ヨセフ物語 19
「主は命を与えませり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ペトロの手紙1 2章11-17節
旧約聖書 創世記46章31節〜47章26節
プライドを捨ててはならない
 先週は、ヤコブとその70人にも及ぶ家族が、ヨセフの招きに応じて、エジプトへの大移動を果たしたというお話しをいたしました。そこで、ヤコブは、22年ぶりに愛する息子ヨセフとの再会を果たすのであります。

 今日はその後のお話しであります。ヨセフは、はるばるエジプトにまでやってきた自分の家族が、この地で安全に、平和に、暮らすことができるようにと願い、家族を連れてファラオのもとに表敬訪問をすることにします。その際、ヨセフはヤコブや自分の兄弟たちに、あらかじめ一つの願いを伝えました。それは、もしファラオに「あなたがたの仕事は何ですか」と尋ねられたならば、その時には臆することなく、堂々と「私どもは先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます」と答えて欲しいということであります。46章31-34節に書かれているヨセフの言葉をもう一度読んでみたいと思います。

 ヨセフは、兄弟や父の家族の者たちに言った。「わたしはファラオのところへ報告のため参上し、『カナン地方にいたわたしの兄弟と父の家族の者たちがわたしのところに参りました。この人たちは羊飼いで、家畜の群れを飼っていたのですが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えてやって来ました』と申します。ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。(46:31-34)

 「羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」と書いてあります。それにも関わらず、ヨセフは羊飼いであることを決してファラオの前で隠さないで欲しいと言うのであります。それはどういうことなのでしょうか? 

 私は、プライドの問題ではないかと思うのです。エジプトは当時の文明の先進国でありました。すばらしい建築物が立ち並び、市場には世界中から人々が集まって来ている。学問においても、芸術においても、経済においても、すべてにおいて目を見張る華やかさを誇っている国であります。カナンの地で遊牧民の暮らしをしていたヤコブとその家族にとっては、見るもの触るものすべてが珍しきもの、新しきもの、驚くべきものであったに違いありません。

 他方、ヤコブとて、カナンの地においては、決して小さき者ではありませんでした。七十人からなる大家族の家長であり、多くの家畜を持っており、他の部族からも一目置かれる存在であったでありましょう。しかし、エジプトに来てみれば、そんなことは無きに等しいほどのことになってしまうのです。私も、田舎者ですから、東京に出てきた時には、都会の華やかさに圧倒され、ずいぶん気後れをしたものであります。都心に出ると、ビルの高さばかりに目がついて、気がつくと上ばかり見て歩いました。また東京の人は、みんな颯爽と歩いているし、男も女もお洒落で格好よく見えるものですから、私も色気を出して洋服を気遣ったりもしました。それでも、武蔵境駅のイトーヨーカドーには気楽に入ることができましたが、銀座の三越には恐れ多くて入ることができないのです。

 しかし、ヨセフは、「そんなことに気後れしてはいけません」と言っているように思うのです。イエス様は、野に咲く一輪の花をご覧になって、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」と仰いました。人間が作り出したものは、それがどんなに贅を極めたものでありましても、あるいは叡智を結集したものであろうとも、神がお作りになったものに勝ることは、決してないのです。

 ヨセフはそのことをよく知っていました。ヨセフは、今でこそエジプトの宰相として、ファラオの寵愛を受け、エジプトの華やかな表舞台に立つ人間でありますけれども、ついこの前までは奴隷として、囚人として、華やかなエジプト社会の陰の部分をつぶさに嘗めて生きてきたのであります。そして、そこには文明社会ならではの、人間の汚い、黒い欲望が渦巻く世界を味わい尽くしてきたのでありました。エジプトの繁栄は、所詮、人間が作り出したものに過ぎない。そして、人間が作り出した光は、必ずどす黒い陰を作り出すものなのだということを、ヨセフは経験的に知っているのであります。

 それに対して父ヤコブは、その家族は、どんなに貧しく小さくとも、神さまに選ばれた家族なのです。ヤコブが国を持たない遊牧民であることは、エジプト人にとっては卑しいことかもしれませんが、ヨセフにとっては、それは神に選ばれた家族として、神の約束に生きる民であること証しであります。かつて神さまはメソポタミア文明の中で富裕な暮らしをしていたアブラハムを召し出し、「あなたは生まれ故郷を離れ、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」と言われました。そして、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と約束してくださいました。アブラハムが、その神さまの約束を信じて、すべてを捨てて、この世の旅人となったのであります。そして、カナンの地をあなたの子孫に与えるという約束をいただいて、そこで神さまの約束を信じて望みつつ、遊牧民として暮らし続けたのであります。

