141

神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

(新約聖書『ヘブライ人への手紙』6編10節から)
 人間は、神様から受けた恵みも、人から受けた恩も、時が経つと忘れてしまい、不平や不満ばかりを口にする事があります。しかし、神様はそんな事がありません。私たちが御名のために為したどんな小さな業も忘れる事がないと、聖書は教えてくれています。時に、私たちは愛の気持ちや業が通じなくて、悲しい思いをする事があるかもしれません。為した働きがあまりにも小さくて、誰の心にもとめてもらえないことがあるかもしれません。しかし、人がお礼を言ってくれなくても、神様は必ず報いてくださいます。

142

主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。

(旧約聖書『詩編』10編1節から)
 「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う」(詩編23:6)と、ダビデの有名な詩編がありますが、現実に追いかけてくるのは悩みと苦しみばかりという気がしませんか。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と、主は約束されましたが、本当に神様は悩める時にいと近き助けなのだろうか。私の苦しみなど少しも分かっておられないのではないかと感じることはありませんか。そんな経験を、昔の信仰者もしてきました。しかし、最後には、主は恵み深くおられるのです。信じ続けましょう。

143

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。

(新約聖書『マルコによる福音書』1編14節(口語訳)から)
 これはいったいどういうわけでしょう。御霊は、私たちに神の道を歩ませ、魂を守り、御国へと導いてくださるのではないでしょうか。しかるに、御霊はイエス様を荒れ野に追いやり、サタンの誘惑に晒させたというのです。実は、これは珍しいことではありません。パウロもアジア州で伝道しようとしたところ、御霊にそれを禁じられた事がありました。御霊の導きは、しばしば私たちに理解できないのです。しかし、それがどんな道であっても、そこに神様の御心があることを信じる事、それが信仰によって生きる事なのです。

144

わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、・・・栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

(新約聖書『ヨハネの黙示録』1章5-6節から)
 これはイエス様に関する御言葉ですが、言葉の順序に注意してください。はじめに愛ありき、これがイエス様の真のお姿なのです。イエス様のすべての御業に先立って、私たちに対する愛がありました。この愛によって、イエス様は生まれ、教え、癒し、死に、葬られ、復活されました。すべては私たちを愛し、私たちを神のものとして復帰させるためだったのです。それならば、私たちも信仰生活を愛から始めなければならないでありましょう。イエス様に対する愛をもって信じ、礼拝し、祈り、捧げ、仕え、伝道するのです。

145

彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った」と言った。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』1章41節から)
 「一期一会」という言葉があります。人との出会いは常に一生に一度の出会いと心得て、その時に真心を尽くさなければならないという、本来は茶会の精神について語ったものです。同時に、一期一会は夫婦、親子、親友であろうと、いつか別離の時が訪れるという人生の必然、人間の孤独、悲しみをも語っている奥の深い言葉です。しかし、その悲しみが癒される出会いがあります。一期一会ではない永遠の出会い、私たちの生命が固く結ばれて、罪があっても破壊されない出会い、死によっても引き離されない出会い、主との出会いはそのような出会いなのです。 

146

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

(新約聖書『マタイによる福音書』6章8節から)
 神様は祈る前から私たちの必要をご存じである、と主は言われます。それならば敢えて祈る必要はないではないかと思eえば、それは大きな誤解です。何もかもご存知の神様だからこそ、私たちは安心して、どんなことでも祈ることができるのです。私たちは無益なことを神に願うかもしれません。逆に大切なことを祈るのを忘れているかもしれません。しかし、だからどうってことはないのです。大切なことは私たちが神様を心から信じ、神様によって生きようとしているという事です。それの現れこそが祈りなのです。

147

恐れおののきつつ自分の救を達成するように努めなさい。

(新約聖書『フィリピの信徒への手紙』2章12節 から)
 福音とは、イエス様がしてくださったこ事と、してくださる事、この二つによって私達が救われることです。しかし、それは自分の救いのために何もしなくても良いことではありません。確かに、自分の努力や熱心がどれほどのものであっても、それによって私達が救われることはありません。が、自分の救いに熱心でない人が、どうして主の救いの有り難さを知り得ましょうか。自分の救いに熱心さを示し、努力を惜しまぬ人には、少なくとも主の救いを切望する祈りがあるといえましょう。主はそれを求め給うのです。

