201

ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。

(旧約聖書『歴代誌下』26章15-16節から)
 ウジヤは16歳で王様になった人です。その未熟さが、自信のなさが、彼を謙遜にし、主に頼る人間にしていました。しかし、自分が強くなり、成功を収めると、神様の恵みを忘れ、自分の力を誇り、自分が神であるかのように傲慢に振る舞うようになって、自らを滅ぼすに至ってしまったのです。自らを低くする人を、神様は高めてくださいます。他方、自らを高ぶる人に対しては、神様は御力をもってそれを砕かれます。豊かな時、順調な時にこそ、神の前に遜り、恵みに支えられていることを感謝できる人間になりたいと思います。

202

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

(新約聖書『ヨハネの黙示録』3章20節から)
 これは祈りについての教えです。第一に、祈りは、あなたの心の扉を開き、イエス様をあなたの内にお迎えすることです。第二に、その交わりを望んでいるのはあなたではなくイエス様ご自身です。イエス様は、あなたが祈り、心の扉を叩いて、あなたのうちに迎え入れてくれるのを忍耐強く待っておられるのです。第三に、あなたの祈りを求め給うイエス様の目的は、あなたと霊的な食事を備え、命と愛を分かち合うことにあります。祈りはあなたが恵みを得る手段ではなく、祈りそのものがあなたの恵みの時なのです。

203

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

(新約聖書『ヨハネの手紙1』3章1節から)
 私たちが「神の子供たち」と呼ばれることは、神さまからの贈り物です。この贈り物はイエス様と共に私たちに贈られました。あなたは神の子供たちとして神さまに愛されていることを知っていますか。その喜びを、心強さを、自分のものとなさって生活していますか? まだであるならば、今すぐ心を開いてイエス様をあなたの友としてお迎えしてください。神さまの贈り物を受け取るために良い行いも、たくさんの献金も必要ではありません。ただそれが自分のものであることを信じるだけで良いのです。 

204

この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

(新約聖書『マタイによる福音書』10章42節から)
 尾久本町通でバスを降りたものの、傘を持たずに困っている長女を見て、親切にも声をかけ自宅まで送ってくれたご婦人がいたという話を聞きました。悪い話、悲しい話ばかり巷に溢れる昨今、久々にいい話を聞いてうれしくなりました。数年前、私も正月早々に財布を落としてがっかりしていますと、それを拾った人が親切にも交番に届けてくれたため、無事に戻ってきました。愛の業はコップ一杯の水から始まります。このような小さな親切が世に溢れるならば、どんなに明るい世の中になることでしょうか。

205

それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙1』2章5節 から)
 「なるほど、哲学を少しばかりかじると、人間の心は無神論に傾くが、しかし、哲学を深く究めると、再び宗教に戻る」と言ったのは、イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561-1626)です。確かに哲学や科学など実証的説明を大切にする学問の面白さを経験しますと、実証を伴わない信仰を要求する宗教に疑いや抵抗感を覚えるようになることがあるのです。しかし、存在の意味、苦難の中の希望、愛の喜び、そのような人間の生活にとって最も大切だと思われる事は、すべて本気で信じるということなくして得られません。信じなくては、自分の存在の意味すら分からなくなってしまうのです。

206

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。

(旧約聖書『詩編』118編6節から)
 恐れや不安は誰にも襲ってくるものです。しかし、そのような時にも、私達は心から恐れを閉め出し、不安を払拭することができる一つの確信を持つことができます。主はわたしの味方、砦。主が味方であるならば誰もわたしの魂を傷つけることはできない。ということです。たとえ祈りが聞かれない時であっても、そのことを疑ってはなりません。主は、私達が祈ったこと以上の良き方法で、私達を助け、守ろうとしてくださっているに違いないのです。恐れや不安の中に留まらず、この主にある確信にこそ留まる者になりましょう。

207

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙2』4章8-9節から)
 この聖句を読んで、ある人がこのように言いました。「わたしたちはノック・ダウンさせられても、ノック・アウトはしない」と。信仰者であっても、苦難に打ちのめされることはあります。けれども、必ず立ち上がることができます。なぜなら、神様が私達に与えてくださる希望は何があっても消えることないからです。この希望は、私達が何かを望み得る力によって持つのではありません。主の力、主の真実を望む信仰の力によって与えられるのです。

