101

イエスは涙を流された。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』11章35節から)
 どうぞ立派な人間なろうなどは考えないでください。それよりも、あなたの傍らで涙を流しておられるイエス様に気づく人間になって欲しいのです。イエス様の頬に流れる一滴の涙は何を物語っているのでしょうか。誰のために泣いておられるのでしょうか。そのことに気づくとき、聖き涙が私たちを洗い清めくださることでありましょう。温かき涙が私たちの心を愛で温めてくださることでしょう。今日から始まる受難週の一週間、イエス様の涙について黙想をしましょう。

102

皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。

(新約聖書『使徒言行録』27章25節から)
 絶望と希望は紙一重です。自分には何も出来ず、家族や友人も当てにならず、世の中にも見放された感じる時、多くの人は「もはや神に祈るばかりだ」と言うだろうと思います。それは絶望の言葉でしょうか。それとも希望の言葉でしょうか。それは、「神など信じられません」という人にとっては絶望の言葉であり、「私は神を信じています」と言える人には希望の言葉なのです。絶望と希望は紙一重ならぬ神一重なのです。同じ状況でも、神への信仰の有る無しによって人は絶望し、また希望を持つことができます。

103

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』20章27節から)
 復活の朝、空っぽのお墓を発見したときに示した弟子たちの姿はそれぞれ個性的です。マグダラのマリアはただ一人の墓の前でいつまでも泣いていました。ペトロは墓の中に入り散らかっている亜麻布を子細に調べました。しかし、ヨハネは墓の中を一瞥して信じました。クレオパともう一人の弟子はこの事について論じ合いました。トマスは明確な証拠がなければ決して信じないと主張しました。イエス様はこれらの弟子たちをそれぞれ個性的に取り扱いってくださいました。そして皆を信じる者に変えてくださったのです。

104

萬(よろず)の人の目は汝を待つ。

(旧約聖書『詩編』145編15節<文語訳>から)
 全世界の人々が救いを求めています。戦争が終わるように。食糧がすべての人に行き渡るように。差別がなくなるように。独裁がなくなるように。犯罪がなくなるように。病が克服されるように。互いに分かり合い、尊敬し合い、助け合うことができるように。私たちも決して失望することなく、神様の御手に目を注ぎ続けましょう。聖書には、「主は萬民の主にいまして、凡て呼び求むる者に對して豊かなり」(ロマ書10章12節)と約束されているのですから。

105

あなたの道を主に委ねよ。

(旧約聖書『詩編』138編15節から)
 かつては、私も成功や利益を追い求める人間でした。正直言って、そういう生き方は疲れました。失敗してはくよくよし、損をしてはイライラする。そんなことの繰り返しなのです。聖書は、それとは違う生き方もあると言います。人生をすっかり主にお任せし、その信頼に基づいて、良きと思えることも悲しと思えることも、一切を主の御旨として感謝して受け取る生き方です。これには失敗も損失もありませんから、くよくよすることも、イライラすることもありません。感謝あるのみ、讃美あるのみ、の生き方なのです。

106

剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。

(新約聖書『マタイによる福音書』26章52節から)
 ペトロはイエス様をお守りするために捨て身の実力行使に出ました。ペトロはそれを信仰、あるいは正義、あるいは権利のためと思ったに違いありません。しかし、それは相手にとっても同じ事です。実力行使は必ず正義や、権利や、信仰の名のもとにおいて行われるのです。イエス様はたとえ相手に非があったとしても、実力行使による問題解決の道を許されませんでした。それでは本当の解決は訪れず、一時的にどちらかが勝ったとしても、結局はお互いを滅ぼし合うことになることをご存知であったからです。

107

マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』20章1節から)
 イエス様の埋葬されたお墓は大きな石でふさがれ、封印がなされました。この封印は、死んだ者は決して生きた者の世界に戻ることができないという厳粛な事実を物語っていると言えましょう。人間の力では決して動かすことのできない事実であります。しかし、イエス様の復活によって、その封印は解かれ、墓は開かれたのです。それは、死はもはや決して出口のない永遠の終わりではなくなり、永遠の命への入り口となったということを意味しています。なんと力強い、大きな希望がここにあることでしょうか。

