ヨセフ物語 21
「わが人生の良き羊飼いなる神」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書13章3-13節
旧約聖書 創世記48章1〜22節
ヤコブの死の物語
 先週は、自分の死期を悟ったヤコブが、息子のヨセフを呼び寄せて、「わたしのお墓はこのエジプトにではなく、必ず先祖たちの眠るあのカナンのお墓にしてほしい」と遺言をのこしたというお話しでした。今日お読みしました48章は、それからまたしばらくの時を経てのことでありましょう。ヤコブの体がだいぶ弱ってきて、病の床に伏せるようになると、ヨセフが二人の息子を連れて、見舞いにやってきたということが書かれています。

 そして、49章になりますと、ヨセフのみならず息子たちがみな揃って、ヤコブの病床を見舞うのです。ヤコブは最後の力を振り絞って、一人一人の名を呼びながら祝福をいたします。こうしてヤコブは、息子たちの見守る中、静かに息を引き取ったのでありました。

 その後、50章には、ヤコブの言いつけ通り、遺体をカナンの地まで運んで葬ったということが書かれています。こうして、ヤコブの死の物語が終わると、もうヨセフについて何も語ることはないといわんばかりに、突然ヨセフ物語は幕をおろし、ヨセフの死が付け足しのように語られるのであります。

 このようにヤコブの死をもって、ヨセフ物語が終わるということは、実はヨセフ物語というのはヤコブ物語の一部であったのだということが分かります。もっと言うならば、ヨセフ物語全体が、最初からヤコブの死の物語だということができるのです。以前、私は、ヨセフ物語は、ヤコブの家の再生の物語だと申しました。それはそうなのですが、それをヤコブ個人の身に置き換えてみると、これはヤコブの死の物語、つまり、ヤコブが悲嘆のうちに陰府に下る者なのか、それとも神様の御手の中で平安に眠ることができるのか、そのことがテーマであるということもできるわけです。

 たとえば、ヨセフ物語のはじまりにおいて、ヨセフは兄弟たちの妬みを受け、荒れ野の穴に投げ捨てられてしまいます。ヤコブは、ヨセフがいなくなったのは、きっと獣にかみ殺されて死んでしまったのだと思いこみ、「ああ、わたしは悲嘆のうちに陰府にくだるであろう」と悲しみ、誰からの慰めも受けようとしなかったと言われています。ここから「ヤコブはいかなる死を死ぬのか」という主題がはじまっているのです。

 およそ20年が経過しまして、カナン地方に大飢饉が襲います。ヤコブの家族も食糧に困り始め、このままだったら家族で飢え死にするのではないかという状況にまで追い込まれます。これもまた、ヤコブの死の物語の中で読みますと、ヤコブ一家は食糧に事欠き、カナンの地で飢え死にしてしまう危機にあったということでありましょう。

 エジプトに食糧を買いに行った息子たちは、そこで思いもよらずスパイ容疑をかけられてしまいます。そしてシメオンを人質にとられ、もし容疑を晴らしたかったら、お前たちの末の息子であるベニヤミンをここに連れてきなさいと言われてしまうのです。こうして、シメオンをエジプトに残したまま帰ってきた息子たちを見、そして、ベニヤミンをエジプトに連れて行かなくてはならないということを聞いて、ヤコブは「ああ、私の人生は悲しいことばかりだ。ヨセフを失い、シメオンを失い、そのうえベニヤミンまで失うのか。いや、ベニヤミンだけは絶対に失いたくない。彼をエジプトに連れて行っては駄目だ。この子まで失ったら、それこそ私は本当に悲嘆のうちに陰府に下ってしまう」と、自分の運命を呪って嘆き悲しんだと言います。

 しかし、背に腹は代えられないと申しますが、飢饉がますます激しくなる中、どうしても、もう一度エジプトに行かねばならないという状況になります。そこで息子たちは必死にお父さんのヤコブを説得して、やっとベニヤミンをエジプトに連れて行くことを承知してもらうのであります。その時、ヤコブはこう言います。「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」 

