161

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り・・・あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。

(旧約聖書『創世記』28章15節から)
 ヤコブは荒れ野をさまよっている時に、神様のご臨在と出会い、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と叫びました。このように、たとえあなたが知らなくても、主はいつもあなたの側にいてくださり、愛をもってあなたを抱きしめくださっているのです。しかし、その愛を感じるためには信じる事が必要です。愛は信じることによって受け取るものだからです。どうぞ、あなたも信じる者となって、あなたと共にいてくださる神様と驚くべき出会いを果たしてください。

162

神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。

(新約聖書『ヤコブの手紙』4章7節から)
 悪魔は愚かではありません。私たちの心の隙を知り尽くし、実に賢しく飴と鞭を使い分け、巧みに騙して、私たちを虜にしようとしています。悪魔は居ないという人がいます。ああ! その人は既に騙されているのです。悪魔など恐くないという人もいます。その人もまた罠に陥っています。悪魔を侮れない敵なのです。しかし、そんな悪魔とて神のものには指一本触れることはできません。悪魔が狙い得るのは、私たちが神の許を離れてふらふらと彷徨っている時に限るのです。だから神に帰り、神に許で自己を守り、完全に神のものとなれ!と、御言葉は教えているのです。

163

あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙一』4章8節から)
 飽き足りることは必ずしも幸せな事ではありません。今の世をご覧なさい。満腹した子供らが、夢を持たず、希望を持たず、学ぶことや働くことに喜びを感じず、王様のように我が儘に振る舞い、虚しき遊びに自己を浪費し、人生の始まりにて既に絶望しています。何たる不幸せ! 幸せとは満ち足りる事ではなく、小さな発見に歓喜し、感謝し、常に目標に向かって努力し、人と共に分かち合う喜びを知っている事ではありませんでしょうか。その為には見せかけの満足ではなく、本物の満足への飢え渇きが必要なのです。

164

神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは、神に属していないからである。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』8章47節から)
 信頼しない者や敵対する者に対して、私たちは聞く耳を持ちません。しかし、愛する者の言葉ならば、その声がどんなに細く小さくても、しっかりと聞き分けて、その心を受け取ることができるに違いありません。神様との関係においても同様です。敵する心、疑う心をもって神様の言葉を聞くことはできません。神様を愛する者、信頼する者、依り頼む者が、それを聞くのです。

165

人間の道は人の目に正しく見える。

(旧約聖書『箴言』21章2節から)
 最近、テレビで活躍のオピニオン・リーダーたちの発言に不安を覚えています。靖国参拝問題、歴史教科書問題、北朝鮮問題、憲法改正問題などを巡る議論の中で、過去の戦争や将来の戦争を正当化するような発言を、声を大にして言う人が増えてきたように思うからです。戦争は正義と正義、大義と大義のぶつかり合いです。どちらも正義や大義をふりかざして殺し合いを正当化するのです。人間は誰でも自分の正しさを信じて生きています。だからこそ、相手の声、そして神の声に耳を傾けることが必要なのではないでしょうか。

166

そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』1章35節節から)
 「歩いておられるイエスを見つめて」という言葉にハッとされました。私が祈りの中で思い浮かべる御姿は、大抵、立つか座るかして、じっとこちらを見ていてくださるイエス様です。しかし、神の目的に向かって歩いておられる御姿を見つめて、「主よ、どこに行かれるのですか」と祈り尋ねつつ、ひたすら信頼して後をついて行く・・・このような信仰、祈りというものも私たちに必要なのだということを改めて思わされるのです。

167

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。

(旧約聖書『詩編』124編8節からから)
 私たちは持っていないものを数え、それがいかに多いかを嘆くことが多いのです。しかし、もう一度胸に手を当てて、神様がどれほどの助けと恵みを私たちの日々の生活の中に与えてくださっているかを、真剣に数えてみると良いでしょう。必ず、与えられているものの多さが勝っていることに気づくはずです。困った時に「与えてください」と祈ることは悪いことではありません。しかし、その時にも、神が多くを与えてくださった方であることを賛美し、我らの助けは主の御名にあるということを力強く確信して祈りたいものです。

