ヨセフ物語 24
「神の救いによって新しい時を生きる」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章16-21節
旧約聖書 創世記49章29節〜50章26節
ヤコブの死
 今日はヨセフ物語について最後のお話しとなります。ヨセフの父ヤコブの死と埋葬、そしてヨセフの兄弟たちに対する赦しの再確認、最後にヨセフの死ということが、今日お読みした御言葉に記されていました。

 少し遡って47章27節によれば、ヤコブは百三十歳でエジプトにわたり、十七年間エジプトで神様の慰めに満ちた暮らしをし、百四十七歳でヨセフをはじめとする十二人の息子たちに看取られながら、その平和のうちにその生涯を閉じました。その最期にあたって、ヤコブが十二人の息子たち一人一人の名前を呼びながら、「おのおのにふさわしい祝福の言葉をもって祝福した」(49章28節)というところを、先週ご一緒に学んだのでありました。

 そして、いよいよ本当に最後の最後におよんで、ヤコブはかつてヨセフに遺言したのと同じ事を、もう一度息子たち全員の前で遺言します。それは、自分の遺体を必ずカナンの地に連れ帰して、先祖たちが眠る墓、すなわち祖父アブラハム、その妻サラ、父イサク、その妻リベカ、また自分の妻レアが眠る、あのマクペラの墓に葬って欲しいということでありました。こうして、ヤコブは、約束の地を望み見つつ、静かに息を引きとったのでありました。

 ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖たちの列に加えられた。(49章33節)

 私達にも約束の地があります。天国という約束の地であります。イエス様は、十字架におかかりになる前、弟子たちにこのような約束を残されました。

 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(『ヨハネによる福音書』14章1-2節)

 イエス様は天の父なる神様の家である天国に、私達が住む場所を用意して、むかえに来てくださるのだと言うのであります。皆さん、本当にむかえにきてくだるのですよ。亡くなる方は、亡くなる前に、イエス様がむかえに来てくれるのが見えるのです。見たわけではありませんが、私はそう信じております。そうでないと説明できないようなことが、クリスチャンの臨終のときあるからです。

 母から聞いた話ですが、私の祖父は亡くなる前に「キリスト者が死んでも生きるということが、今わかった」と母に伝えたそうです。また、その場にいたわけではありませんが、植木亜紀子さんは、「イエス様、連れてって」と口にして息を引き取られたというのです。油木孝子さんは、亡くなる前の日、意識も薄れ、もう起きあがることができないほどの体だったにもかかわらず、突然目を覚まして「イエス様、歩かせてください」と言って立ち上がったのです。北山秋男さんは、亡くなる二、三日前に、私を呼びまして、声にならない声で臨終の祈りをしてくれと頼んだのでありました。他にもいろいろな方の顔は浮かびますが、そういう方々の最期を見てきて、私は、死というものが怖くなくなりました。

 死というのは、だれにでも来るときには来るのです。しかし、それは闇のような恐ろしいものがやってくるわけではありません。病気で死のうが、事故で死のうが、人に殺されようが、クリスチャンにとって死というのはイエス様がむかえに来てくれる時なのです。そして、イエス様を見ながら、イエス様に手を引かれるようにして、天国に昇っていくのです。
ヤコブの葬儀と埋葬
 そうしますと、死というのは、死んでいく者よりも残された者にとってこそ、辛くて、苦しいことであるということになります。ヨセフもそうでした。50章1節、

 ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。

 ヤコブは百四十七歳の大往生だったわけですが、それでも残された者にとって、愛する者との別れは耐え難い悲しみなのです。この悲しみを乗り越えるためには、亡くなった者が望み見ていた天国を、私達もまた御言葉によって望み見るという方法しかないのであります。

 そして、そこに葬儀というものがあるのではないでしょうか。立派な葬儀をしたから、死者が天国に行くのではありません。むしろ、葬儀というのは、残されて者たちが、御言葉を信じることによって、その悲しみを乗り越えていくために行われるものではないかと思うのです。この点が仏式の葬儀との大きな違いでありまして、お坊さんは死んだ方に向かってお経を唱え、死後の道を迷うことがないようにと導いてあげているわけです。ですから、お坊さんは死んだ方を向いている。けれどもキリスト教の葬儀では、死んだ方ではなく、会衆に向かって牧師が御言葉を読み、説教をいたします。