108

よもすがら泣き悲しむとも朝(あした)にはよろこびうたはん。

(旧約聖書『詩編』30章5節 文語訳から)
 人生には「よもすがら泣き悲しむ」という辛い夜があるものです。そんな時、何よりも苦しいのは自分だけが周囲から取り残され、自分の時間が止まってしまったかのような底知れぬ不安や孤独を感じることでしょう。誰も自分の苦悩を分かってくれないように思い、慰めも励ましも、どんな言葉も自分の心に届いてきません。しかし、そのような時にも神様はあなたの心の中に共にいまして、「明けない夜はない、必ず喜び歌う日が来る」と、優しく、力強く、あなたの魂に語ってくださっているのです。

109

エホバの親愛はエホバをおそるる者とともにあり。

(旧約聖書『詩編』25章14節 文語訳から)
 イエス様は「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と仰ってくださいました。この素晴らしい主の親愛は、主を畏れる者と共にあるのだと、聖書は語っています。主を畏れるとは、あなたの生活がいつも神様の御心の中にあるということを忘れないということだと思います。何かをする時もしない時も、人々の輪の中にいる時も独りで居る時も、神様があなたの人生の主として、共におられるのです。そして、親しき愛をもってあなたを支え、導こうとしてくださっています。

110

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』4章18節から)
 神様は目に見えないから存在しないなどと言えるでしょうか。世の中には目に見えなくても確かに存在しているものが多くあります。「愛」「友情」「喜び」「悲しみ」「意地悪」「ねたみ」「貪欲」・・・これらのものは実体としては目に見えませんが、たとえば草花が揺れ動くのを見れば「風」を見ることができるように、それがもたらす働きや影響を体験することによって知ることができます。神様も、そうです。私たちの人生や世の中には、神様が生きていらっしゃることの証拠が数多くあるのです。それがあなたにも見えますように。

111

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

(新約聖書『ルカによる福音書』10章40節から)
 働き者のマルタは何もしないで座っている妹にイライラしながら、聞こえよがしに鍋をがちゃがちゃと音をたてながら台所に立っていたのではないかと思います。とうとう我慢ができなくなったマルタは、これまた聞こえよがしに「主よ、あなたから手伝ってくれるように仰ってくださいな」と、イエス様に訴えます。手伝って欲しいならば、どうして、直接、自分の言葉で、妹に「大変だから手伝って頂戴」と頼めなかったのでしょうか。このように忙しい時、私たちはマルタのように他人に意地悪で、批判的になりやすいのです。

112

わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』13章3節から)
 私たちはしばしば言葉によって、人のこころを傷つけ、裁き、汚してしまいます。憎しみ、嫉み、やっかみ、誤解など、魂の奥底に沈殿する汚泥が言葉となって口から吐きだされ、相手にぶつけられてしまうのです。しかし、主は、御言葉によって私たちを清めると言われました。醜き人間の言葉の投げ合いによって泥をぶつけたり、かぶったりするとき、静まって主の御言葉を聞くならば、神の愛、ゆるし、慰め、癒しの清流がイエス様の内から流れきて、私たちの魂のこの上ない清涼剤となるのです。主の御言葉を愛しましょう。

113

小さい群よ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

(新約聖書『ルカによる福音書』12章32節から)
 あなたは小さい者であることを恐れたり、恥じたりする必要はありません。ダビデはエッサイの子供らのうちで最も小さい者でした。主の生まれたベツレヘムもユダの氏族の中で最も小さいものでした。イエス様は乳飲み子らを祝福し、「神の国とはまさにこのような者たちのものである」と仰いました。「天国はからし種のようなものである」とも仰いました。この世で小さい者であり、取るに足らぬ者であるということは、神の国の祝福の基なのです。だから、あなたも小さいことを恐れてはなりません。

