221

わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。

(新約聖書『ペトロの手紙二』3章18節から)
 新しい年を、更なる成長の年とするためには、どうしたら良いのでしょうか。一つは、主から豊かに受け取る者になることです。主の御業に期待し、主に祈り求め、主の為し給うことを待ち望みましょう。今ひとつは、主に学ぶことです。主に聞き、主に倣い、主に従いましょう。この二つのことによって、私達は霊的に成長することができるのです。皆様の一年が、主の恵みと知識において更なる成長を遂げる年でありますように。

222

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

(新約聖書『ヨハネの黙示録』3章17節から)
 あなたは自分には悪いところもあるが、善いところもあると思っているかも知れません。しかし、神様の目からご覧になると、あなたはまったく惨めな者、憐れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者だと、聖書は容赦のない言葉で語っています。あなたと神様、どちらがあなたの真実の姿を言い表しているのでしょうか。神様を信じる者は自分が惨めな者であることも認めなければなりません。そこから、キリストの愛と救いを、心から求める者になるのです。神は、あなたがそのような者になることを待っておられます。

223

天国は畑に隠れたる寶(たから)のごとし。

(新約聖書『マタイによる福音書』13章44節 文語訳から)
 荒川土手を自転車で散歩をしていると、何やら干潟を一生懸命に掘っている人がいます。もしやと思い、私も干潟に降りて砂を掘ってみると、やはりその人は潮干狩りをしていたのであって、大粒のシジミがザクザクと出てきたのでした。思いがけない収穫に喜び、その晩は旨いシジミ汁にありつきました。イエス様が仰るのには、信仰生活とは、日々の暮らしの中で、このように思いがけない宝(恵み)を発見する驚きと喜びに満ちた生活であるということです。毎日が潮干狩り、毎日が宝探し、楽しいことではありませんか。

224

わたしは頑な心の彼らを突き放し、思いのままに歩かせた。

(旧約聖書『詩編』81編13節から)
 子供の頃、「もう勝手にしなさい!」と親に叱られたことはありませんか? そう言われて、本当に勝手に振る舞い続ける子供はほとんどいません。逆に、もしこのまま自分が勝手なことをし続けたら、大きな愛と保護を失うことになるのではないかという不安と恐れにかられ、愚かな不従順から救われることになるでしょう。親もまた、もし本当に勝手にしたらどうしようかという恐れを抱きながら、そのような教育的な効果を期待し、心を鬼にして「勝手にしなさい」と言うのです。神様も同じです。その深き愛を悟りましょう。

225

二種の家畜を交配させたり、一つの畑に二種の種を蒔いてはならない。

(旧約聖書『レビ記』19章19節から)
 かつて豹とライオンを掛け合わせた「レオポン」という珍獣が日本の動物園に誕生しました。傾きかけた動物園の集客の目玉として作られた可哀想な動物です。花にはトマトを、根にはジャガイモを実らせる「ポマト」が開発され、夢の作物ともてはやされた時もありました。今はレオポンも幻の珍獣となり、ポマトも忘れ去られています。人は思い上がって創造主になろうとしますが、バベルの塔の建設を阻止された神様は、今も神の領域を侵そうとする人類の前に立ちはだかっておられるのです。人が、人であり続けるために。

226

救いは、主にこそある。

(旧約聖書『ヨナ書』2章10節から)
 神様が特別な祈りの部屋を備えてくださることがあります。神様に逆らったヨナは、真っ暗な魚のお腹の中に呑み込まれます。そこで三日三晩祈り続け、自分の罪と神の裁きを悟り、このような者になお救いが残されているとしたら、神様の憐れみしかないと祈るのです。神様はその祈りを待っておられました。私達も、出口のない真っ暗で狭い処に閉じこめられてしまう時があります。それは神様があなたに与えられた特別な祈りの部屋なのです。神様は、そこであなたが神の救いにのみ依り頼む者となることを待っておられます。

227

こう言っても、あなたたちの神、主をあなたたちは信じなかった。

(旧約聖書『申命記』1章32節から)
 神の愛が信じられない兄姉姉妹たちへ。「こう言っても・・・あなたたちは信じなかった」と言われています。神様は決して沈黙しておられたのではありません。何度もあなたに愛を語りかけておられたのです。しかし、あなたはそれを信じませんでした。愛は信じなければ受け取ることはできません。受け取らなければ、約束も、祝福も、慰めも、導きも、何一つあなたのものになりません。あなたを愛する神の言葉も信じましょう。神の言葉は、この世で最も信じずるに値するものなのです。

