ヨセフ物語 22
「神の恵みは思いがけないところに現れる」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 コリントの信徒への手紙1 13章13節
旧約聖書 創世記48章1〜22節
終わりの日の望み
 新しい年を迎えました。その最初の聖日礼拝において、私達が御言葉から学ぶことは、一人の父親が、年を取り、力尽きて、死を迎える姿であります。これから新しい気持ちで一年を始めようとする時に、もっと明るい話題はないのかと思われる方もあるかもしれません。しかし、始まりの日というのは、終わりの日に向かって歩み出す日であります。その終わりをいかなる日として見つめるのかとによって、私達の旅路を行く足取りは軽くもなるし、重くもなるのではないでしょうか。

 今日のご一緒に学びます一人の老いた父親の姿は、一人の信仰者がいかなる終わりの日を向かえたのかという物語でもあるのです。彼、ヤコブは、ベッドから起きあがるにも全身の力を奮い起こさなければならないほど衰弱していました。孫たちの姿を見ても、それが誰か分からないほどに目はかすんでいました。信仰者とて、このような老いに逆らい得るものではないのです。

 しかし、そのように相当に追いつめられた身体状況に相反して、彼の口から溢れてくる言葉は、ますます夢と希望に溢れ、平安と気力に満ち、愛と細やかな配慮を忘れていません。これは一重に、ヤコブが悩みの日にも、悲しみの日にも、そして、この老いの日においてもなお、神様を依り頼んで生きていることの証しなのであります。15-16節に語られているヤコブの神への讃美と感謝の言葉が、そのことを示しています。

 わたしの先祖アブラハムとイサクが
 その御前に歩んだ神よ。
 わたしの生涯を今日まで
 導かれた牧者なる神よ。
 わたしをあらゆる苦しみから
 贖われた御使いよ。

 これについては、前回、丁寧にお話しをしましたので繰り返しませんが、神を信じ、神を礼拝し、神の御言葉に聞き従う人生は、肉体の力が尽き果てる終わりの日においても、なお私達を生かし、支え、夢と希望をあたえ、平安と力で満たし、愛の喜びで心を一杯にするものなのです。

 今日、一年の最初の礼拝の日に、私達は、この終わりの日の望みを、御言葉によってさらに固いものとされ、決して平坦な道でないわたしたちの旅路を、栄光の日を目指して、この一年も神を信じ、神を礼拝し、神の御言葉に聞き従う歩みをしてまいりたいと願のであります。
最期まで神の目的に生きる
 さて物語は、ヨセフがマナセとエフライムという二人の子を連れて、父ヤコブの許に見舞いに訪れたというところから始まります。1-2節

 これらのことの後で、ヨセフに、「お父上が御病気です」との知らせが入ったので、ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて行った。ある人がヤコブに、「御子息のヨセフさまが、ただいまお見えになりました」と知らせると、イスラエルは力を奮い起こして、寝台の上に座った。

 ヤコブ、すなわちイスラエルは、《力を奮い起こして、寝台の上に座った》と記されています。先ほども申しましたように、見舞いに来てくれた息子を迎えようとベッドから身を起こそうとする。ただそれだけのことにも力を奮い起こさなければならなかったのです。

 しかし、逆に言うと、ヤコブにはまだ力を奮い起こして身を起こそうとする気力があった、ということです。その気力は、使命感から来る気力でありました。人間というのは、最後の一日まで神の目的によって生かされており、神様の栄光を現す者として生きることができるのであります。

 私がそのことを強く印象づけられたのは、召天会友の長田友恵さんの最期を看取った時でありました。長田さんは、もう十数年前に97歳で亡くなられた方ですが、病院のベッドで、「わが君イエスよ、我を清めて良き働きをなさしめたまえ」と、最後まで讃美歌を歌い続けておられました。肉体的にはもう何もできないところまで追いつめられているのです。それなのに、なお「良き働きをなさしめたまえ」とはいかなる心境なのか。もっと長生きしてイエス様のために働きたいということなのか。否、それはもはや望み得ないことであるということは、長田さんご自身も分かっていたはずです。それでも、長田さんが「良き働きをなさしめたまえ」と歌い続けておられたのは、もう一度元気になってイエス様のために働きたいということではなくて、天国に行く最後の瞬間まで、イエス様が、病むこの身において、衰えていくこの身において、栄光を現してくださいますように、という祈りだったのではないでしょうか。

