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ヨセフの父、ヤコブは年を取り、病にかかり、ベッドに寝たきりの状態になって、その最期の時を迎えようとしています。前回は、そのヤコブが最後の力を奮い立たせて、ベッドから起きあがり、見舞いに来てくれたヨセフとその子供であるマナセとエフライムを祝福したという話でありました。
今日お読みしたのは、その後の話です。ヤコブはヨセフ等を祝福した後、他の息子たちをベッドの周りに呼び寄せました。そして一人一人の名前を呼びながら、別れの言葉を遺したのです。
その別れの言葉について、1節を見ますと、それは子供たちの将来に対する預言の言葉であったと言われています。
ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。」
「後の日に起こること」というのは、息子たちが生きている間のこととは限りません。もっと遙かに先のこと、たとえば400年後に子孫が主の憐れみによってカナンの地に帰ったとき、どのような運命が待ち受けているか、そんなことも含んだ話です。
そうかと思えば、最後の28節をみますと、これは祝福の言葉であったとも言われています。
これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。
祝福というのは幸せを祈ることであります。しかし、これから内容を確かめていきますが、実はこのヤコブの別れの言葉のなかには、「長子の誉れを失う」とか、「奴隷に身を落とす」とか、祝福というよりも呪いではないかと思えるような内容を含んでいるのです。
どうして祝福の中に呪いがあるのでしょうか。それを理解するためには、「おのおのにふさわしい祝福」という言葉が大事になってきます。「ふさわしい」というのは、「つり合いのとれた」という意味です。人生というのは、一見するとたいへん不公平にできているように思うことがあります。悪いこともしていないのにたいへんな苦労をする人もあれば、悪いことをしながら栄えている人もいる。しかし、そういう不公平は、必ず神様によって是正される、そしてそれぞれの生き方とつり合いがとれたものになる、ということなのです。たとえば苦労した者は報われるし、悪いことをした人は裁きを受けることになる。1節で、「後の日に起こること」と言われているのは、そういう神様の裁きを見据えての話ということなのでありましょう。
そういう意味からしますと、このヤコブの言葉は、祝福というよりも裁きと言った方がいいのではないかと思えます。しかし、聖書はこれは裁きではなく、やはり祝福だと言っている。つまり裁きを含んだ祝福なのであります。裁きはある。しかし、裁きがあっても、なお祝福が残る。それが裁きを含んだ祝福であります。
ヤコブはそのことを固く信じておりました。信じていたというよりも、それがヤコブの人生の実感だったのではないでしょうか。ヤコブの人生も罪深い人生でありました。そのために、ヤコブは二度も、約束の地を追われることになります。一度目は、父イサクと兄エサウを騙し、祝福を奪い取った時です。彼は家にいられなくなり、叔父ラバンの家に逃れていきます。そして、ようやくそこから帰ってくるのですが、今度は大飢饉のゆえに約束の地を離れ、エジプトに逃れることになり、そこで今、息を引き取ろうとしているのです。
自分の遺体は、必ず約束の地に葬って欲しいと遺言するほどに、だれよりも約束の地にこだわり、それを受け継ぎたいとの望みをもっていたヤコブでありますが、その約束の地から遠く引き離されたエジプトの地で最期をむかえなければならくなってしまったのは、ヤコブの罪に対する神様の裁きであったと言うこともできるでありましょう。しかし、神様の祝福というのは、そのような厳しい裁きを差し引いても、なお余る祝福があるのです。
ヤコブは結局約束の地に安住することはできませんでした。しかし、決して何もかも失ったのではありません。死んだと思っていたヨセフが生きており、その子供らの顔を見ることもゆるされ、エジプトの地でこれ以上ないと言ってもよいほどの平和な晩年を過ごすのです。そして、なお約束の地の望みを固く抱き、それを子供らに託して死んでいくのです。
ヤコブは裁きを含んだ祝福を信じていました。それを実感していました。神の裁きはある。ヤコブは神への恐れをもってそのことを語ります。しかし、それでもなお、あなたには祝福が残されており、それを望み見て生きることが許されているのだということを、ヤコブは信じ、子供たちに贈る言葉としているのであります。そのなかには、祝福の言葉が見あたらないこともありますが、今申しましたように、全体として大きな祝福の中で語られている言葉であるということを覚えながら、その内容を検討して参りたいと思います。 |
