 みなさん、こういうペトロの気持ちというのは、私達のだれもが経験することなのではないでしょうか。分かりやすく言うと、「嫌になっちゃう」という気持ちです。頑張っているのにうまくいかない。真面目に生きているのに報われない。何も悪いことをしていないのに酷い目に遭う。そんなことを経験すると、何もする気がなくなってしまう。いったい何のために働いているのだろうか? こんなに頑張って、真面目に働いていても何になるのだろうか? という疑いが起こってしまう。それが一時で終わればまだいいですけれども、非常に深刻な人生の虚無感に襲われてしまうことだってあるのです。そうなると、どんなに休んでも、疲れがとれない。元気が出ない。気分が晴れない。そんな疲れ切った精神になってしまうことになります。

 こういうことは、だれにでも起こりえることだと思います。たとえ今はそういう経験をしていなくても、いつかは必ずそういう思いをさせられることなのです。なぜなら、それは神様を離れて生きている人間の、宿命だからです。人間は何のために生きているのか。人生とは何なのか。その答えは、私達に命をあたえ、それぞれの人生をお与えになった創造主なる神様のうちにあります。私達の生きる意味、人生の意味は、「何の目的をもって、あなたは私をお造りになったのか。何の目的をもって、あなたは私にこのような人生をお与えになるのか。」と、神様に問うて、神様にそのお答えをいただくしかないのです。そうでなければ、永遠のその答えを見いだすことはできないのです。

 ですから、ダビデもこう言っています。

 ああ、人は確かに立っているようでも
 すべて空しいもの。
 ああ、人はただ影のように移ろうもの。
 ああ、人は空しくあくせくし
 だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
 主よ、それなら
 何に望みをかけたらよいのでしょう。
 わたしはあなたを待ち望みます。(『詩編』39編6-8節)
人生の答え
 では、神様に問えば、神様は「それは、こういうことだよ」と答えてくださるのでしょうか。残念ながら、そう簡単ではありません。どうしてでしょうか。神様は、たとえ「それはこういうことだよ」と教えても、人間というのは決して素直に「はい、わかりました」と言わないことをご存じなのです。胸に手を当てて、皆さんも考えてみてください。神様が「あなたの人生の目的はこれです」と言われたら、私達は有無も言わずに「はい、わかりました」と素直に言えるでしょうか。「そんなのは嫌だ。私はこうしたいのだ」と言ってしまうのがオチだと思うのです。神様はそういう人間の不従順さ、身勝手さが分かっていらっしゃるのです。

 ですから、神様は別の方法をおとりになります。「これがあなたの人生の目的です」と教える代わりに、イエス様を私達に与えてくださったのです。そして、「どんなときにもイエス様を信じ、イエス様に従って歩みなさい。そうすれば、あなたはイエス様があなたを真の目的に向かって導いてくださいますよ」と、神様は仰っておられるのです。 

 そのイエス様が、一匹も魚が捕れないで、すっかり落ち込みながら、網を洗っているペトロに近づきます。そして、ペトロに仕事を頼みます。3節

 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。(5:3)

 今まで自ら進んでイエス様にお仕えしてきたペトロでありますが、この時はじめてペトロは、イエス様の頼みにたいして「いやだなあ」、「めどくさいなあ」と思ったのではないでしょうか。しかし、断るわけにもいかないから、仕方なくイエス様のお手伝いをする。それがペトロの本音だったと思います。

 教会の中で、ときどき「強いられた恵み」という言葉を聞くことがあります。心から進んで奉仕をしたいわけではないけれども、どうしても断れない状況で仕方なく引き受けた。しかし、それを通して、神様の恵みを知るということであります。