 クリスチャンにとって「良き働き」とは、自分の知恵や力で何か良いと思われるようなことをするということではありません。すべて「良き」と言われるものは、上より来るのであります。私達から出てくるものは決して良きものでは有り得ないのです。そうだとすれば、長田さんが讃美歌に込めて祈っていた「良き働きをなさしめたまえ」という祈りも、自分の力でイエス様のために何か良い働きをするというのではなくて、イエス様が我が身においてなしてくださる良き働きのことだと思うのです。たとえ衰えて死を待つばかりの身においても、イエス様は良き働きをなして、それをご自分の栄光の器としてくださるという信仰が、長田さんに今際の時にも「わが君イエスよ、我を清めて良き働きをなさしめたまえ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」と歌わしめたに違いないのです。

 その讃美と祈りは成就しました。少なくとも、私は、「良き働きをなさしめたまえ」と歌いつつ天国にいった長田さんの姿のうちに、イエス様の力強さ、恵み深さがはっきりと見ることができたのです。このようなお話しは、決して例外的なことではありません。私は牧師としてしばしば病床を訪ね、天国に行く方々を見送ってきながら、幾度となくそういう体験をさせていただきました。そういうことから、私は、人間は、最後の一日まで神の目的によって生かされているのだ、と確信するのです。だからこそ、最後の瞬間まで、私達の命は神様の栄光を現すことができるのであります。そのために、自分の寿命の最後の一滴まで主に捧げて生きる。それが私達の使命でありましょう。
受け継がれる信仰
 ヤコブも、まさにそれを為さんとして、力を奮い起こし、語り始めます。それは最初にも申しましたように、信仰に満ち、希望に溢れ、愛に富んだものでありました。パウロが「信仰と希望と愛は、いつまでも残る」と宣言したように、老いさらばえたヤコブの身においても、最期まで失われることのないものとして信仰と希望と愛が満ちているのであります。

 まず、ヤコブは自分自身の原点から語り始めます。自分が何を拠り処とし、何を基準として生きてきたのかということであります。それは神との出会いでありました。3-4節を読んで見ましょう。

 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、こう言われた。
 『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし
  あなたを諸国民の群れとしよう。
  この土地をあなたに続く子孫に
  永遠の所有地として与えよう。』」


 全能の神が、私に現れて、私を祝福してくださった。これが私の人生の拠り処であり、原点なのだと、ヤコブは言うのであります。

 ここでちょっと考えてみたいことがあります。それは、ヤコブはそれまで全能の神への信仰についても、また「あなたの子孫を大いなる国民にし、カナンの地を与え、諸国民の祝福の基とする」という一族に与えられた遠大な神のご計画と約束についても、決して知らないわけではなかったということです。この信仰と希望は、アブラハムに始まり、一族の家宝のように、親から子へと綿々と受け継がれてきたのでありました。ヤコブも、幼き日より父イサクをとおして、この信仰と希望を学び、受け継いでいたのです。そして、今度はヤコブからヨセフへとそれが引き渡されようとしています。ところがその際、ヤコブは「この信仰と希望は、わたしが父イサクから授かったものだ」と言っているのではないのです。そうではなく、「これは、私が神様から直接授かったものである信仰と希望だ」と言っているわけです。

 私はクリスチャン・ホームで育ちましたから、このヤコブの気持ちがよく分かります。物心ついた時から両親に連れられて教会に通い、また聖書や祈りについても学びました。幼い頃は、それを素直に喜び、受け入れてきました。しかし、ある年齢に達しますと、両親を通してしか神様を知らないということに不安を感じるようになってくるのです。あるいは、両親への反発が、すなわち信仰への反抗心にもなって現れてきたりもするのです。両親に躓けば、信仰にも躓くことになる。そういうことに悩んだ時、私はクリスチャン・ホームに生まれて損をしたなと思ったことさえありました。確かに聖書も、教会も、素晴らしいと思う。けれども、いつでも経っても親を通してしか神様を見ることができないことが癪に感じ、素直になれないのです。

 そんなことを悩んでいる時、ある本の中で、「神様に孫はいない」という言葉に出会いました。すべて神様を信じる人は、神様の孫ではなく、子であるというのです。だれでも、最初は親であるとか、友人であるとか、ミッションスクールの先生であるとか、牧師であるとか、誰か人を通して神様を紹介され、知るのであります。しかし、人を通して知ったからと言って、いつまでもその人を通さなければ神様を見ることができないわけではありません。神様は必ずあなたに直接出会ってくださり、あなたとの直接的な交わりを与えてくださる。クリスチャンは、誰を通してクリスチャンになったとしても、決して神様の孫ではなく、すべて神様の子なのだというお話しでありました。