 今までヤコブは、欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れてきました。兄エサウを騙して長子の権利を奪い、父イサクをも騙してエサウの受けるべき祝福を自分のものにしました。ラケルと結婚する時には、7年、また7年と計14年、ラバンの家でただ働きをしました。また、ラバンを騙して、一財産をもうけたりもしました。そして、「祝福してくださらなければあなたを去らせません」と、神様をもねじふせるような祈りをもって祝福を獲得してきました。あまりきれいだと言えない手をもって、ヤコブは自分の人生を築いてきたのです。そのヤコブが、「どうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」と、力なく諦めの言葉を吐いている・・・

 おそらくヤコブは、これが今までの自分の罪深い、欲深い生き方に対する神様の裁きなのだと観念したのでありましょう。そして、悲嘆のうちに陰府に下ることこそが、私の運命であり、神の御心なのだ、私は神に見捨てられたのだ、という心境に至ったのでありましょう。
耐え忍ぶ者は救われる
 ところが、神の御心は、そうではなかったのです。ヤコブの人生は、思いも寄らぬ方向に展開をしていきます。穀物を買い求めるために、そしてまたシメオンを釈放してもらうために、息子たちがベニヤミンを連れてエジプトに行ってみると、なんとそこで彼らを待ち受けていたのは、もう死んでしまっていたと思っていたヨセフだったのです。

 ヨセフは、兄弟たちのすべての罪を赦し、涙をもって抱きしめると、「お父さんはまだ生きておられますか」(45:3)と、父ヤコブの安否を尋ねます。何気ないひと言でありますが、ヤコブの死の物語の中でこの言葉の意味を考えてみますと、これは深い神様の恵みご計画を思わせる大事な言葉であります。つまり、ヤコブが「わたしの人生はもう駄目だ、お終いだ。悲しみのうちに陰府にくだることだけが私に残された人生だ」と絶望している時に、そのヤコブの与り知らぬところで、ヤコブの命のことを、その幸せのことを、いつも気にかけて祈っている人がいたことなのです。絶望するヤコブの傍らで、神様はそのような救い主を、ヤコブのために備えていたのです。

 それがヨセフだったのです。そのために、ヨセフがどれほどの悲しみと苦しみを嘗めてきたか、そのことは繰り返しません。しかし、ヨセフは、「あなたがたの命が救われるために、神がわたしをあなたたちよりも先にエジプトにお遣わしになったのです」と言いました。ヨセフはずっとそのことを信じて、苦しみに耐えてきたのでありましょう。そんなヨセフの心を知らずして、ヤコブは自分の苦しみを嘆き、運命を呪い、「私は不幸せだ、不幸せだ」と言っている。これは単に愚かだということだけではなくて、神様の愛と真実、ヨセフの受けた苦しみに対する冒涜であり、罪だとも言えるのではありませんでしょうか。

 私達もそうなのです。かつて私達も、神様が独り子なるイエス様をお与えくださったということを知らずして、空しきものを追い求めて神を畏れぬ生活をしていたかと思えば、神も仏もあるものかと運命を呪い、悲しみや絶望の中を彷徨い歩いていました。クリスマスの喜びも、十字架上のイエス様のみ苦しみも、復活の救いと希望も知らずに、神なき望みなき者として生きているということが、神様への大きな罪なのです。神様の哀しみの根源なのです。

 しかし、その罪さえも赦して、大きな愛のうちに抱きしめてくださるイエス様がおられます。どんなに私達の生活が悩みに満ちていても、戦いに満ちていても、私達は決して神なき望みなき者ではなく、イエス様がおられるのだという救いの喜びを、大いに喜び、感謝し、讃美を失ってはならないのです。今日お読みしたイエス様のお言葉に「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われていました。戦争があっても、地震が起こっても、飢饉が起こっても、迫害の嵐にあっても、この世の確かさが総崩れを起こそうとも、それでもなおイエス様がおられるのだということを信じて耐え忍びなさい、そうすればわたしの栄光を見ることになるであろうと言われているのです。

 さて、ヤコブの話です。私達が、キリストは生きておられるということを知った時、真っ暗の人生に光が差し込んだように、ヤコブもまたヨセフが生きているということを知ることによって、人生に対する前向きな力を取り戻します。「死ぬ前に、どうしてもヨセフに会いたい」と言って、老骨に鞭打ち、はるばるエジプトまで出かけていくことを決心するのです。

