181

見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。

(旧約聖書『創世記』8章11節から)
 洪水がひき始めた頃、ノアは箱舟から一羽の鳩を放ちます。一度目は、鳩は止まる所を見つけられずにそのまま舟に帰ってきました。一週間後、ノアは再び鳩を放ちます。すると鳩はオリーブの葉をくわえて戻ってきました。このオリーブの葉は、どんなにノアを喜ばせ、慰め、励ましたことでありましょうか。この一枚の葉は、神がいつも私達を覚えていてくださるという印であり、神の救いは近いという希望の印でした。試練の中で祈り続ける兄弟姉妹たち、神は今も私達をもこのように激励してくださるのです。

182

キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる・・・

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』1章5節から)
 「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのよう行い、キリストのように愛そう」という讃美歌があります。キリストの命が私たちの内に溢れてきて、その命の力によって生かされるようになる。それがキリストに結ばれたクリスチャンの人生でありましょう。しかし、キリストの命は多くの苦しみと悲しみを嘗め尽くされた命です。キリストと結ばれて生きるとは、キリストの苦しみや悲しみをも経験することを意味するのです。苦しみの中にある兄弟姉妹たち、今あなたはキリストの命を生きているのです。どうか、そのことをあなたの勇気としてください。

183

どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。

(旧約聖書『詩編』108編13節から)
 「人間の与える救いは空しい」と書かれています。しかし、私達は逆に、「神様の救いは遅い」と訴えたくなる時があります。私たちは苦しみの中にいつまでも留まっていたいとは思いません。だからこそ性急に、手っ取り早い救いを掴もうと手を伸ばしてしまうのです。しかも、ひとつではなく、あっちにもこっちにも・・・。しかし、その結果はいかがでしょうか。「人間の与える救いは空しい」ということを身をもって知るのではないでしょうか。やはり御言葉は真実なのです。神の救いを、ただそれだけを待ち望みましょう。

184

主の威光は我らのために現れる。そこには多くの川、幅広い流れがある。

(旧約聖書『イザヤ書』33章21節から)
 主を待ち望む季節を迎えました。私達は、二千年前にイエス様がお生まれになったその喜びを祝う日を待ち望みつつ、この時を過ごします。それだけではなく、今なお暗きの中にあるこの世界に、未だ隠されている主の恵みがいよいよ明らかにされることを切実な祈りとしつつ、この季節を過ごします。「主の威光は我らのために現れる。そこには多くの川、幅広い流れがある。」主の許から流れ出る多くの祝福の川があります。その川が世界の隅々にまで流れ来て、人々がその川から命の水を汲んで飲むことができますように。

185

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』14章6節からから)
 二つの場所を一つにつないで、そこに交流を与えるのが「道」の役目です。人間は、時にはトンネルを掘り、橋をかけ、海の道、空の道まで切り開き、世界中の場所という場所を結びつける道を敷いてきました。人間には、そのように自分の外部の世界への拡がっていこうとする願望があるのでしょう。しかし、人間の力では決して敷くことができない道があります。それは人間の世界と神様の世界を結びつけ、その交流をもたらす道であります。それは神様が与えてくださった道、イエス様に結ばれる以外にないのです。

186

少女は死んだのではない。眠っているのだ。

(新約聖書『マタイによる福音書』9章24節から)
 イエス様は人間の目によってではなく、神の目によって、人の生死を見極められます。神の前に死んだ人は、イエス様とて生かすことはできません。けれども、生ける者と死ねる者を裁かれる神の日はまだ来ていません。ですから、たとえ生ける屍のごとくあろう魂であっても、肉体的に死んだ魂であっても、「眠っているだけである」と、イエス様は仰ってくださるのです。神の前にまだ死んでいない人は、まだ生きています。そのような命を、再び目覚めさせ、生かすために、イエス様は世にいらしてくださいました。

187

東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

(新約聖書『マタイによる福音書』2章9節から)
 クリスマスが近づいてきました。とはいえ、私たちの生活は年末の慌ただしさに追われ、世の中は相変わらず悲しみと悩みに満ちています。クリスマスの喜びは、そのような暗さの中に神様が一筋の光を与えてくださることにあります。その光は、この暗き人の世にあもり給う神の御子、救い主イエスを常に指し示します。この世界がどんなに暗くても神なき望みなき世界ではなく、なお神が愛し、見守り給う世界であることを見いだした喜び。それがクリスマスの喜びではないでしょうか。