 それを読んで、私はたとえクリスチャン・ホームに育って、幼いときから神様を信じていても、いつかはその両親を踏み越えて、自分自身が神様との出会いを果たさない限り、その信仰は本物にならないのだと気づきました。そして、その時から自分自身で聖書を読み、神を求め、祈るようになったのです。そういう中で、神様と直接的な出会いが与えられ、やっと神の孫から子になることができたのであります。そして、その体験こそが、わたしの神への信仰と希望の原点なのです。

 しかし、そういう経験をしてみますと、自分がクリスチャン・ホームの中で育ったことは、本当に大きな神の恵みであり、感謝すべきことだと、素直に喜ぶことができるようにもなりました。信仰というのは、誰かが伝えなくてはなりません。しかし、伝えられた者は、伝えてくれた人を信じたり、その人に結びつくのではなく、直接神様との出会いを果たし、神様と結びつく者とならなければ、本当の信仰とはならないのです。

 今、私自身が親として考えていますことは、私を愛してくださる神様は、私の子供たちをも愛してくださる。私を救い給う神様は、私の子供たちにも救ってくださる。だからこそ、私の信じる神様を、君たちも信ずべき神様なのだと確信をもって伝えていきたいということであります。しかし、それと共に、単に親の言葉を素直に受け入れるだけではなく、親を踏み越えて、自分自身の体験として神様との素晴らしい出会いを果たし、神様との直接的な交わりの中に生きて欲しいという願いであります。ヤコブもそういう経験をして、父から受け継いだ信仰を本物にしていったのでありましょう。そして、子供たちへの祈りとして、そのことを伝えるのであります。
ヤコブの配慮
 次に、ヤコブはちょっと奇妙に思える申し出をしました。ヨセフの子供ら、つまり自分の孫にあたるマナセとエフライムを、自分の養子にしたいというのです。5-6節を読んでみます。

 今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし、彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。

 これには二つの意味があったと思われます。一つは、マナセとエフライムがヤコブの養子になることによって、実質的にヨセフの受け継ぐ嗣業が二倍になるということです。もっとも、この嗣業というのは、まだ神の約束でしかありませんから、実際に何かを受け取れるわけではありません。二つ分の嗣業を受け継ぐ権利を、ヨセフに与えたということなのです。これは、ひとえにヨセフに対する感謝の心の現れであったと言えます。

 もう一つは、ヤコブの愛と細やかな配慮がここにあったということであります。マナセとエフライムは、ヨセフとエジプト人の女性との間に生まれた子供たちでありました。そういう意味では、ヤコブ家にとっては異質な存在でありました。将来、そのことが何らかのもめ事の種にならぬように、ヤコブは彼らを自分の養子にしておくという気持ちだったのではないでしょうか。

 ヨセフ物語をこれまでご一緒に学んできた方はよくご承知のことですが、ヤコブは自分が播いた種で、子供らが憎しみ合い、家族がバラバラになってしまうという苦い経験をしました。それがヨセフのお陰でもう一度結び合わされ、ヤコブは家族の幸せを経験することができたのですが、そのような反省から、出来る限り家族、兄弟のもめ事の火だねとなるようなことは解決しておこうという配慮がここにあるのではないかと思います。

 死を直前にして、身体がすっかり衰えてしまったヤコブでありますが、そういう将来のこと、周囲のことにまで愛をもって細やかに気を回すことができたというのは、ヤコブが自分のことだけを考える人間ではなくなっていたからに違いありません。かつてのヤコブはそうではありませんでした。しかし、人間というのはいろいろな苦難を通して、神様によって清められ、成長させられ、変わっていくのです。

ヤコブの悲しみ

 次に、ヤコブは最愛の妻であり、ヨセフの母であったラケルの死についての回想を語ります。7節

 わたしはパダンから帰る途中、ラケルに死なれてしまった。あれはカナン地方で、エフラトまで行くには、まだかなりの道のりがある途中でのことだった。わたしはラケルを、エフラト、つまり今のベツレヘムへ向かう道のほとりに葬った。

 ヤコブは、人生において神様から多くの慰めと恵みといただくことができましたが、ラケルの死の悲しみは癒えることなく、その悲しみを最後まで背負って生きていました。たとえば、このすぐ後に、ヤコブはヨセフの子供たちを抱きしめて、《お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをもみさせてくださった》(11節)と、神様が与えてくださった人生の慰めと恵みの大きさを噛みしめています。しかし、他方で、愛するラケルの死の悲しみは癒えることなく、ヤコブの心の苦しみとなりつづけているのです。

 人生には、このように天国まで背負っていかなければならない重荷、悲しみがあるということでありましょう。すべての問題が、この世で解決するのではないのです。けれども、神様の御許でそれは必ず解決するでありましょう。私達も、そのことを信じて、重荷を負いつつ前向きに歩んでいきたいと思います。