 私達は、本当はそれが私達の喜びとなることなのに、それを知らないが為に嫌だ、嫌だと思ってしまうことがある。しかし、そうすると私達は一生神の恵みを知らない人間になってしまうことになるのです。そこで、イエス様が半ば強制的に、逆らう私達の心を推して、その恵みの方に引き寄せられることがあるのです。たとえば、親が子供に勉強しなさいとか、何時まで帰ってきなさいとか、もう寝なさいとか、うるさいことを言う。子供がどんなにいやがっても、半ば強制的にそれに従わせる。なぜなら、それが子供にとって良いことだということを知っているからです。子供の方がそれに気づくのは、たいていずっと後になってからなのです。

 ペトロも、イエス様の方から近づいてくださり、「舟を出してくれ」とお頼みくださることよって、かろうじてイエス様につながる者であり続けることができるのであります。

 イエス様はさらに変わったことを、ペトロに命じました。

 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。(4節)

 さすがにペトロも、これにはカチンと来るものがありました。素直に、「はい、わかりました」と言えないのです。

 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(5節)

 あなたは確かに偉い人だけど、漁についてはずぶの素人ではありませんか。漁を知り尽くした私達がどれだけ苦労したのか、それでも何も捕れないということはどういうことなのか、あなたはまったく分かっていらっしゃらないのだ。だいたい網だってやっと繕ったばかりなのに・・・。これがペトロの正直な気持ちでありましょう。

 しかし、そんなペトロが、それでもイエス様に従って、もう一度、沖に出て網をおろします。その理由はただ一つ、「お言葉ですから」ということなのです。他に理由はありません。ただ「お言葉ですから」、それだけを理由に、ペトロは不満であっても、疲れきっていても、重い腰をあげて、もう一度漁に出たのです。これはとっても大事なことでありますし、私達も必ず見習わなくてはならないことなのです。

 自分の考えや気持ちは別にある。しかし、イエス様のお言葉に従う。それが信仰なのです。どうして、そんなことをイエス様がおっしゃるのか分からなくてもいい。気が進まない。乗り気でない。不満がある。それでもいいのです。

 おそらく、ペトロが「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言った時、それはいかにもやる気がない、非常に弱々しい声だったと思います。その一つの証拠は、イエス様が「網をおろしなさい」と言ったとき、「網」は複数形でした。しかし、ペトロが「網をおろしましょう」と答えたとき、「網」は単数形なのです。一回だけならやってみましょう、そういう気持ちなのです。

 それにも関わらず、「お言葉ですから」と、イエス様の御言葉に従うことが信仰なのです。自分の気持ちではなく、イエス様のお言葉に従う。そうすることによって、私達を真の喜びへと導こうとしてくださっているイエス様の御業が私達のうちに行われるのです。6-7節を読んでみましょう。

 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。(6-7節)

 私は、ここを読みながら、ペトロが喜んで大漁の網を引いている姿を想像することができません。他の漁師たちが網を引き上げている間、ペトロは舟の上でガタガタと身を震わせ、茫然自失となっていたのではないかと思うのです。聖書にも、8節で「これを見たペトロは」と書いてあります。彼は、ただただその恐るべき出来事を見ていたのです。

 そして、陸に上がると、彼はイエス様の足下にひれ伏し、泣き出さんばかりの声でこう言いました。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」

 ここに、ペトロとイエス様との新しい関係が生じます。最初の出会いの時は、「私達はメシアを見た」と喜んでイエス様についていった。しかし、ここでは「主よ、わたしから離れてください」と言っています。イエス様が何者であるのか、そのことを新たに知る出会いを通して、ペトロとイエス様との関係を、より深い、真実なものへと変化させているのです。

 いったいどのような変化が起こったのか。そのことについては、次回のお話しにしたいと思います。いずれにせよ、イエス様は私達の思いを遙かに超えたお方であり、常に私達を驚かせてくださるお方であります。そのお方に従うためには、自分の考えや気持ち、知恵や経験で、イエス様のお言葉を否んではなりません。たとえ理解できなくても、気が進まなくても、「お言葉ですか」と言って、イエス様を離れないでいることが大事なのです。それによって、私達はイエス様の素晴らしさを知る新しい出会いを経験しますし、イエス様は私達を真の目的に向かって導いてくださることができるのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp