121 あるはずのないことがある

今、彼は祈っている。

(新約聖書『使徒言行録』9章11節から)
 アナニアは、「見よ、彼は祈っている」という主の言葉を聞きました。アナニアは耳を疑います。そんなことがあるはずがないと、主に応えます。なぜなら、「彼」とは主の弟子たちを迫害し、さんざん苦しめている迫害者サウロだったからです。しかし、人を救い、生まれ変わらせるのは神様の御業です。神様は、どんなに恐るべき迫害者をも一瞬にして主にひざまずく弟子にすることも可能なのです。アナニアはどんな人をも新しく生まれ変わらせ給う主の御業を信じて、彼を訪ね、彼に洗礼を授けたのでした。

122

ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。

(旧約聖書『出エジプト記』8章11節から)
 エジプトに災いをもたらされると、ファラオはモーセを呼んで頼みました。「あなたの神に祈って、災いを去らせてくれ。そうすればあなたの神の言うことをも聞こう」しかし、モーセの祈りによって平和が回復し、一息つけるようになると、ファラオの心は再び頑迷な状態に戻ってしまったというのです。何とも耳が痛い話ではありませんか。「苦しいときの神頼み」は大いに結構です。しかし、苦しいときだけの神頼みではいけません。主の救いを忘れることがないように、感謝の生活を送りたいものです。

123

自分の愛する者によりかかって、荒野から上って来る者はだれですか。

(旧約聖書『雅歌』8章5節から)
 『雅歌』は愛の賛歌です。しかし、その「愛」は精神主義的な愛とは異なります。はっきり言えば、恋人たちの艶めかしい睦言であり、官能的な情愛を大らかに歌いあげたものです。抱擁とか、口づけとか、握手とか、聖書はこのような愛を否定していません。イエス様も子供らを抱き上げ、病める人たちに手を差し伸べて触れられたではありませんか。そして、今も、イエス様は御霊によって私たちに触れて下さいます。イエス様の御腕に寄りかかり、そのぬくもりを感じながら、この世の荒れ野を歩んでいきたいものです。

124

片手を満たして憩いを得るのは、両手を満たしてなお労苦するよりも良い。それは風を追うようなものだ。

(旧約聖書『コヘレトの言葉』4章6節から)
 日本でも「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言って、欲深を戒める諺があります。聖書も、片手で満足しないで、両手を満たすことを追い求めていると、まるで風を追い求めるかのようにいつまでも満ち足りず、いつまでも休むことができない人間になってしまう、と教えています。足りないものに目を注ぐのではなく、与えられている恵みを数えれば、人生は「何もかも」を手に入れなくても、十分に幸せになれるのです。

125

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。

(新約聖書『エフェソの信徒への手紙』6章11節から)
 悪魔は二つの手強い奸計を持って、あなたを堕落させようと企んでいます。一つは、あなたを落胆させることです。神を信じていても何も善いことがないという落胆。神に、隣人に仕えても報われないという落胆。自分には何もできないという落胆。このような落胆は、あなたの信仰を腑抜けにしてしまうことができます。今一つは、財産、地位、名誉など、この世の富を偶像化させることです。悪魔はこれらのものをあなたに与えることができます。しかし、それと引き替えに、あなたに生ける神を捨てさせようとしているのです。

126

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

(新約聖書『エフェソの信徒への手紙』6章11-12節から)
 学生には受験戦争がありますし、社会人にとっては職場が戦場に例えられたりもします。嫁姑問題や遺産問題で家族が戦い合うという事もあります。病苦との戦いもあるでしょう。この世は、どこにおいても熾烈な生き残り戦争が繰り広げられているのです。しかし、私たちを苦しめ、傷つけ、疲れさせているのは、それらの目に見える相手ではなく、目に見えないけれども悪しき力をもって私たちを支配しようとしている悪魔です。この悪魔に対する霊的な勝利なくして、私たちの魂に本当の安息は訪れないのです。

127

あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます。

(旧約聖書『詩編』61編4節から)
 人間の罪深さやこの世の様々な不幸な出来事は、しばしば私たちを悩ませ、深く悲しませます。しかし、どんな時にも、どんな日にも、聖書の御言葉を信じ、その中に約束されている神様の愛と御力に心から寄り頼んで祈るならば、「神われらと共にいます」との大安心が訪れ、千々に乱れた私たちの心を鎮めてくれます。その幸せは、あたかも神様の幕屋の中の中に住まい、御翼の陰に隠されているかのごときです。この「神われらと共にいます」の安心こそ、イエス様の与えてくださった私たちの救いなのです。

128

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

(新約聖書『ヘブライ人への手紙』11章1節から)
 私達はしばしば見えないものを見ようとして頭を悩ませ、心を焦がし、眠れぬ夜を過ごします。たとえば明日の事、将来の事を思い煩い、人の心に在る事、無い事をあれこれ憶測し、「ああ、私はダメだ。絶望だ」と落ち込んだりしていないのでしょうか。そんな心配は、あなたの心が勝手に作り上げているものであって、決して確かな事とは限りません。全能にして慈愛に富み給う神様を信じる事が出来たならば、あなたももっと希望をもって、見えないものを信じる事ができるようになるに違いありません。

129

なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。

(新約聖書『マタイによる福音書』9章11節から)
 イエス様は仙人になろうとせず、徹底して世俗の人となられました。結婚式に出席し、葬式に出席し、井戸端で語らい、宴会に列席し、幼子を抱きあげて頭を撫でたりいたしました。そんな社交ぶりをみて、ファリサイ派やサドカイ派の人々は顔をしかめ、イエス様を食道楽とか、大酒のみとか、罪人の仲間だと非難をしまます。しかし、イエス様はそんな人々の言うことを気にされません。そして、誰であろうと悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜び、友なき者の友となられたのです。そこにイエス様の愛がありました。

130

酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが、後になると蛇のようにかみ、蝮の毒のように広がる。

(旧約聖書『箴言』23章31-32節から)
 お酒の誘惑について書かれた御言葉です。お酒に限らずすべて誘惑というものについて語っているとも言えます。誘惑はいかに甘美なものに見えようとも、またいかに愉快で、嫌なことをすっかり忘れさせてくれるようとも、その快楽、解放感は決して本物ではありません。私たちの感覚を麻痺させ、幻想を抱かせ、無感覚にし、その間に魂がサタンの毒で蝕まれてゆくのです。目が覚めた時、最悪の気分になり、自己嫌悪や絶望感を味わうのはそのためです。

131

汝の前にありては我らは先祖等(たち)のごとく旅客(たびびと)なり 寄寓者(やどれるもの)なり。

(旧約聖書『歴代誌上』29章15節 文語訳から)
 ダビデは一介の羊飼いであり、8人兄弟の末弟に過ぎませんでした。それが、今やイスラエルの王であり、軍隊を持ち、たくさんの家来を養い、立派な宮殿を建てて住むようにさえなりました。なんという成功物語でしょうか。しかし、そのようになっても、ダビデは羊飼いの時の素朴で、力強い信仰を失いませんでした。神様の前には、自分など何持たぬ、拠り所のない旅人のようなもので、あなたのお守りがなければ生きていけませんと祈るのです。私たちもこのような信仰に生きる者でありたいと思います。

132

レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた。

(旧約聖書旧約聖書『歴代誌下』12章12節から)
 ユダの王レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、神様に従う道を捨ててしまったと言われています。これは、人が神様を離れてしまうのがどんな時であるかということを如実に示しています。それは人生の逆風の時ではなく、順風の時です。悩みの日ではなく、成功の日です。自分の弱さに打ちひしがれるときではなく、自信に満ちあふれている時です。そのような時、私たちは傲慢になり、神様ではなく自分を信じて生きようとします。それが罪の道の始まりなのです。

133

神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。

(旧約聖書『歴代誌下』12章12節から)
 神様は嘘をつきません。嘘をつく必要がないのです。人間はなぜ嘘をつくのでしょうか。憎しみが嘘をつかせます。不安が嘘をつかせます。恐怖が嘘をつかせます。名誉欲が嘘をつかせます。貪欲が嘘をつかせます。良心のとがめが嘘をつかせます。高慢が嘘をつかせます。自分を愛せない心が嘘をつかせます。この偽りに満ちた自分から解放してくれるのは誰でしょうか? 神様は真実な御方です。嘘をつきません。その神の真実を心の拠り所として生きるならば、私たちも神の子として真実な生き方ができるに違いありません。