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最初は長男のルベンに対する言葉であります。
ルベンよ、お前はわたしの長子
わたしの勢い、命の力の初穂。
気位が高く、力も強い。
お前は水のように奔放で
長子の誉れを失う。
お前は父の寝台に上った。
あのとき、わたしの寝台に上り
それを汚した。(3-4)
ヤコブは、ルベンを「わたしの勢い、命の初穂」と呼んでいます。初めての子が生まれた時の喜びを、ヤコブは忘れていません。その思いをもって、今もヤコブはルベンを見ているのです。しかし、ルベンは父親に対して大きな罪を犯しました。創世記35章に記されている話ですが、父親の留守中に、父の側女であるビルハと床を共にしたというのであります。「お前は水のように奔放だ」と、ヤコブは自分を抑えることができないルベンの弱さ命取りになることを警告します。そして、ルベンがこの罪のゆえに長子としての誉れを失うことになるというのです。事実、長子の特権は、ヨセフに与えられることになるのです。
次に、シメオンとレビについて語られています。
シメオンとレビは似た兄弟。
彼らの剣は暴力の道具。
わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。
わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。
彼らは怒りのままに人を殺し
思うがままに雄牛の足の筋を切った。
呪われよ、彼らの怒りは激しく
憤りは甚だしいゆえに。
わたしは彼らをヤコブの間に分け
イスラエルの間に散らす。(5-7節)
ここにも良いことは語られていません。この二人は、怒りを抑えることができず、怒りに任せて人を平気で殺してしまう残忍な人間だと言われています。背景には、おそらく創世記34章で物語られている事件があるのでありましょう。これもまたおぞましい事件なのですが、シメオンとレビにディナという妹がいました。そのディナを、その土地の有力者の息子が見初めてレイプしてしまうのです。その男と父親は、ヤコブにディナとの結婚を正式に申し込みますが、これを聞いて、シメオンとレビは、「自分たちの妹が娼婦のように扱われた」と逆上し、相手の一族の男たちをだまし討ちして皆殺しにしてしまったのでした。
ディナの受けた体と心の傷の深さを考えたら、シメオンとレビが怒り狂う気持ちもよく分かります。しかし、ヤコブは別の解決方法を取りたかったようです。イエス様は「剣を取る者は剣で滅びる」と仰いましたが、ヤコブも復讐の連鎖が起こることを恐れたのでありましょう。「困ったことをしてくれた。これで私達はこの土地に住む者たち皆から憎まれ者になり、いつ滅ぼされるか分からない身になってしまった」と、二人を諫め、一族は難を避けるために他の地に移り住むことになるのです。
シメオンとレビの気持ちは分かります。しかし、これでは平和を作り出すことはできません。神ご自身が復讐してくださるという場合は別ですけれども、人間が怒りに任せて復讐するというのは神の望み給うところではないのです。ヤコブは二人の後の日のことについて、「彼らをイスラエルの間に散らす」と言いました。その言葉のとおり、シメオンの部族はユダの部族の中に吸収されていました。またレビは祭司の民となる特別な栄誉を受けましたが、ヤコブの言葉も実現し、自分たちの嗣業の地を持つことはできなかったのであります。
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次に、ユダに対する言葉を見てみましょう。
ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。
あなたの手は敵の首を押さえ
父の子たちはあなたを伏し拝む。
ユダは獅子の子。
わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。
彼は雄獅子のようにうずくまり
雌獅子のように身を伏せる。
誰がこれを起こすことができようか。
王笏はユダから離れず
統治の杖は足の間から離れない。
ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。
彼はろばをぶどうの木に
雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。
彼は自分の衣をぶどう酒で
着物をぶどうの汁で洗う。
彼の目はぶどう酒によって輝き
歯は乳によって白くなる。(8-12)
ヤコブは子供たちへの祝福の中で、しばしば動物のたとえを用います。たとえばイサカルはロバ、ダンは蛇、ナフタリは雌鹿、ベニヤミンは狼と言われていますが、ユダは百獣の王である獅子(ライオン)だと言うのであります。これは、ユダが王の部族であることを預言しているのでありましょう。イスラエルで王といえばダビデですが、ダビデこそはユダ族の出身でありました。
そして、さらに重要なことは「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」と約束されていることです。シロというのは、メシアを指す言葉だと考えられます。つまり、メシアがユダの部族から、つまりダビデの家系から出て、諸国の民を支配するようになるということを預言しているのであります。「ろばの子」というのは、イエス様がエルサレム入城の時にお乗りになったろばを連想させますし、「良いぶどうの木」という言葉は、イエス様がご自分を「まことのぶどうの木」と言われた御言葉を思い起こさせます。「着物をぶどうの汁で洗う」というのは、十字架の血潮による私達の清めのことでありましょうか。
ユダは、兄弟たちの中でも格別なる祝福を約束されました。しかし、なぜユダがこのように祝福されるのでありましょうか。ユダは、他の兄弟とどこか違ったのでしょうか。実はユダにも忌まわしい過去があります。創世記38章に記されていますが、ユダは奥さんが死に、喪が明けると、路傍に佇んでいる娼婦を買うのです。しかし、ユダが娼婦だと思ったその女性は、実は嫁のタマルであったという話であります。
他方、ユダはヨセフやベニヤミンの命を救おうとしたということが聖書に書かれています。その功績によって、ユダは汚点を挽回したのだという人もありますが、それだけでは納得できません。それならルベンも同じようにヨセフやベニヤミンの命を救おうとしているのに、どうしてルベンでは駄目だったのかと思ってしまうのです。
「なぜ、ユダが?」という疑問に納得できる答えを見つけることは難しいことなのですが、敢えて私なりにユダの美点をあげるとすれば、自分の罪を深く自覚する者だったということではないかと思います。「銀の杯事件」を覚えているでしょうか。ヨセフがまだ自分の正体を隠して兄弟たちに接していた時の話です。ベニヤミンがヨセフの大切にしていた銀の杯を盗んだ廉で捕らえられ、ヨセフの奴隷にされそうになるのです。もちろん、ベニヤミンは銀の杯を盗んだりはしていないのですが、どういうわけかベニヤミンの袋の中から銀の杯が出てきてしまったのでした。その時、ユダはベニヤミンをかばってこう言います。
「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、ご主君の奴隷になります」(44:16)
「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と、ユダが言っているは、銀の杯を盗んだことを認めたということでありません。盗んだ盗まないに関わらず、このような不幸が自分に、兄弟に襲ってくるのは、神様がわたしたちに対してお怒りになっているからだ。そういう意味では、確かに私達は罪人なのであるということを、神様の前で、人の前で認めている言葉なのです。そして、そのことがヨセフの心を動かし、ついにヨセフが自分の正体を兄弟たちに明かし、兄弟たちを心から赦すきっかけになります。そうしますと、ユダの罪の告白が、兄弟たちを救ったという言い方もできないことはないのです。
聖書に一貫している教えは、一つや二つ正しいことをすれば罪が帳消しになるということではありません。そうではなく、罪を認め、心から悔い改める者に、神様の憐れみが与えられるということなのです。他の兄弟たちと同じように罪深い人間の一人であったユダが、他の兄弟たちに勝って神様の憐れみを受けたのは、罪に対する真摯な悔い改めがあればこそではないかと、私は思っております。
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続いて13節はゼブルンに対する言葉です。
ゼブルンは海辺に住む。
そこは舟の出入りする港となり
その境はシドンに及ぶ。
多くは語られていませんが、将来、ゼブルンの子孫が約束の地で受け継ぐ嗣業は、海辺にあり貿易によって繁栄するという約束が与えられています。