 ところで、ヨセフも父ヤコブの葬儀を行います。まず、ヨセフは医者たちにヤコブの亡骸(なきがら)に防腐処置を施させました。これは、要するにミイラにするための処置です。エジプトではこのような知識と技術が発達していたことは、皆さんもご存じであろうと思います。そして、ヨセフの父親が死んだということで、エジプト中が七十日間の喪に服したともあります。参考書によりますと、ファラオが死んだ時に喪に服する期間は七十二日であったそうです。それに二日だけ足りない喪の期間であったということは、ヤコブの死がヨセフの家族のみならずエジプト中の一大事にであったということでありましょう。

 こうして喪が明けますと、ヨセフはファラオの許可をとり、ヤコブの願いどおり、そのミイラ化した亡骸を故郷のカナンの地に埋葬するために旅立ちました。この旅行には、ヤコブの身内のものはもちろん、エジプトの元老や長老たちまでもが同行し、戦車や騎兵たちがそれを護衛するという、まことに盛大なものであったと書かれています。そして、カナンの地に着きますと、そこで七日間におよぶ荘厳な葬儀が行われたのでありました。

 しかし、ちょっと違和感を感じるのは、その葬儀がエジプト流に行われたということです。それは、非常に立派なものではありましたが、異教的な要素を多分に含んだものであったということが想像されます。もし、ヨセフがアブラハム、イサク、ヤコブの神への信仰だけを大切にして葬儀をしたならば、それはずっとシンプルなものになっていただろうと思います。けれども、ヨセフはエジプト流に行ったというのでありました。そこにはエジプトの総理大臣というヨセフの立場もあったのかもしれません。

 ただ考えてみますと、私達が行う教会の葬儀にしましても、厳密に言えば異教的な部分がないわけではありません。しかし、それを敢えてゆるして葬儀が執り行われているのです。それは宗教的な混淆というよりも、日本の文化にあった形で葬儀を行うということだと思います。

 たとえば、地方の教会で牧師をしている私の友人は、葬儀の時には近隣の教会の牧師がかけつけてくれて、ずらりと聖壇の上に並ぶのだよと教えてくれました。なぜ、そんなことをするのかと聞いてみると、その地方では普通、お坊さんが何人も並んで葬儀をし、お坊さんの数が多いほど立派だと言われているのだそうです。ところが、教会にはたいてい一人しか牧師がいない。そううると、教会の葬儀はみずぼらしいと言われてしまうのだそうです。ですから、近隣の教会が協力し合うというわけです。

 また、ある牧師は、葬儀の基本は礼拝なのであるから、葬儀説教も徹底的に御言葉に基づいてなされるべきだという信仰をもって、亡くなった方についてひと言も語らない説教をしたそうです。すると、教会員の方からさえも、もっと亡くなった方のことを偲ぶような説教をして欲しかったと不満の声があがったと聞いたこともあります。

 私は、キリスト教信仰の本質を妨げるようなものでない限り、できるだけ愛する家族との別れを惜しむ気持ちを汲み取り、ご遺族の気の済むような式をさせてあげたいと思っています。お金をかけたところで、それで天国にいくわけではないということは先ほど申しました。同じように、棺に愛用の品を入れてもそれを天国に持って行けるわけでもないのです。しかし、そいうことが分かっていても、なおそいう仕方で亡くなった方への愛情を表現したいという思いは本当によく分かるのです。きっと私も愛する人の葬儀を出すことがあれば、そういうことをするだろうと思います。

 大切なのは、それはそれとして、しかし私達の本当の慰めは御言葉への信仰にあるのだということがきちんと葬儀で表されることが大事なのではありませんでしょうか。ヨセフはもちろん信仰者です。しかし、大胆にエジプト流を取り入れて、父ヤコブの葬儀を行いました。他方、ヨセフは父ヤコブの遺言については、これはヤコブの信仰、希望、また自分たちの信仰、希望に関わる重要なものとして、きっちりと守るのです。50章12-13節

 ヤコブの息子たちは父に命じられたとおりに行った。すなわち、ヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、マクペラの畑の洞穴に葬った。

 決して、エジプト流のピラミッドみたいなお墓を建てたりせず、たとえ見劣りがしても、アブラハムやイサクらが葬られた墓に、ヤコブの亡骸を埋葬したのでありました。
和解の再確認
 ところで、ヨセフ物語を読んできて、皆さんもお気づきだと思いますが、ヨセフという人はずいぶん泣き虫だったようです。エジプトで最初に兄弟たちと再会した時にも、彼は涙を流して泣きました。二度目の時には、ベニヤミンを見て、やはり涙を流しました。そして、自分の正体を打ち明ける時にも大声で泣きました。父親が死んで涙を流しました。聖書の中で、こんなに泣いたことが書かれている人物は他にいないのではないでしょうか。