ヤコブの悲しみ

 ヤコブは、このように自分が受けた神の恵み、ヨセフの子供らを養子にすること、ラケルとの死別の悲しみなどについて話すと、今ももうしましたようにヨセフの子供ら。マナセとエフライムに目を留め、二人をしっかりと抱きしめました。そして、その後、12節から読んでみたいと思います。

 ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した。ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。

 おそらく、ヨセフは自分の子供らを養子にしたいというヤコブの願いに応えて、マナセとエフライムを改めてヤコブの前に進み出させたのでありましょう。つまり、これは養子縁組の儀式だったと思われます。自分の右手にいるエフライムをヤコブの左手に向かわせ、自分の左手にいるマナセをヤコブの右手に向かわせたというのは、そのまま素直に前に進ませたということであります。

 ところが、ヤコブは、わざわざ手を交差して、自分の左にいるエフライムの頭に右手を置き、自分の右にいるマナセの頭に左手を置いたのでありました。そして、そのままヨセフに対する祝福の言葉を述べ始めました。その内容については、前回お話ししましたので割愛しますが、ヨセフはヤコブが長男と次男を間違えていると思い、それを直そうとします。17-18節を読んでみましょう。

 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」

ところが、ヤコブは間違えたのでもなければ、気まぐれでそうしたわけでもなく、そうすることが神様の御心に適っているのだという確信をもって、敢えてそのように手を交差させたのだというのであります。19節

 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」その日、父は彼らを祝福して言った。
 「あなたによって
  イスラエルは人を祝福して言うであろう。
 『どうか、神があなたを
  エフライムとマナセのように
  してくださるように。』」
 彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。


 弟エフライムを兄マナセの上に立たせるとは、いったいどういうことなのでしょうか。ひと言で言えば、このような思いがけない選び、これがヤコブの経験した神の恵みの現実であったということなのです。

 ヤコブは弟でありました。兄はエサウといいます。そして、父イサクは明らかに兄エサウを愛していました。それにも関わらず、神様はエサウではなく、ヤコブを父の家を嗣ぐ者として選ばれたのであります。どうしてでありましょうか。ヤコブの方が人格的に優れていたからでしょうか。決してそうではありません。ヤコブはお世辞にも立派な人間とは言えなかったのです。そのヤコブが、神様に選ばれたということは、ヤコブ自身にとっても、他の者たちにとっても、まったく思いがけないことだったに違いありません。

 しかし、聖書を見ますと、神様によって弟が兄の上に立たされるということは決して珍しいことではありません。アベルは、カインの弟でした。ヨセフも12人兄弟の11番目の弟でした。モーセはアロンの弟でした。ギデオンも弟でした。ダビデも弟でした。人間の常識としては思いがけないことであっても、神様の常識からすれば、このような逆転現象は決して思いがけないことではないのです。

 なぜ、神様がそのようなことをなさるのか。私達は、ついそのように納得できる理由を知りたがるのが悪いところです。これは神様のなさることなのです。それについて、私達は良いとか、悪いとか、納得できるとか、できないとか、そのように口を挟むこと自体がおこがましいと言わざるを得ないでありましょう。ただ私達が認めなければならないのは、神様の恵みはまったく思いがけないところに現れるということなのです。予測も、説明もできない思いがけなさこそ、神様の恵みなのです。

 そして、このような恵みがあればこそ、私達は希望を持つことができるのではないでしょうか。人間の目には、あらゆる望みが絶たれていても、なお思いがけないところから神の恵みは来るということなのです。

 最後に、ヤコブはこのように語りました。

 イスラエルはヨセフに言った。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする。」

 私達も、やがて「まもなく、わたしは死ぬ」と言わなければならない日が来るでありましょう。その時、自分の家族のことや、世のなかのいろいろなことが、なお気にかかるということもありましょう。しかし、ヤコブは、私が死んでも神様がお前たちと共にいてくださるのだと言います。これは、ヨセフたちに語る言葉というよりも、自分自身に語りきかせる言葉であったかもしれません。そのような信仰に立つことによって、この世の気がかりをすべて神様にお委ねしようとしているのだと思うのです。

 その上でヤコブは、大きな夢を描きます。いつの日にか、必ずエジプトからカナンの地に帰る日が来る。神様がお前たちを連れ帰ってくれる日が来る。このような主への信頼と希望のうちに、自分の生涯を閉じようとしているのでありました。

 みなさん、私達もこのような終わりの日に向かって、この一年も主を礼拝しつつ歩んでいこうではありませんか。
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