救いの入り口にて

 彼は身を翻して、憤慨しながら去っていった。

旧約聖書 『列王記下』 5章12節

 救いの入り口に立つ

 ナアマンは、イスラエルの預言者エリシャの家に来て、その入り口に立ちました。それは彼がやっと救いの入り口に立つことができたということを意味しています。その時の気持ちは、私たちが救いを求めて初めて教会を訪れた時と似ているかもしれません。不安や疑いや迷いもあったことでしょう。しかし、救いを求める一心がそれに勝っていたのです。

 身を翻すナアマン

 そのナアマンに、エリシャは使いの者をやってこう言わせました。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」
 しかし、ナアマンはこれを聞いて身を翻し、憤慨しながら立ち去っていったというのです。いったい、どうしたというのでしょうか? 折角、救いの入り口に立ったまで来たというのに、なぜ身を翻して去っていかねばならなかったのでしょうか。「こうすれば救われる」と示されたというのに、どうして彼は憤慨して立ち去って行かねばならなかったのでしょうか。

 ナアマンは言い分はこうでした。「エリシャが自ら出てこないのはどうしてだ。私の病める体を見もせず、手を置いて祈りもせず、ヨルダン川で身を洗えだと? 川なら自分の国にもある。そんなことのためにはるばるイスラエルまで来たのではない。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

 つまり、ナアマンは神の救いを理解せず、期待をはぐらかされ、失望し、プライドが傷つけられ、怒りに満ち、やっとたどり着いた救いの入り口から身を翻して去ってしまったのでした。

 皆さんは、このようなナアマンをどう思われるでしょうか?

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