 そして、生けるヨセフと再会し、固く抱き合い、涙を流しながらこう言うのです。

 「わたしはもう死んでもいい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」

 22年前、ヨセフを失ったとき、ヤコブは二度と私の人生に幸せは訪れないと思いました。そして、慰められることを拒み、「わたしは悲嘆のうちに陰府にくだるのだ」と言いました。しかし、このヤコブの確信は当てが外れました。ヤコブは今、本当に幸せを噛みしめているのです。生きていた良かったと実感しているのです。

 こうして、悲嘆のうちに陰府にくだると思われたヤコブの死の物語は、ヨセフの物語によって、神さまの恵みと慰めに満ちた平安なる死の物語へと変えられるのです。それは、神なき望みなき者から、神の愛と真実に支えられた者になったということです。神なき望みなき人間は、生きていてもさながら死んでいるのであります。しかし、神の愛と真実に望みを置く人間は、死んでもなお神の愛と真実に支えられて生きるのです。

 私達もまた神なき望みなき者として死ぬ者でありましたが、その死の物語の中に、クリスマス、十字架、復活というイエス様の救いの物語が入り込むことによって、私達の死の物語にも永遠の命の希望が与えられました。そのことを、深く覚え感謝したいと思います。
新しい旅立ちの準備
 今日は、48章をお読みしました。前回のヤコブの遺言のところでは、ヤコブの死ぬ日が近づいたということが言われていたのですが、今日のところではさらに衰弱が進んで、ヤコブがだいぶ弱っている様子がうかがえ知れます。「お父上が御病気です」との知らせを受け、ヨセフが二人の息子を連れて見舞いに行くと、ヤコブは「力を奮い起こして、寝台の上に座った」とあります。ヤコブは、布団から起きあがることも全力をもってしなければできないような、極めて肉体的に追いつめられた状態であったというのです。

 さらに、もう少し後の方を見ますと、ヤコブが、ヨセフの側にいる者たちに気づいて、「これは誰か」と尋ねている場面があります。老齢のために目がかんすで見えなかったのだと、聖書は説明していますが、白内障か、緑内障か、そういった病気で目も不自由になっていたのです。そんなヤコブに気を遣いながら、ヨセフは「お父さん、これはエジプトで生まれたわたしの息子たちです」と紹介します。すると、ヤコブは「そうか、そうか、ここに連れて来てくれ」と言い、ヨセフが連れてくると孫たちを抱きしめて口づけしたと言われています。「連れてきてくれ」というのは、孫を抱きたいと思っても、連れてきてくれなければそれができないというヤコブの力弱さを物語っています。

 自分から何もできなくなる。人に教えてもらい、人に支えてもらい、人に何かをしてもらわなくては、何もできない人間になってしまう。それが老いるということであります。何でも自分で出来た若い日のことを思うと、老いるということはまことに寂しい現実でありますけれども、ヤコブがそのことを少しも嘆いていないということを、私達は読み取らなくてはいけないと思います。

 かつてヤコブは、「あれがない」、「これがない」、「私の人生は苦しみばかりだ」と、嘆いてばかりいる老人でありました。しかし、今は違うのです。それは先ほどお話ししましたように、神さまの恵みと救いによって、悲嘆のうちに陰府にくだるばかりの老人から、慰めと希望のうちに天国へ旅立つ人間へと変えられたからです。48章は、そして49章もそうですが、これは死を嘆き悲しむ物語ではなく、ヤコブが神さまの愛と真実に支えられて、天国への新たな旅立ちへの準備をしている物語なのです。

 もちろん、新しい旅立ちは、これまで生活との別れを含んでいます。私達も天国へ旅立つとき、この世で自分を支えてくれた家族や、愛する友や、住み慣れた家や、仕事や、諸々のものと決別しなければなりません。それは、やはり悲しいことであり、寂しいことであります。それを悲しんではいけないことはありません。しかし、悲しんでばかりいてもいけないのです。悲しみを抑えてでも、愛する者たちのために、果たすべき使命があるのです。それは、神さまが自分に与えてくださった祝福と信仰を伝えるということであります。
わが人生の牧者なる神
 遺された時間がありませんので、ヤコブがヨセフを祝福した15-16節のみに絞ってお話しをしたいと思います。