14-15節はイサカルについての言葉です。
イサカルは骨太のろば
二つの革袋の間に身を伏せる。
彼にはその土地が快く
好ましい休息の場となった。
彼はそこで背をかがめて荷を担い
苦役の奴隷に身を落とす。
「骨太のろば」というのは、力強く、タフな者であるということでありましょう。しかし、「二つの革袋の間に身を伏せる」とは、負うべき荷物を負わないで、身を伏せて怠けてしまうということであります。つまり、神様によって働きの賜物が与えられているのに、感謝して働くよりも怠けてしまう者であるがゆえに、強制的に働かされることになる。それが「苦役の奴隷に身を落とす」ということでありましょう。
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16-17節にはダンについての言葉です。
ダンは自分の民を裁く
イスラエルのほかの部族のように。
ダンは、道端の蛇
小道のほとりに潜む蝮。
馬のかかとをかむと
乗り手はあおむけに落ちる。
ダンは「蛇」に喩えられています。蛇というのは、エバを誘惑した蛇のようにサタンの象徴とされる生き物で、蛇に喩えられること自体が、あまり気味のいいことではありません。ある人は、これはダンの子孫から偽キリストが出現するという預言ではないかと言っています。わたしとしては、果たしてそこまで言い切れるものかどうか、意味を測りかねます。イエス様は「蛇のように賢しくあれ」と言われたこともありますから、蛇だからサタンだとすぐに決めつけることないのではないでしょうか。
蛇は小さな生き物です。そのようにダンの子孫も、小さな部族でありました。しかし、蛇は奇襲を持って自分より大きな馬を倒すことがある。そのように、ダンの子孫も小さくても、他のイスラエルの部族と同じような力を持つことになるだろうという意味に私は理解したいと思います。
19-21節には、ガド、アシェル、ナフタリについて語られています。
ガドは略奪者に襲われる。
しかし彼は、彼らのかかとを襲う。
アシェルには豊かな食物があり
王の食卓に美味を供える。
ナフタリは解き放たれた雌鹿
美しい子鹿を産む。
それぞれ短い祝福の言葉ですが、ガドは苦難に遭うけれども、最後には勝利するということが言われています。アシェルには、農業的な意味での繁栄が約束されており、それをもって王の食卓に美味を提供すると言われています。ナフタリは、「解き放たれた雌鹿」に喩えられています。野山を駆け回る自由さ、奔放さ、それに加えて「美しい子鹿を産む」とありますように子孫の繁栄が、ナフタリ一族に与えられた祝福であるというのです。
ガドは苦難に打ち勝つ力、アシェルは食卓の豊かさ、ナフタリは自由奔放な精神、それぞれに素晴らしい約束が与えられていますが、何もかも持っているわけではないということは心に留めておく必要がありましょう。最初にも申しましたように、どんな祝福も神様から来るのでありますが、形は皆違い、それぞれにふさわしい形の祝福があたえられるのです。
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22-26節はヨセフに対する祝福です。
ヨセフは実を結ぶ若木
泉のほとりの実を結ぶ若木。
その枝は石垣を越えて伸びる。
弓を射る者たちは彼に敵意を抱き
矢を放ち、追いかけてくる。
しかし、彼の弓はたるむことなく
彼の腕と手は素早く動く。
ヤコブの勇者の御手により
それによって、イスラエルの石となり牧者となった。
どうか、あなたの父の神があなたを助け
全能者によってあなたは祝福を受けるように。
上は天の祝福
下は横たわる淵の祝福
乳房と母の胎の祝福をもって。
あなたの父の祝福は
永遠の山の祝福にまさり
永久の丘の賜物にまさる。
これらの祝福がヨセフの頭の上にあり
兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。
ヨセフに対する祝福は、ユダに対する祝福に並んで多くの言葉が費やされています。泉のほとりに植えられた木とは、常に泉から豊かな、新鮮な祝福を受け取ることができるということでありましょう。それゆえに、ヨセフは実を結ぶ者となり、石垣がそれを邪魔しようとも、それよりも更に上に伸びていくことができ、誰かがヨセフを破滅させようと矢を放ちながら追いかけてきたとしても、ヨセフの方がはるかに弓を引く手も、敵を引き離す足も、勝っていると言われています。ひと言で言えば、何者もヨセフに対する神の祝福を妨げることはできないということです。