148

お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。

(旧約聖書『イザヤ書』30章15節から)
 静かな生活の中に、突然思いがけない事が起こり、心が千々に乱れる事があります。すぐにでも力ある行動しなければならない、火急に助けを求めなければならないと、色々な思いが忙しく駆けますが、実際は何をしていいのか皆目分からないために、ただオロオロするばかりになってしまうのです。そのような時、御言葉は私たちに「静まれ」と教えています。静まって、神がその危急の中にも居まし給うことを知り、主ご自身からあなたの為すべきことを教えていただく事こそが、その危機を乗り切るために必要なのです。

149

神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』15章7節からから)
 信者といえども、人間的には気まぐれで、利己的で、思慮に欠けている場合が少なくありません。そのような人を兄弟姉妹として愛することに困難を覚えることもありましょう。しかし、私たちは主の愛の奇跡によって救われたのですから、どんなに人も愛によって救われ、清められることを信じなくてはなりません。この世は愛の力を信じません。それは、この世の愛には信じるに足る愛がないからです。しかし、私たちは主の愛があります。その愛は、与えれば与えるほど豊かで大きなものに成長することでしょう。

150

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』6章23節 から)
 給料だけが報酬ではありません。世に尽くせば感謝状の一つも受け取るでしょう。それももお金には換えがたい報酬です。人に親切にすれば「ありがとう」の一言でいい気分になるかもしれません。これもまたあなたに小さな喜びをもたらす報酬です。何であれ、報酬というのはあなたの人生が報われることです。生きていて良かったなあと思える人生の実りを得ることなのです。誰にでもやがて人生の総決算の時が来ます。その時、必ず「いい人生だった」と振り返ることができるような生き方を、今しようではありませんか。

151

善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるだろう」とリベカに告げられました。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』9章11節 から)
 人生の明暗は善悪だけで決まるのではありません。むしろ根源的には神の選び(ご計画)によるところが大きいのです。ところが、神の選びは、人間には測りしれません。「神様はなぜ?」という疑問は、人生につきものだと言えましょう。それが私たちの不幸感につながるのです。しかし、それにも関わらず、神を信頼し、神が給うた人生を「わが人生」として承認し、精一杯に生きる人は、生きる喜び、満ち足りた幸せを得ることができます。幸不幸は神が与え給うものではなく、あなたの神に対する応答にかかっているのです。

152

ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、

(旧約聖書『ヨナ書』2章2節 から)
 なんと魚のお腹の中から神様に祈った人がいます! 彼の名はヨナ。預言者でした。しかし、神様に従わなかったために海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれてしまったのです。そんな人のお祈りを、神様は聞いてくださるのでしょうか。もちろんです。神様は魚の腹の中から聞こえてくる彼のお祈りを、ちゃんと聞いてくださいました。今、あなたはどこにいますか? 神様のそばですか。遠く離れたところですか。どこにいても、神様はあなたのお祈りをちゃんと聞いてくださいます。だから、今あなたがいる場所で、まず祈り始めましょう。

153

怠け者は自分の欲望に殺される。彼の手が働くことを拒むからだ。欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。

(旧約聖書『箴言』21章25-26節 から)
 私たちの心と体は欲望でいっぱいです。欲望は悪いものなのでしょうか。欲望もまた神様が人間にお与えくださった生きる為のエネルギーだと、私は思います。しかし、人間は欲望のためだけに生きているのでありません。誰もが、人生において果たすべき務めを神様から戴いています。その務めを果たす為には、欲望をコントロールする必要があるのです。務めを忘れ、欲望だけを追い求めている人は、欲望に殺された人です。その人は、怠惰な人生を送るばかりか、飽くことを知らない空しい人生を過ごすことになるでしょう。

154

ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときがきた。

(旧約聖書『雅歌』2章11-12節 から)
 穏やかで、気持ちのいい日が多くなってきました。教会のお庭にもたくさんのお花が咲き誇り、どこからともなく蜂が飛んできて蜜を吸っています。白いお花はノースポール、青いお花は忘れな草、色とりどりのチューリップ、パンジー、目立たないけれど片隅にスミレも咲いています。ツツジやシャガ、これからレンゲソウも咲くことでしょう。寂しい冬枯れの後に、神様は美しい春をお与えくださいます。人生も同じです。冬枯れのような時があったとしても、神様は必ず地面の下に働いて、春を備えてくださっているのです。