228

なぜ、この人を困らせるのか。わたしによいことをしてくれたのだ。

(新約聖書『マタイによる福音書』26章10節から)
 イエス様にナルドの香油を捧げた婦人は、自分の持てる最高の捧げ物をしたにも関わらず、弟子たちから「もったいない、無駄だ」と非難されてしまいました。しかし、イエス様は「この人は私によいことをしてくれた」と、その厚意を有り難く受け取り、弟子たちの非難の声から彼女をかばわれました。あなたの主に対する奉仕、捧げ物も、時として的外れになってしまうかもしれません。しかし、イエス様はそんなことは気になさいません。どんな時も、あなたの愛を喜んで受け取ってくださいます。うれしいではありませんか。

229

主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。

(旧約聖書『イザヤ書』34章16節から)
 迷うときも、苦しいときも、さびしいときも、聖書を読みましょう。聖書は、あなたへの愛と導きに満ちた神様のお言葉です。聖書を読んでもすぐに答えがみつからない時もあるかもしれません。それでも、聖書を読み続けてください。大切なのは、聖書にある文字を追うことではなく、そこで語りかけておられる神の声を聞くことです。耳を澄ませ、心を神様に傾け、祈りつつ、聖書を読んでみてください。きっと、神様はあなたの魂に力強く、優しく、生き生きと語りかけてくださるはずです。

230

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

(新約聖書『ガラテヤの信徒への手紙』3章26節から)
 万事に抜け目ない息子と、何をやっても駄目な息子がいたとします。しかし、もし真の愛を持つ父親であるならば、二人の息子にかける愛情に少しの優劣もないでしょう。父親は等しい愛をもって、二人の息子たちをそれぞれにふさわしく仕方で養い、教育し、保護するでありましょう。何ができるか、できないではなく、息子であるということに意味があるからです。クリスチャンも同じです。私たちは皆、等しく神の子供です。何が出来るとか、出来ないとか、それで私たちに注がれる神の愛に変化はありません。

231

慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』1章3節から)
 日々の労苦を慰めるもの、それは大好きな音楽に身を浸すこと、草花を愛でること、動物を可愛がること、美酒に酔うこと・・・。否、それは「慰め」ではなく「気休め」です。一時をやり過ごすための安定剤、カンフル剤です。本当の慰めとは、嫌なこと、辛いことから目を逸らす術を持つことではなく、それと向き合って生きる魂の揺るぎなさ、力強さを得ることではないでしょうか。聖書の神様は、そのような本当の慰めを、私たちの人生に与え、豊かに満ちあふれさせてくださる御方です。

232 信仰生活の秘訣

愛のおのづから起こる時まで殊更に喚起し且つ醒ますなかれ。

(旧約聖書『雅歌』8章4節(文語訳))
 博愛主義などというのはどだい無理な話だと、私は思います。愛するとは、他にまさってその人を大切にするという事だからです。不平等は愛の宿命です。皆を同じように愛するというのは、誰も愛さないのと大差がありません。神様は、皆を同じように愛せと言っておられるのではなく、私たちに愛すべき人達を与え、その人達を心を込めて愛し、愛し通しなさいと言っておられるのです。いたずらに愛を叫ぶのではなく、私が愛すべき人を本当に愛しているかどうか、そのことを顧みることも必要なのではないでしょうか。

233 苦難の意味

我わがもろもろの山を路とし わが大路をたかくせん。

(旧約聖書『イザヤ書』49章11節(文語訳))
 「わがもろもろの山」と、神様は言われます。私たちの人生の旅路に立ちはだかる多くの障害物は、実は神の山々なのかもしれません。なぜ、神様はあなたの道に障害物を置かれるのでしょうか? それはあなたの人生が、決して自分の思い通りに生きるためのものではなく、神があなたのために開かれた栄光の道を歩むためのであるということを知らせるためなのです。ですから、あなたの前に立ちはだかる山々を見て、絶望してはいけません。そこにはあなたを高きところに導く、神の大路があるからです。