この祝福の確かさによって、ヨセフはイスラエルの石となり、牧者となると言われています。動ずることのない石、他の部族を養う牧者、つまりヤコブの家督を継ぐ権利は、長子ルベンではなく、このヨセフに与えられるということです。
「上は天の祝福」とは霊的な祝福の約束、「下は横たわる淵の祝福」とは物質的な祝福、「乳房と母の胎の祝福」とは子孫繁栄の祝福のことです。そして、これらの祝福の永遠なること、甚だしく豊かなることが約束されています。
ヨセフは、実に理不尽な苦しみを味わいました。その苦しみはヨセフの罪によるものではなく、崩壊した家族を救い、再生するための、犠牲的な苦難でありました。そのような苦しみを受けるためにヨセフは神に選ばれたのです。しかし、それは決して不幸なことではありません。神様はその苦しみに豊かに報いてくださいます。ヨセフに与えられた大いなる祝福の中に、私達はそのことを見ることができるのです。
最後に、ベニヤミンの祝福が述べられています。
ベニヤミンはかみ裂く狼
朝には獲物に食らいつき
夕には奪ったものを分け合う。
ベニヤミンは狼であると言われています。ダンが喩えられた蛇と同様、狼というのも聖書ではあまり良い象徴ではありません。ヤコブの寵愛を受けた末っ子ベニヤンが、なぜそのような狼に喩えられるのか、ちょっと奇異な感じがしないでもありません。
しかし、これは後々、ベニヤミンがどのような部族となるかということの預言でもありまして、実はベニヤミン族というのは実に多くの優れた人を輩出しているのです。左利きのエフド、サウル、エステル、モルデカイ、新約聖書ではパウロがベニヤミン族の出身でありました。このように、イスラエルのために、信仰のために、果敢な戦いをする人間を生み出すという祝福が「かみ裂く狼」という言葉に託されているのでありましょう。
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以上で、ヤコブの子供たちに対する祝福の言葉は終わりですが、こうしてみますと、ヤコブは父親として、子供たちの性質、また生き方というものを、実によく見ていたのだなあということを感じます。そして、その一人一人の持つ個性の中に、神様のご計画を読み取っているのであります。
私達は、自分の善悪感や価値観で、これが幸せだ、これが善いことだと思いこみ、それを子供や他の人々に押しつけようとする傾向があります。しかし、そうではなく、神様は一人一人をみな違うように取り扱っておられるのです。自分の価値観を押しつけるのではなく、その一人一人に対する神のご計画が、一人一人の人生の上に、またその子孫に至るまでつつがなく全うされるように、これがヤコブの心だったのではありませんでしょうか。
最初にも申しましたように、ヤコブの祝福は、単に「幸せになるように」という単純なものではありませんでした。呪いとも思えるような言葉も出てくるのです。親であるならば、好きこのんでそのような不吉な未来を子供たちに語りたいはずがありません。しかし、ヤコブはそれを語ります。たとえ厳しいことであれ、神の御心が全うされるその先に、必ず救いがあるということを、つまり恵みの賜物は、裁きの厳しさに勝って豊である事を固く信じていたからなのです。
今日お読みした新約聖書には、このように語られています。
彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
詳しい解説をする時間はありませんが、不信仰のゆえに躓き、倒れ、捨てられたかのように見えても、彼らが不信仰の中に留まり続けるのでなければ、神様はそのような者たちを再び新たに生かしてくださるということです。だからこそ、神様の慈愛と峻厳とを覚える必要があるのだと、パウロは言っているのでありました。
ヤコブは、息子たちへ祝福を語る最中、18節で、ヤコブは唐突に叫びとも言える祈りの言葉を発します。
主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む
ヤコブも親なのです。一方では子供たちの厳しい将来を語り、御心を為し給えと祈りながら、他方では「主よ、あなたの救いを待ち望ます」と、このような祈りを子供たちのために常に神に捧げていたのでした。
このヤコブの信仰と親心というものを覚えて、私達も信仰に立って子供たちに神の慈愛と峻厳とを語り伝える者でありたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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