188

言葉で言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』9章15節から)
 神様は、私たちの世界に、イエス様という素晴らしい贈り物をしてくださいました。それは私たちが喜びに溢れるためです。しかし、この贈り物にまったく無関心な人がなんと多いことでしょうか。無関心な人はどんなに素晴らしい贈り物を戴いても喜びなく感謝なく過ごすほかありません。人生を虚ろに生きている人よ、イエス様のうちに隠されている神の素晴らしい贈り物を見いだしてください。それはあなたのものです。あなたがそれを自分のものにすることこそ、神様の願いなのです。

189

それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。

(旧約聖書『申命記』11章12節から)
 新年おめでとうございます。神様はこの一年、私たち一人一人にどんな運命をご用意くださっているのでしょうか。ちょっと不安を感じないでもありません。しかし、神様は年の初めから終わりまで、その上に常に目を注いでくださると約束してくださいました。頼もしいことではありませんか。この一年、喜びの日も、悲しみの日も、神様の顧みが私たちの上にあることを思い起こして、強く雄々しく歩んで参りましょう。

190

マリアは良い方を選んだ。

(新約聖書『ルカによる福音書』10章42節から)
 人生には選択しなくても向こうから否応なしにやってくる運命的な出来事があります。病気、事故、災害・・・しかし、その運命をどのように受け止めて生きるかは、私たちの選択にかかっているのです。運命を呪い、不幸をかこち、望みなく、自滅的な人生を送る人の気持ちもわかります。けれども、道はそれだけではありません。苦難の中にも神の愛を信じ続け、希望を失わずに生きていく人生を、私たちは選ぶことができます。運命は選ぶことができませんが、その運命の受け止め方は私たちの選択なのです。この霊的な選択によって幸・不幸が決まります。

191

わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』4章7節から)
 もろく壊れやすい土の器。それが人間である、と聖書は申します。確かに私たちは打撃に弱いたいへんデリケートな存在なのです。ちょっとした肉体的、精神的ストレスを受けると、たちまち壊れてしまう弱さ、もろさをもっているのです。自分がそのような存在であるだけではなく、私たちの家族や友人たち、教会の兄弟姉妹たちもまた、そのように傷つきやすい存在であることを知ることが大切です。どんな相手に対しても、弱さを思いやる繊細な心と優しい目を忘れないようにしたいものです。

192

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。

(旧約聖書『イザヤ書』53章3節から)
 私たちの主は多くの悲しみと苦しみを、身をもって知られた御方です。それゆえ、主のお心には、憂いをかこつ人々、弱さに打ちひしがれる人々に思いやりと優しさが満ちておられるのです。今、悩みを知る兄弟姉妹たち、悲しみを知る兄弟姉妹たち、そのような主があなたがたの嘆きを聞き、その苦しみを余すことなく知っていてくださることを慰めとしてください。主だけは、あなたのことを分かっていてくださるのです。

193

打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。

(旧約聖書『哀歌』3章30節から)
 愛する人の思いがけない言葉や態度によって深い傷を負うことがあります。理解されない孤独、誤解される悲しさ、不当な仕打ちに対する憤り。このやり切れない思いをいかに晴らそうかと、あなたの心はいっぱいになるでしょう。しかし、そのような時にこそ神の御心を思う信仰が必要です。主は、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言われました。恨みによって何が解決するでしょうか? しかし、それを神に授けられた苦い杯として、信仰をもって飲み干すならば、神に望みを持つことができます。

194

若いときに軛(くびき)を負った人は、幸いを得る。

(旧約聖書『哀歌』3章27節から)
 私が若き魂たちに願うのは、「しっかりした人間になって欲しい」という事です。それは、先生から褒められるお行儀のいい子になる事ではありません。失敗や挫折をしない出来のいい子になる事でもありません。どんな人にも必ず思い通りにならない試練の日が訪れます。そんな時にもなお踏ん張る事ができる心の強さ、将来に対する希望を持って人生を切り開いていく事ができる魂の力を身につけて欲しいのです。その為には、いかなる日にも私たちに注がれて止むことのない神様の愛がある事を、若き魂たちがしっかりと覚えて欲しいと切に願います。