134

エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。

(旧約聖書『ミカ書』5章1節から)
 「いと小さき者」と呼ばれることが、この上ない名誉として語られています。あなたはいと小さき者である。だから、わたしはあなたを選んだと、神様はおっしゃるのです。なんと不思議な神様の選びでありましょうか。あなたは、「いと小さき者」であることを喜んでいるでしょうか。取るに足らぬ無きに等しい者であることが、神様の愛と恵みを戴く時の根拠となっていることに気づいているでしょうか。小さき者であることを悲しむ必要はありません。神様はいと小さき者の味方であり、小さき者に恵み深いのです。

135

死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたが共にいてくださる。

(旧約聖書『詩編』23編4節から)
 大地震、強盗、放火、子供たちを狙う変質者、毒殺・・・心を暗くするニュースが連日のように伝えられています。なんと危険な世界でしょう。私たちは誰も「死の陰の谷」を歩いているのです。ある人は札束を片手にそこを歩いています。肩書きを頼りに歩いている人もいます。他にも専門書を読みながら歩いている人、鍛え上げた身体で歩いている人などいろいろです。しかし、私たちはイエス様を良き羊飼いとして、彼に導かれ、彼から離れないようにしながら歩きます。それが私たちの信じる生き方なのです。

136

サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。

(旧約聖書『サムエル記上』7章12節から)
 「今まで」という言葉によって、サムエルが振り返る過去には様々な出来事があったに違いありません。その一つ一つの出来事は、刹那においては完全な絶望に思えたり、この上ない救いに思えたりしてきたものです。しかし、今振り返ってみれば、災い日も、救いの日も、すべては今に至る一本の道であり、おしなべて主の恵みの日であったと、サムエルは感謝の祈りを捧げるのです。私たちもエベン・エゼルを記念碑として立て、この一年を感謝で終えようではありませんか。「今まで主は我々を助けてくださった」と。

137

この卑しい女さえ、心にかけてくださいました。

(新約聖書(口語訳)『ルカによる福音書』1章48節から)
 マリアは幸せの薄い、楽しみの少ない女性だったに違いありません。そうでなければ、どうして「お言葉どおりこの身になりますように」と言えたでしょうか。人間はどんなに貧しい者であっても、必ず守りたいもの、決して失いたくないものを心に持っているのです。しかし、彼女にはそれさえもありませんでした。たとえあったとしても、それを容易に捨てることが出来ました。その貧しさがあればこそ、「お言葉どおりこの身になりますように」と言って、彼女はイエス様を宿すことが出来たのです。

138

あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。

(新約聖書『ルカによる福音書』9章48節から)
 「人の一生は尊いものです。それがダイアモンドのように不変だからではなく、小鳥のように傷つきやすいものだからです。人生を慈しむことは、配慮、関心、導き、助けを必要とする、そのような弱さを愛することなのです。生まれたばかりの赤ん坊と死に瀕した老人とが、私たちに人生の尊さを思い起こさせてくれます」(ヘンリー・ナウエン)。素晴らしい助言です。愛こそが、私達に生きる喜びや尊さを与えてくれます。ただ自分の弱さも人の弱さも愛すれば良いのです。そうすれば愛する喜び、愛される喜びが、私達の一年を幸せにするでしょう。

139

あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。

(旧約聖書『詩編』119編105節から)
 ある学生が人生に悩み、哲学の教授の所に話しを聞きに行きました。教授は親切に何時間もかけて哲学の話しをしてくれたのですが、学生の悩みは解けず、暗い気持ちで帰ろうとしました。すると、外は日が暮れて真っ暗です。心配した教授が「こんなものでも無いよりはましだよ」と、懐中電灯を貸してくれました。夜道を懐中電灯で足許を照らしながら帰る学生は、ハッと気づきます。「たとえ一歩一歩しか照らさない光でも、このような光が必要なんだ」と。人生は一寸先は闇。しかし、み言葉は私たちの足許を照らします。

140

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』8編34節から)
 多くの声が、私たちの内側からも、周囲からも聞こえてきます。「お前は心の醜い人間だ。偽善者だ。何かも不真実だ。いったい、神はあなたの捧げる礼拝や、祈りや、奉仕や、献金を喜ばれるだろうか?」 しかし、気をつけましょう。それはあなたの現実を告発する声かもしれませんが、決して神様の思いを告げる言葉ではありません。御言葉に耳を傾けましょう。そこでは、静かにささやく声があなたにこう告げています。「わたしはあなたを愛する者、あなたの罪を覆い、清める者である」と。これが神の思いなのです。

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