114

地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

(新約聖書『使徒言行録』1章8節から)
 神の証し人になるとはどういうことでしょうか。この悲惨さに満ちた世界に、そして悩みと労苦の多いすべての人の人生に、それでもなお神様がいまし、イエス・キリストの救いがあるのだということの生けるしるしになるということです。私たちをそのような者にしてくださるのは、聖霊です。聖霊は、私たちの心のうちにキリストを住まわせ、どのような苦難の中にあっても、忍耐と愛と希望を持たせてくださいます。その忍耐と愛と希望こそ、神なき望みなき人々に生ける神の存在を示すしるしとなるのです。

115

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善きに変え・・・

(旧約聖書『創世記』50章20節から)
 たとえ誰かがあなたに悪意をもって色々なことを仕掛けてきても、あなたが主の愛の中に生きているならば、何も恐れることはありません。神様は、あなたに対するどのような悪意も、善きに変わらせてくださると約束してくださっているからです。しかし、善きに変わらせてくださるとは、辛いことが何一つ起こらないという約束ではありません。悩みの日も、悲しみの日も、忍耐の日も、すべては神様が与えてくださる命の日に向かう一日、一日となるということなのです。

116

ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。

(旧約聖書『ヨナ書』1章3節から)
 生きていく上には、興味のないこともやらなくてはいけません。賛成できないことや意味を見いだせないこともやらなくてはいけません。たとえどんなに苦痛であっても、それから逃げて生きることができないものがあるのです。しかし、それが人間を成長させることも事実です。自分の思いのままに生きることが本当の幸せだとは限りません。自分の信念がいつも正しいとは限りません。神様は、私たちが自分の小さな殻を破って、神の子として成長していくことを絶えず願って、あなたにその人生を与えておられるのです。

117

青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。

(旧約聖書『イザヤ書』45章2-3節から)
 人生を大きな喜びに満ちたものにするためには、希望と努力をもって扉を開き、その中へと進んで行く必要があります。あなたの人生はその扉の手前で立ちつくしてしまっていないでしょうか。父なる神への信仰は、そんなあなたにもう一度、希望と力を与えてくれます。あなたの目の前に立ちはだかる扉がどんなに重くても、またそれがどんなに頑丈なかんぬきで守られていても、「われ汝の前に行きてあかねの扉をこぼち、くろがねのかんぬきを立ち切るべし」という全能の神の約束が、あなたの希望の力の源泉となるのです。

118

まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。

(旧約聖書『創世記』28章16節から)
 ヤコブは、自分の犯した罪からから逃れるために、一日中走り続けました。日が暮れて夕闇が迫ると、ようやくヤコブは足を止め、野道の傍らで、石ころを枕に体を横たえます。鉛のように重くなった体に地面の冷たさが伝わってきます。喉が渇いて仕方ありませんでした。履き物は破れ、足は血だらけでした。空には星もなく、漆黒の闇は底なしの虚無のようでした。ヤコブはまったく惨めでした。どん底でした。しかし、そのようなところで、彼は生ける神と出会ったのです。

119

わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』1章20節から)
 私が皆さんに少し注文をつけたいのは、祈りの時にも、讃美の時にも、「アァメン」という言葉をもっと魂を込めて力強く唱えたらどうかということです。「アァメン」とは「然り」という意味のヘブライ語であって、「神様のなさることに間違いはない」という信仰の言葉なのです。人生は悲喜交々でありますが、良いがあれは駄目ということではなく、生も死も、すべてのことの中に神様の栄光を認めて「アァメン」と唱えることこそ、私たち信仰者の証しなのです。神を信じて、「アァメン」と力強く唱える信仰者になりましょう。

120

そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

(新約聖書『マタイによる福音書』13章5-6節から)
 「そこは土が浅いので・・・」と、主は言われました。御言葉を学ぼうとする時、「分かったつもり」とか、「分かりっこない」とか、すぐに結論を出してしまうのは禁物です。このような浅薄な姿勢で、御言葉の真価を知ることはできないのです。御言葉は種子です。私たちの心の土壌に深く根を下ろし、芽を出し、成長し、実を結ぶまでには、しばしば時間がかかります。どうぞ、お花を育てるように根気よく、御言葉を学んでください。やがて、あなたの中で豊かな実を結ぶことを信じて、御言葉を学び続けてください。

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