195

陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。

(旧約聖書『詩編』139編8節から)
 今まで見えていたものが見えなくなり、感じていたものが感じられなくなり、信じていたものが信じられなくなる。そのような中で、将来への茫漠とした不安、現実への術なきことから来る絶望、積み重ねが失われていく虚無に捕らえられた事がないでしょうか。自分がまったく孤独な存在、無価値な存在に思えて怯えた事はないでしょうか。そのような時、そのような所にも、神様はあなたと共にいてくださいます。それが分かった時、あなたはどんな闇にも消されることのできない大いなる光を持つことができるようになるのです。

196

それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。

(旧約聖書『詩編』102編27節から)
 マンションの耐震強度偽装事件やライブドアの粉飾決算事件を見て分かるように、世の中にはとんでもない大嘘が横行しています。そのような嘘を信じ、嘘を頼みにして生きている人々は、それが明るみに出された時、人生が音を立てて崩れていくような恐ろしい目に遭うことでしょう。いや、決して人ごとではありません。私たちが信じている健康も、仕事も、家族も、財産も、いつ奪われるか分からないのです。しかし、すべてのものが過ぎ去っていく時にも、決して私たちから失われないものが一つだけあります。それが永遠なる神様なのです。

197

神の民の為になほ安息は遺(のこ)れり。

(新約聖書『ヘブライ人への手紙』4章9節から)
 神様を信じて生きているからといって、我が身に起こることは何でも善いことばかりというわけではありません。それどころか、これでもかと言わんばかりの厳しい試練に遭われる兄弟姉妹たちがいます。けれども、そのような苦しみや悲しみの中であっても、神様は必ずどこかで神様の愛と恵みを思う経験させてくださり、人知を超えた魂の安息を与えてくださるのです。神の民のためになお安息は遺れり!今週も、この力強い御言葉に支えられて悩み多き世の旅路をしっかりと歩んで参りましょう。

198

イエス涙をながし給う。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』11章35節から(文語))
 私たちの救い主は、「悲哀(かなしみ)の人にして病患(なやみ)を知れり」(イザヤ53:3 文語訳)と言われた御方でありました。「我らの弱(よわき)を思ひ遣ること能はぬ者にあらず」(ヘブライ4:15)とも言われた御方でした。「彼は御子なれど、受けし所の苦難(くるしみ)によりて従順を學び給へり」(ヘブライ5:8)とも言われています。このような主の悲しみ、苦しみは何の為、誰の為であったでしょうか? それは、私たちの悲しみを知り、病を知り、苦しみを知って、慰め、助け、癒さんとする為でありました。主の愛に満ちた御苦しみを思い、感謝を捧げましょう。

199

神の愛によって自分を守り・・・。

(新約聖書『ユダの手紙』21節から)
 幼子は両親の愛に全幅の信頼を寄せています。そのようにあなたも、あなたを取り囲んでいる神様の多くの愛に心からなる信頼を寄せてください。そうすれば、小さなことにくよくよと悩むことは今よりずっと少なくなるでしょう。自分の思い通りに進まない人生に対してイライラすることも減るでしょう。あなたを不愉快にさせる者たちに対してもおおらかな気持ちをもてるでしょう。罪の誘惑に対しても自制心が起こってくるでしょう。神様はいつもあなたを愛しています。あなたの生活の中に、神様の愛のお守りがあることをもう一度よく確認してみましょう。

200

わたしの目の覆いを払ってください。

(旧約聖書『詩編』119編18節から)
  「一見は百聞にしかず」と言います。けれども、私たちの目はそんなに当てにしてよいものなのでしょうか。毎日顔を合わせているのに、その人の苦しみを見抜けないことがあります。それを見るためには視力だけではなく、愛の力が必要なのです。神様の御業もそうです。この世界にも、私たちの人生にも、神様の驚くべき御業が行われているというのに、私たちはそれを見ることができないばかりに、恐れや不安、悲しみや失望をばかりをしてしまいます。神様の御業を見るためにも視力だけではなく、信仰が必要だからです。

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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401 Email: yuto@indigo.plala.or.jp