■ 神様と共にいる
信仰生活というのは、神さまの近くにいるようで離れており、かけ離れているようでそばにいる、そういう生活です。
たとえて言うならば、私たちは鉄棒にぶらさがるように、天国の端っこに掴まってぶら下がっているようなものではないでしょうか。天国にはい上がってしまえば楽なのだけれども、指先だけで体の重みを支えているからたいへんなのです。
その指先というのが信仰のことです。信仰だけが辛うじて天国の端っこを掴んでいます。そして、そこに全身の重みがかかるのです。それは肉の重み、つまり「罪」の重みです。罪の重みは、天国にぶらさがる私たちを引き落とそうします。それにようやくのことで耐えている。これが、私たちの信仰生活ではないでしょうか。
これでは、私たちの信仰は必死ではあっても、大胆にはなりません。よく我慢するものであっても、喜びにあふれたものにはなりません。本当に、それが信仰生活なのでしょうか。いいえ、違います。まったく違うのです!
■ 神様が共にいてくださる
必死で天国を掴んでいると思っているその手を、実は神さまがしっかりと掴んでいて下さるのです。私たちが神さまと共にいるのではありません。神さまが私たちと一緒にいてくださるのです。
そのことが分かるとき、自分ががんばるのではなく、神さまの力に任せる信仰があふれてきます。それが喜びの信仰となり、大胆な信仰となって、神の愛と恵みを世に証しするのです。
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