155

見よ、わたしはあなたを手のひらに刻みつける。

(旧約聖書『イザヤ書』49章16節 から)
 人生の不幸、災害、凶報を受けて「神に見捨てられた」と嘆く人々に、神はこう言われました。「母親が我が子を忘れることがあろうか? 憐れまないことがあろうか? たとえ世の母親たちにそういう事があったとしても、私は決してあなたを忘れたり、見捨てたりはしない」と。あなたが今、大いなる不幸の中におられても、あなたは見捨てられているのではなく、一切は神の大いなる摂理の中にある事です。どんな苦難の中にも、神の愛が必ず貫かれていることを信じ、希望を持ちましょう。

156

我らがなほ罪人たりし時、キリスト我らのために死に給いしによりて、神は我らに対する愛をあらはし給えり。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』5章8節(文語訳) から)
 イエス様は、あなたが悔い改め、善人になるのを見て、あなたのことを愛してくださったのではありません。「なほ罪人たりし時」に、つまり神に背き、自分勝手な罪深き心のままに生きている時に、あなたを愛して、その罪を取り除かんと十字架に死んでくださったのです。これこそ神の愛であると、聖書は語ります。もしかしたら、あなたはなお己が罪人であるの感が拭えないで悩んでいるかもしれません。それでもあなたはイエス様の愛が共にあることを確信していっこうに構いません。いや、それをこそ信ずべきなのです。

157

キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』12章9節 から)
 体でも心でも弱さがあることは辛いことです。しかし、パウロは自分に弱さがあることを喜ぶと言うのです。彼の弱さは、何か終生負わなくてはいけない病のことであったようです。「それさえなれば」と、彼は一生懸命に願いました。ところが逆に、この弱さがあるからこそ、自分はイエス様の素晴らしい愛を知り、イエス様と共に生きる者とされているのだということに気づかされるのです。だから彼は、この弱さが私には大切だ、この弱さが喜びの根源だ、とまで言うのです。弱さがあるからこそ、気づかされる愛があります。弱さがあるからこそ、与えられる喜びがあります。

158

わたしに向かって、「主よ、主よ」という者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

(新約聖書『マタイによる福音書』7章21節から)
 真理は聞いただけは分かりません。真理を分かるためには自ら真理に触れるという経験が必要なのです。また、真理は唱えるだけでは無益です。それを意味あるものにするためには、真理に生きるということが必須です。ですから、イエス様は「天の父の名を唱えるだけの者にならず、その御心を行う者になれ」と言われたのでした。しかし、「完全に成し遂げよ」ということではありません。そのような事は難しい。ただ、行うことに努めるという姿勢が大事なのです。その懸命さがなければ、神の愛も、恵みも、真理も体得できません。

159

イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

(新約聖書『フィリピの信徒への手紙』1章11節から)
 自分が神様に愛されていると確信するためにはどうしたらいいのでしょうか。自分自身の事をいくら考えても、その答えは分かりません。自分の内には神様に愛される値打ちや資格は何もないからです。それにも関わらす、私たちが神様に愛されているのはイエス様のお陰です。それならば、自分が何者であるか、何をしてきたか、何ができるか、自分の事でくよくよ悩まなくてもいいのではないでしょうか。それよりも、イエス様がしてくださったこと、してくださることに目を注ぎ、その恵みの豊を知ることこそ重要なのです。

160

「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

(新約聖書『ヨハネによる福音書』9章25節から)
 クリスチャンであっても、イエス様の事をどれだけちゃんと知っていると言えるでしょうか。いろいろ質問されてまごついた経験が、皆さんにもおありなのではないかと思います。かく言う私も同じです。牧師などしていながら、自分は何も分かっていなかったと痛感させられる事が幾たびもあるのです。しかし、クリスチャンである限り、このことだけは知っているはずです。すなわち、自分がイエス様によって救われたという事実です。それを知っているかどうか、そのことが何にもまさる大きな価値をもっているのです。
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