168

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは・・・わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』6章4節から)
 私たちが洗礼を受けた意味の一つは、キリストの死にあずかることにあります。そのため、クリスチャンになってからも私たちはしばしば大きな苦しみに遭うのです。その苦しみによって傷つき、多くのものを失い、自分が滅んでいくのを感じる時、私たちはそれが十字架のキリストと一つに結ばれるために必要な苦しみであることを知らなければなりません。私たちの受ける苦しみは、私たちを苦しめるだけではなく、復活のキリストにあずからせ、キリストと共に新しい命に生かすのです。

169

万物は御子によって、御子のために造られました。

(新約聖書『コロサイの信徒への手紙』1章16節から)
 すべてのものはイエス様のために造られたと言われています。その中には、当然「私」という存在も含まれています。あなたの家族、仕事、財産、地位、名誉、友人たち・・・それらすべてのものも同様です。もしかしたら、あなたはそれらのものが自分のものであり、自分のために存在していると思っていたかもしれません。実はそれこそが、あなたの人生がうまくいかない原因なのです。自分を中心に考えていても、あなたがこの世に生まれてきた本当の目的は見いだせません。それはイエス様のうちに見いだすべきものなのです。

170

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

(旧約聖書『イザヤ書』40章8節から)
 石綿のニュースを聞くと、どこかで自分も石綿を吸い込んでいるからもしれないという不安に襲われます。ハリケーンのニュースを聞けば、自分の街や家は台風に耐えられるのだろうかという不安に襲われます。出会い系サイトで女子高生が殺害されたというニュースを聞けば、うちの子は大丈夫かしらんという不安も起こってきます。私たちは何と不安に満ちた世の中に生きていることでしょうか。しかし、どんな時にも、何があっても、揺らぐことなく頼ることができるものがあります。それが神の言葉なのです。しっかりと神の言葉にしがみついていたいものです。

171

あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。

(旧約聖書『エレミヤ書』15章16節から)
 第一に御言葉を見いだすこと、次にそれを食べること、すとあなたの心に喜びが溢れるようになると言われています。「食べる」というのは、御言葉を私たちの生きるためのエネルギーにするということでありましょう。ただ読むだけではなく、ただ聞くだけではなく、ただ学ぶだけではなく、御言葉を食べる者となる時に、御言葉が私たちの命となり、力となるのです。私は、御言葉を食べるとは御言葉を行う者になるということではないかと思います。御言葉を身につけていくことによって、私たちの心は元気になるのです。

172

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』14章1節から)
 世の中の問題や心の中の問題が、私達の精神をどんなに痛めつけ、消耗させるかを、イエス様がご存知でいらっしゃいます。だからこそ、パニックになるな、苛立つな、ネガティブな考えに取りつかれるな、と励まし給うのです。そして、「神を信じ、わたしを信じていなさい」と頼もしく語ってくださいます。これは、言い換えれば「私に任せておけ」ということです。信じるというのは、理屈ではありません。子供のような素直さをもって、イエス様の力強さ、恵み深さにすべてをお任せすることです。あなたの問題を、すっかりイエス様にお預けしてみてはいかがでしょうか。

173

あらわな戒めは、隠れた愛に勝る。

(旧約聖書『箴言』27章5節から)
 人を叱るということは難しいことです。相手を傷つけることになるからです。無難に済ませたいならば、やたらに忠告したり、叱ったりしないのが賢明です。しかし、「愛する人の与える傷は忠実のしるし。憎む人は数多くの接吻を与える」(箴言2章6節)という御言葉もあります。 優しいことばかりを言ってくれる人よりも、たとえ厳しいことを言ってくれる人こそ真の友であるということがあるのです。あなたに、そのような勇気をもって忠告してくれる友は、本当にあなたに忠実な友であるに違いありません。