208

あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』17章22節から)
 主の贈り物は、何と豊かで限りないものでありましょうか! ひと言で言えば、主と同じものを、あなたにもお与え下さるということなのです。主の食卓から落ちるパン屑を戴けるだけでも、あなたの飢え渇き、必要を満たすのに十分かもしれません。しかし主は、あなたを食卓の下の仔犬としてではなく、席を並べて食卓につく家族として見てくださっています。それはあまりに想像を絶することなので、あなたは主の贈り物を小さく見積もり過ぎているかもしれません。しかし、主の願いは、あなたがその全てを自分のものとして喜びに満ちあふれることにあります。

209

わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。

(旧約聖書『出エジプト記』5章22-23節から)
 モーセは神の命に従い、ファラオに民の解放を迫りました。その結果、ファラオはますます意地悪に民を苦しめることになってしまいます。モーセの信仰はぐらつきます。御言葉に従ったのに、どうしてうまくいかないのか? 自分は神に裏切られたのか? 神よりファラオの方が強いのか? そうでないことを私達は知っています。すべては神のご計画の中にあり、御業が必ず成し遂げられるのです。しかし、誰がモーセを責められましょうか? 私達の信仰がひるむのもこのような時です。信仰にしがみついて最後まで御言葉に従い続ける者でありましょう。

210

「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」、と言い、イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。

(旧約聖書『民数記』13章31-32節から)
 偵察隊はエシュコルの谷から大きな葡萄の房を持ち帰り、「神様が私達に与える約束してくださった土地を見てきました。それは乳と密の流れる地です。これがその果物です」と、報告しました。荒れ野の主の民は、その二人懸かりでなければ運べないほど大きな葡萄の房に驚き、それを分け合って味わいました。もし、彼らが神様の約束の真実なることを信じて、約束の地に分け入る事をしたならば、一房の葡萄を味わうだけではなく、葡萄畑そのものを、あるいはもっと豊かで多くのものを自分のものにする事ができたでしょう。しかし、彼らはそれをしませんでした。御言葉を信じなかったからです。

211

「この人はできるかぎりのことをした。」

(新約聖書『マルコによる福音書』14章8節から)
 ある婦人が、ナルドの香油をイエス様に惜しみなく注ぎました。イエス様は、この婦人の行為を心から喜んで受け取られました。イエス様が喜ばれたのは、献げられた香油が極めて高価なものだったからではありません。それが何であれ、できるかぎりのことをもって愛を表してくれたことを、イエス様はこの上なく喜ばれたのです。私たちも何かできることがあるはずです。人によってできることは違いますが、どんなことでも、自分のできるかぎりのことをもってすれば、イエス様は等しく私達を心からお喜びくださいます。

212

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」

(旧約聖書『出エジプト記』14章13節から)
 進むこともできず、退くこともできず、左右に逸れることができない四面楚歌の日があります。どこを見ても自分を苦しめる問題ばかりの中で、自分を落ち着かせ、恐れを取り払い、救いの希望をしっかりと持つ者となるためにはどうしたら良いのでしょうか。静かに目を閉じることです。目を閉じれば、どんな恐ろしい敵も目の前から消え去ります。そして今まで恐れの為に見えなくなっていた神の力強き御臨在が見えてくるでしょう。苦しめる問題ではなく、自分を救ってくださるお方に目を注ぐのです。どんな時にも見えるものではなく、見えない現実を見て、そこにしっかりと立つのが信仰です。

213

主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。

(旧約聖書『詩編』95章5節から)
 私達の喜びは、自分のうちに何があっても絶望しないような可能性を持っていることにあるのではありません。絶望しても、神様が私達の希望となってくださることにあるのです。また、私達の喜びは、自分が一つも罪を犯さないでいられることにあるのではありません。私達の罪を赦し、清め給う神様の慈愛と峻厳を仰ぐことができることにあるのです。私達の喜びは、自分自身の持っているもの中にあるのではありません。たとえ私達が何も持たない人間であっても、神様が与えてくださることにあるのです。