「わたしの先祖アブラハムとイサクが、
 その御前に歩んだ神よ。
 わたしの生涯を今日まで
 導かれた牧者なる神よ。
 わたしをあらゆる苦しみから
 贖われた御使いよ。
 どうか、この子供たちの上に
 祝福をお与えください。
 どうか、わたしの名と
 わたしの先祖アブラハム、イサクの名が
 彼らによって覚えられますように。
 どうか、彼らがこの地上に
 数多く増え続けますように。」(48:15-16)


 「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ」と、ヤコブは祈ります。聖書には、よく「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方が出てくるのですが、これについて、わたしはパスカルの話を思い起こします。パスカルは17世紀のフランス人で、科学者として、哲学者として、そしてキリスト教思想家として、たいへん大きな功績を残している方です。そのパスカルは、1654年11月23日から24日かけての夜半に、生ける神の現実に触れる回心を経験しました。そして、その日のことを忘れないため、衣服の表地と裏地の間に小さなメモを縫い込んで、生涯肌身離さずにいたのです。そのメモには、回心の時に神さまとの出会った経験が短い言葉で記されています。

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。
  哲学者および識者の神ならず」

 哲学者および識者の神というのは、頭で考え出された神ということです。そういう神さまは人間の頭数だけ存在するといっても過言ではないでしょう。しかし、パスカルが回心の夜に出会ったのは、そういう人間の頭で考え出すような神さまではなかった。アブラハムの人生、イサクの人生、ヤコブの人生に介入し、その人生を導き、歴史の中で具体的に御心を実現されてきた生ける神であった。頭だけ考えたり、信じたりするのではなく、全身全霊をもって、つまり礼拝と祈りと服従と希望をもって、その御前に歩んできた神であった、というのであります。ヤコブが、「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ」と祈ったのも、そういう意味でありましょう。

 だから、「わたしの生涯を今日まで、導かれた牧者なる神よ。」という祈りが、出てくるのです。今日は、このヤコブの祈りの言葉から、説教題を「わが人生の良き羊飼いなる神」とつけさせていただきました。「良き羊飼い」は、旧新約聖書を通じて出てくる主題であります。イエス様も「わたしは良い羊飼いである」と仰いました。そして、良い羊飼いは自分の羊を知り、羊もまた自分の羊飼いを知っているものだ、と仰っています。

 ヤコブは、自分が神さまに見捨てられた者ではなく、知られている者であるということを、ヨセフとの再会を通して、つくづくと感じていたのでありましょう。そして今、私も自分の羊飼いが誰であるか、どういうお方であるかということを、本当に胸にしみてよくわかっているという感謝の気持ち、讃美の気持ちをもって、このような祈りの言葉を口にしたに違いありません。

 その感謝、讃美の心は、「わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。」という言葉になって表れています。「神」ではなく「御使い」と言われています。「御使い」というのは、神さまの御心を実現するために遣わされる者であります。神さまは旅人や、王や、動物や、風や地震などの自然現象など、さまざまなものを通して、御心を私達に伝え、御業を行われます。そういうものが皆、わたしは御使いだと言っても良いと思うのです。

 私は、「わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。」というヤコブの讃美の言葉は、私の人生に起こったすべてのことは神さまが来たものであり、時にそれは災いのようにも見えたけれども、今はすべてが相働きて益となる神の恵みであった、御使いであったという、全人生を肯定する感謝、讃美であったと思います。

 そして、このような神さまに対する万感の思いを一つに表すならば、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神」、つまり「わが人生の良き羊飼いなる神」ということになるのではないでしょうか。その神が、「どうか、わたしの子供たちの上にも、恵み深く、力強くあってください。どうか、子供たちが、あなたの良き羊として、あなたの御前に歩む者でありますように」という祈りが、この祈りなのです。

 みなさん、このような信仰こそ、私たちの子どもたちのもっとも重要な宝となるでありましょう。なぜなら、信仰は、人生の生涯を導く羊飼いなる神を、そして、人生のあらゆる苦しみから私達を贖う御使いを、自分の神として所有することだからです。これ以上の宝が他にありましょうか。

 私達も、いつの日にか、ヤコブのように老いて、あるいは病によって、死の日を迎えるでありましょう。しかし、その時にも、私達は、神さまを讃美し、感謝し、その神さまのしてくださったこと、してくださることの素晴らしさを物語り、この宝を、私達の子供たちに遺す者でありたいと願います。そのような生き方を、させていただきたい思うのです。
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