234 信仰生活の秘訣

あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』14章16節)
 まことに残念なことですが、独善的なクリスチャンが存在します。信仰にも、祈りにも、奉仕にも熱心でありながら、それが人々を励まし、生かすものとならず、かえって人を裁き、苦しめ、悩ませてしまう人がいるのです。このように自分で善いと信じ、行っていることが、他の人々を苦しめている場合、なかなか本人はそれに気がつきません。自分ではなく、周囲の人々が悪いのだと思ってしまうのです。その人に足りないのは愛です。自分の信念にではなく、愛に従う者になるように、いつも気をつけましょう。

235 創造主なる神

主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間を流れさせられた。

(旧約聖書『詩編』104編10節)
 10日間の長い夏休みをいただき、一年に一度の帰省をしてまいりました。新しい道路が通り、大型スーパーが進出し、私が住んでいた頃とはずいぶん様子が変わってしまっているのですが、実家のすぐ裏には鮎が泳ぐ清流があり、そこから見る緑深き山々、至るところに咲き誇る白百合の花、夜空の星の美しさは、今も変わることなくそこにあり、心癒される思いでした。神様はこのように雄々しく、優しく、美しい天地をお造りになりました。大いなる神の御業を讃えると共に、その自然を破壊してやまない人間の罪深さを思います。

236 人生の慰め

神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。

(新約聖書『ヨハネの黙示録』7章17節(口語訳))
 「昼も夜も、私の糧は涙ばかり」(詩編42編2節)と、いにしえの詩人は歌っています。嗚呼、世の中には毎日、毎晩、どれほど多くの涙が流されていることでしょう。苦しみの涙、悲しみの涙、絶望の涙、悔し涙、後悔の涙・・・・愛なる神様は、そのようなわたしたちの流す涙に無関心でおられません。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。」(イザヤ書38章5節)と言ってくださるお方です。そして、わたしたちを天に迎えてくださる時、わたしたちの涙をきれいに拭い取ってくださるのです。

237 あなたの価値

イエスは、わたしたちのために、命をすててくださいました。

(新約聖書『ヨハネの手紙1』3章16節)
 人から評価されたいという気持ちは誰の心の底にも横たわっています。しかし、あまりそれに拘りすぎると、試験の点数ばかりを追い求め、学ぶことの本来の楽しさや喜びを感じ得ない受験生のようになってしまいます。あなたは人の評価を気にしすぎるあまり、生きることに息苦しさを感じ、屈託のない自分らしい生を生きることができなくなっていないでしょうか。あなたは、人の評価などまったく気にする必要はないのです。誰が何と言おうと、あなたの存在の価値は、「主は我らの為に命を捨て給へり」ということによって保証されているからです。

238 祈りについて

あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。

(新約聖書『マタイによる福音書』6章6節)
 「静けき祈りの時はいと楽し」という讃美歌があります。祈りとは神様との交わりです。信仰者が祈りを大切にし、楽しみとすることはとても自然な姿です。しかし、もし祈らない信仰者がいるならば、その人は神様との交わりを拒絶しているのです。毎日、仕事の打ち合わせし、友達とおしゃべりをし、家族と団らんを大切にしていながら、自分の部屋で神との交わりの時を持とうとしないということは、何とも不自然なことではありませんか。そのような信仰者は、本当に神様を愛していると言えるのでしょうか?

239 

友人の優しさは自分の考えにまさる。

(旧約聖書『箴言』27章9節)
 自分なりの信念、生き方に自信をもって生きている人はとても頼もしく見えます。しかし、悩み多き人生ではその自信が崩れてしまう時もあるでしょう。そんなとき、私たちを励ましてくれるのは、高邁な思想ではなく、友達の温かい言葉やちょっとした気遣い、親切なのではないでしょうか。ゲーテは「空気と光と、そして友達の愛、これだけ残っていたら、弱りきってしまうな」とも言っています。友達を大切にしたいものです。そして、私たちもそんな良き友になりたいものですね。

240 

空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。

(旧約聖書『エレミヤ書』8章7節)
 もうずいぶん長い間、ツバメが飛ぶ姿を見ていないような気がします。子供の頃には、よくその流れるような低空飛行に見とれたものです。そのツバメも十月になると突然姿を消します。南の国に飛び立っていくのです。しかし、ツバメは死んだ、もう帰ってこないと嘆くことはありません。春になったらまた帰ってくるのです。同じように冬が樹々の葉を落としても、樹が死んだのではありません。太陽が雲に隠れても、太陽がなくなったと言ってはなりません。「忍びて春を待て、雪は溶けて花は咲かん」(讃美歌291番)。人生には神の摂理を信じて待つことがしばしば必要なのです。


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