214

主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。

(旧約聖書『詩編』5編9節から)
 神様の道をまっすぐに歩みたいと、ダビデは願います。しかし、その為にはどれほど注意深く歩まなければならないことでしょうか。世の中の価値観は、神の国の価値観と異なります。この世の知恵や力は、神の国の知恵や力に逆らっています。この世にあって神さまの道をまっすぐに歩んでいく為には、そのようなこの世の価値観、知恵、力に、私たちの心や考えが呑み込まれないように常に注意しなくてはならないのです。だからこそ、日々、神様の恵みの御業のうちに守られ、導かれるように祈りたいと思います。

215

支配者の御機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。

(旧約聖書 『箴言』29章26節から)
 人の気持ちに配慮し、優しさをもって接することは必要です。しかしそれは、人の顔色をうかがい、媚びへつらうこととは違うでしょう。前者は相手の身を思いやってのことであり、後者は自分の身を守るためです。聖書は、あなたが本当に自分の身を大事にしようとするならば、人の顔色をうかがう者ではなく、神様の顔色をうかがう者にならなくてはいけないと言っています。あなたの身を守るのも、裁くのも、人間ではなく、神様なのです。

216

わたしの神によって、城壁を越える。

(旧約聖書『詩編』18章30節から)
 私たちひとりひとりの人生にも、世の中の将来にも、行く手を阻む多くの障壁が立ちはだかっています。人の知恵と力を頼みとする者は、その壁の前で絶望し、立ち往生する他ないでありましょう。しかし、ダビデは人生のどんな障壁を前にしてもひるみませんでした。神の知恵と力を頼みとしていたからです。神を信じる者には絶望はありません。神さまは山を海に動かすこともおできになるお方だからです。自分には何の知恵も力もなくとも、神によってならばどんな障壁も乗り越えて進むことができるのです。

217

心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

( 新約聖書『ヤコブの手紙』1章21節から)
 日々、聖書に親しんでおられる兄弟姉妹たち。御言葉を学びつつも、なかなか人生の問題を解決できないでいるということはないでしょうか。御言葉は、それを学ぶだけでは本来の力を発揮することはできません。御言葉が、私たちの心の運転席に座り、私達を動かすドライバーとなるときに、御言葉は本来の力を発揮し、あなたを救いへと導くのです。御言葉を聞くだけではなく、心に備えるだけではなく、御言葉によって生きる者になることが肝心なのです。

218

自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いがなければ、何の役に立つでしょうか。

( 新約聖書『ヤコブの手紙』2章14節から)
 「信仰を持っている」と口で言うだけならば、誰にでも出来ます。しかし、信仰は自分なりの思惟や信念を持つことではありません。自分の考えを捨ててでも、神様の御心を知り、それに全身全霊をもって応答することこそ信仰です。感謝、讃美、奉仕、従順・・・そのような生き生きとした神への応答がわたしたちの生活になければ、いくら「信仰を持っている」と言っても、その信仰は絵に描いた餅です。絵に描いた餅では私達の飢え渇いた魂は救われません。わたしたちを生かす本当の信仰を持ちましょう。

219

自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いがなければ、何の役に立つでしょうか。

( 新約聖書『ヤコブの手紙』2章14節から)
 「信仰を持っている」と口で言うだけならば、誰にでも出来ます。しかし、信仰は自分なりの思惟や信念を持つことではありません。自分の考えを捨ててでも、神様の御心を知り、それに全身全霊をもって応答することこそ信仰です。感謝、讃美、奉仕、従順・・・そのような生き生きとした神への応答がわたしたちの生活になければ、いくら「信仰を持っている」と言っても、その信仰は絵に描いた餅です。絵に描いた餅では私達の飢え渇いた魂は救われません。わたしたちを生かす本当の信仰を持ちましょう。

220

この書(ふみ)の預言の言を封ずな、時近ければなり。

( 新約聖書『ヨハネの黙示録』22章10節<文語訳>から)
 聖書の最後に記されているのは、御言葉は必ず成就するという約束であり、従ってこれらの言葉を決して封じてはいけないという教えであり、「主よ、来たりませ」との祈りであります。特に「この書を封ずるな」とは、いつも聖書を開き、神の約束があなたの前に明らかになるようにし、いつでも、どこでも、そこにこそあなたの望みをかけて生きなさいということでありましょう。新しい年も、私達は毎日聖書を開き、御言葉によって支えられ、導かれて、愛する主とお会いする日に望みに生きる者でありたいと願います。


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