 ただ考えてみますと、奴隷として売られたり、濡れ衣を着せられて投獄されたりした時には、ヨセフが泣いたとは書いてありません。私は、これだけ泣き虫のヨセフでありますから、おそらく泣いたんだろうと思います。悔し涙も流したでしょうし、不安からくる涙も流したでありましょう。泣くことは悪いことではありません。しかし泣いたとしても、ヨセフは涙に暮れるということはしなかった。どのような苦難を経験しても、必ず涙をぬぐい、神に望みを置き、救い日を固く待ち望んで、前向きに生きてきたのであります。だから、聖書にはそのような苦難の日々にヨセフが泣いたことを書いていないのでありましょう。しかし、そのヨセフも、愛から溢れてくる涙ははばかることなく流し、大声で泣いたと、聖書は伝えているのです。

 他方、ヨセフの兄弟たちの涙について、聖書は不思議なほどに語っていません。ヨセフが涙を流して兄弟たちを抱きしめた時にも、父ヤコブは死んだ時にも、聖書は彼らの涙について語りません。なぜでしょうか。彼らが、ヨセフのように素直に喜びを喜び、悲しみを悲しめないのには、一つの理由があったのです。

 それは罪がもたらす不安であります。50章15節には、そのことがよく表れています。

 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。

 父親の死を、彼らも深く悲しんだことでありましょう。けれども、父の死は悲しみだけではなく、「お父さんがいなくなったら、ヨセフは自分たちをどうするつもりだろうか。もしかしたら、途端に仕返しをはじめるのではないか」という、恐れや不安をももたらしたのであります。ということは、ヨセフがすべてを赦して、涙まで流して、彼らを抱きしめてくれた時にも、彼らは喜びや安堵と共に、なお完全には消えることのない恐れや不安をも一緒に抱えていたということになるのではないでしょうか。

 このように、罪というのは、他人をも苦しめますが、自分自身を苦しめるのです。罪がわたしたちの魂にもたらす傷は、たとえ赦してもらったとしても、なお不安が残る、そういうものなのです。たとえば、福音は、イエス様が私達の罪を一方的に赦して下ったと語ります。それを聞いても、なかなか素直に「イエス様、感謝します」という喜びが湧いてこない。うれしいことはうれしいのですが、不安や恐れが完全に消えるわけではないのです。本当に赦されているのだろうか? もし、もう一度イエス様のご機嫌を損ねるようなことをしたら、以前のことも含めて「やっぱり、お前は仕様のないやつだ」と、きつい罰を受けるのではないか。そんな不安や恐れがつきまとってしまうのです。

 どうしたらいいのでしょうか。罪の赦しというのは、確かにイエス様の一方的な恵みであり、私達はただ感謝して受け取ることが肝心なのですが、やっぱりこちらからも「イエス様、ごめんなさい。赦して下さい」と祈り、一生懸命にイエス様の愛に応える生活をするしかないのだろうと思います。

 考えてみますと、ヨセフの兄弟たちは、今まで自分の犯した罪を認めてはきましたが、ヨセフに「ごめんなさい。赦してください」と謝罪をしてはいないのです。逆に言うと、そのような謝罪がなくても、ヨセフは彼らの罪を一方的に赦してきました。そして、その赦しを彼らに伝えてきました。さらに、その赦しが本当であるということを、兄弟たちに対する恵み深い扱いにおいて証しをしてきました。

 どうして、謝罪もなくこんなに寛大になれたのかと言いますと、すべての事の中にヤコブの家を救おうとする神様のお働きがあることを認めることができたからです。それならば、私が兄弟の罪を責めたり、罰したりすることではない。神様の御心が実現するために、私も彼らを赦しましょうということだったわけです。それは、自分の正体を彼らに明かした時のヨセフの言葉によく表れています。45章4-5節で、ヨセフは兄弟たちにこう言っています。

 ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

 兄弟たちは、あまりにも安心したせいでありましょうか、ヨセフに赦しを乞うことも、謝罪することもないまま、エジプト移住やら何やらと、出来事だけが先に進んできてしまったのです。罪というのは赦しがなければ解決しません。赦しが一番大事なことです。しかし、それに対する懺悔、謝罪、悔い改めがなければ、本当の意味での解決、つまり和解にはならないのです。兄弟たちはその問題をずっと引きずってここまで来てしまったのでした。そこで、彼らは遅ればせながら、それを果たそうとします。16-17節

 そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」

 「人を介して」というのは、ただひとりヨセフに対して罪のないベニヤミンのことかもしれません。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました」とありますから、ヤコブもこの件については心配をしていたのでありましょう。そして、ここではじめて、兄弟たちはヨセフに「私達の罪を赦してください」と口にしたのです。

 これを聞いて、ヨセフは涙を流した。(17節)

 またもや、ヨセフは泣いています。それは、彼らの気持ちを思ってでありましょうか。それとも、ヤコブの気持ちを思ってでありましょうか。おそらく両方でしょう。ヨセフがこのように素直に自分の気持ちを表すことができるというのは、彼の気持ちが清いからなのです。

 兄弟たちの謝罪に対するヨセフの回答は、まさにヨセフ物語の結語にふさわしいものでありました。19-21節

 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」

 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」 ヨセフ物語が私達に伝えようとしているのは、この信仰であります。この信仰がなければ、兄弟たちがどんなに謝罪をしても、悔い改めても、ヨセフは彼らを赦すことができなかったでありましょう。私達も自分の愛の力で人を赦そうとしても、なかなかそれができないことがあります。しかし、悪ですらも善に変え給う神様の愛と御力に対する信仰によって、ヨセフは兄弟たちの罪を完全に赦すことができたのです。
ヨセフの死
 ヤコブの死から五十四年を経て、ヨセフは百十歳で息を引き取りました。その間の物語は何も記されていませんが、ひ孫まで生まれて、膝に抱くことができたというひと言で、それは本当に慰めと平和の日々であったのだろうと思います。そして、その最期にあたっては、ヤコブがヨセフに頼んだように、ヨセフもまた息子たちに「私の遺体を必ずカナンの地に連れ帰って欲しい」と頼んだのでした。

 ヨセフの死後のお話しをちょっといたしましょう。出エジプト記1章6-7節にこう記されています。

 ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。

 ヤコブの子孫は、およそ四百年の間、エジプトで暮らし、繁栄しました。しかし、やがてヨセフのことを知らない王が出てきて、ヤコブの子孫、つまりイスラエル人を迫害し始めたのでした。その中で、レビの子孫からモーセが生まれます。このモーセによって、エジプトを脱出し、カナンの地に帰って行くのです。

 そのエジプト脱出の物語が『出エジプト記』に記されているのですが、いよいよモーセに率いられてエジプトを出るとき、モーセはヨセフの骨(あるいはミイラ)をもエジプトから運び出しました。出エジプト記13章19節

 モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。

 モーセとイスラエルの民は40年間、荒れ野を彷徨ったすえ、とうとう約束の地カナンの手前に到着しました。(本当はそんなに遠くないのですが、民の不従順のゆえに40年間も荒野で彷徨うことになってしまったのです。)モーセはカナンの地の手前で死に、ヨシュアが後継者となります。そして、民はヨシュアと共にカナンの地に入っていくのです。もちろん、ヨセフの遺体も一緒です。ヨシュア記24章32節にこう記されています。

 イスラエルの人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。それは、ヨセフの子孫の嗣業の土地となった。

 こうして、ヨセフの遺言は、400年以上も経って、モーセ、ヨシュアの手を経て実現したのでありました。

 ヨセフの物語は以上です。しかし、神様の綴られる物語は、なお続きます。それはステファノの説教(使徒7章)にある通りです。ステファノはアブラハムから説き起こし、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、そして預言者たちの時代について語り、最後にイスラエルの民にこう申しました。「あなたがたはいつも聖霊に逆らってきた」と。その結果が、イエス様の十字架であるということでありましょう。しかし、イエス様は、ヨセフのように苦しみを受けた後に栄光をお受けになりました。そして、ヨセフの言葉の借りるならば、私達にこう語ってくださっているのです。

「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」

 ヨセフの受けた苦しみよって兄弟たちの命が救われたように、私達もイエス様のお受けになった苦しみによって救われたのです。聖書はこのようにも語っています。

 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

 イエス様の十字架と復活によって、私達は神様と和解させていただき、新しい人間として、新しい時を生きる者に生まれ変わるのです。感謝と、そして真実の悔い改めをもって、ヨセフの兄弟たちのように「わたしたちはあなたの僕です」と、イエス様に告白し、罪の恐れから解放され、赦された者として新しい時に生きる者になりたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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