174

読んでいることがおわかりになりますか。

(新約聖書『使徒言行録』8章30節から)
 エチオピアの宦官が馬車に揺られながら『イザヤ書』を声に出して読んでいました。フィリポはそれを見つけると、「読んでいることがお分かりになりますか」と声をかけます。「手引きをしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう。どうぞ教えてください」というので、フィリポは宦官の読んでいた御言葉から説き起こし、イエス・キリストの福音を告げ知らせました。教会で説教を聞くことの大切さがここに語られています。御言葉を通してキリストと出会うためには、適切に手引きしてくれる人が必要なのです。

175

清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。

(新約聖書『ルカによる福音書』17章17節から)
 十人の人が主イエスに願って癒されました。ところが、主イエスのもとに戻ってきて感謝を捧げたのはたった一人だけだったというお話です。「ほかの九人はどこにいるのか」と、主は叫ばれます。これは主の落胆の叫びでしょうか。憤怒の叫びでしょうか。否、私には、愛の叫びに聞こえます。恵みを忘れ、感謝を忘れ、再び神なき空しき巷の中に帰ってしまった者を、「どこにいるのか」と、なおも呼び求めてやまない主の心の愛の叫びです。

176

夕べになっても光がある。

(旧約聖書『ゼカリヤ書』14章7節から)
 誰の人生にも黄昏の時がきます。目はかすみ、耳は遠くなり、歯は抜け落ち、足腰が弱くなり・・・老いの哀しみは誰も避けられません。しかし、イエス様を信じる人生には、そのような時にもなお明るさがあります。望みがあります。体が滅んでも内なる人が新たにされる喜び、死の棘が抜かれた平安、新しい体をまとう復活の希望、痛みも苦しみもない天の住まいに対するあこがれ・・・イエス・キリストは私たちのあらゆる暗闇に打ち勝つまことの光なのです。この光があなたの心を照らしますように祈ります。

177

人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。

(旧約聖書『箴言』14章12節から)
 イエス様は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。イエス様を十字架にかけた人びとは、ある意味では自分のしていることをよく知っていました。しかし、それはまったくの見当違いだったのです。彼らは神を喜ばそうとして、神への敵意をむき出しにしました。自分の救いを求めようとして、神の愛の贈物である救い主を十字架にかけてしまいました。私たちは同じ事をしていないでしょうか。自分の愚かなること知る者こそ幸いです。

178

イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。

(新約聖書『ヘブライ人への手紙』2章16節から)
 イエス様が助け給うのは、清らかな白い衣をまとった天使ではなく、罪の衣をまとった真っ黒な私達です。天地を自由に駆け回る翼をもった天使ではなく、地べたにへばりついて、様々な制約の中で生きることしかできない私達です。常にまっすぐな心で神に忠実に仕えている天使ではなく、絶え間なく悪魔の誘惑にさらされ、迷いの道を生きている私達です。これは、なんと恵み深い使信でしょうか。取るに足らぬ無きに等しい者に御目をとめてくださるイエス様が、あなたに助けの手を差し伸べてくださっています。

179

お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。

(旧約聖書『イザヤ書』30章15節から)
 人生に何事か困ったことが起こる時、あまり騒ぎすぎないようにしなさいと教えられています。そのような時にこそ神様をしっかりと見て、揺らぐことのない大安心の中に生かされることを感謝することが大切なのです。なぜなら、恐れ、不安、焦り、心配といった心の雑音によって、神様が見えなくなってしまうことがあるからです。心を落ち着け、静かな心で神に祈り、御言葉に耳を傾けましょう。神様があなたと共におられます。その大安心を知るところから、困難を乗り越えていくあなたの力が生まれてくるのです。

180

事の終わりは始めにまさる。

(旧約聖書『コヘレトの言葉』7章8節から)
 息子の合唱祭のプログラムを見ました。1組「明日の空へ」、2組「Let's search for Tomorrow」、4組「Tomorrow」・・・、3組を除いてすべて「明日」に関する歌です。世の中の世知辛さを嘗め尽くした大人は、こうもアッケラカンと明日を歌うことはできません。しかし、聖書は「事の終わりは始めにまさる」と約束しています。なぜなら、終わりの日はすべての事を完成させてくださるイエス様の日だからです。イエス様のしてくださることを信じるならば、どのような現実の中にあっても、明日を待ち望み、希望をもって生きることができるのです。

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