 この約束はアブラハムから息子イサクに受け継がれました。先週もお話ししましたが、イサクもその地で飢饉に遭い、エジプト行きを考えます。しかし、その時、神さまは「エジプトに行ってはならない。約束の地で踏ん張りなさい」と言われ、イサクは神さまの言葉を信じてその地に留まり続けました。そして、その約束はさらにヤコブに引き継がれます。神さまは、イサクの時とは違って、今度は「エジプトに行きなさい」と言われました。しかし、神さまは決してエジプト人になれと言われたのではありません。「後の世代になったとき、私は必ずあなたの子孫をカナンに連れ戻す」と、神さまはヤコブに約束されました。つまり、エジプトにあっても、イスラエルはイスラエルであり続け、神さまの約束に生きる者であれということなのであります。

 ヨセフが、ヤコブに、そして兄弟たちに、ファラオの前で自分たちが羊飼いであることを隠さないで欲しいと言ったのはプライドの問題であると、私は申しました。そのプライドとは、神さまの約束に生きているというプライドであります。エジプトの栄華に目がくらんで、それを捨ててはいけないというのが、家族に対するヨセフの願いであり、助言なのであります。

 これは、私達クリスチャンにとってもまったく同じでことでありましょう。私達はこの世の富、力、名誉に目がくらんで、私達の本当の誇りをわすれてはなりません。私達の誇りは、イエス様の十字架にあるのです。神さまは、私たちがまことに罪深く、愚かで、心鈍い者であるにもかかわらず、「お前は滅んではならない。お前は生きなくてはならない。独り子の命に代えても、お前を愛し、守り、御国に住まわせる」と言ってくださった。そして、事実、イエス様をお贈り下さり、十字架におかけになった。「主は命を与えませり」、それを忘れてはいけません。たとえ、私達がこの世でどんなに高い地位についても、どんなに大金持ちになっても、この世の称賛を浴びるような偉業を成し遂げたとしても、あるいはそれらすべてを失うはめになったとしても、私達は十字架を誇りとして生きていかなくてはならないのです。 
ファラオを祝福する
 さて、こうしてヨセフはヤコブと兄弟たちを連れて、ファラオを表敬訪問いたします。まずヨセフは、兄弟五人を選んで、ファラオの御前に出ました。果たしてファラオは、ヨセフが予測したとおり、「お前たちの仕事は何か」と兄弟たちに尋ねます。そこで彼らは、ヨセフに言われた通り、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答えるのです。

 ここで、兄弟たちが、この世の王に対して、神の約束に生きる者である誇りを失わずに堂々と答えると同時に、他方では「あなたの僕であるわたしども」と言って、この世の王に一定の敬意を表していることも大切なことだと思います。私たちは、世の富や権力におもねって生きる者ではありません。しかし、この世の富や権力をぞんざいにして生きる者でもないのです。

 こう言ったら良いかも知れません。私達は世に属する者ではありませんが、世に仕えるように神さまによって世に遣わされている者なのです。世の富に対して、世の知恵に対しても、世の力に対しても、私達は奴隷になってはいけません。私達はイエス様の十字架の血潮によって、そういったものから贖われた者であり、それらのものから自由なのです。しかし、神さまに属する自由な者として、世に仕えるのです。そうすることによって、世に対する神さまのお働きが、私達を通して実現していくからです。

 そのことは、次に見られるファラオをヤコブの会見において、いっそう明らかにされます。ファラオと兄弟たちの会見が終わると、ヨセフは父ヤコブをファラオのもとに連れてきました。7節

 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。

 ヤコブはファラオを祝福したということが書かれています。祝福するというのは、幸せを祈ることであります。しかし、幸せというのはいったいどこにあるものなのでしょうか。世の富、世の知恵、世の誉れの中に、でありましょうか。そうであるならば、ヤコブは祝福を祈らなかったでありましょう。なぜなら、ファラオはすでにそれらのものを十分に持っているからであります。むしろ、持っていないのはヤコブの方でありまして、ヤコブこそファラオに祝福を希わなければならなかったでありましょう。

 しかし、現実は逆なのです。何かも持っているファラオを、何も持たないヤコブが、祝福したのです。なぜなら、幸せとは、世の富とか、知恵とか、力のうちにあるのではないからです。それらを持っていても、不幸せな人は世の中にたくさんいます。それが現実なのです。ファラオも、多くのものを持ちながら、本当の幸せを知らない人間の一人ではなかったとどうして言えるでしょうか。

 本当の幸せは、神さまのもとにあります。神さまのもとにある幸せを、天から呼び下して、人に与える。それこそが、本当の祝福の祈りであります。そして、そのような本当の祝福の祈りができる人は、神からすべてものをいただくことができる人であると言ってもよいでありましょう。ヤコブは、ファラオの前で、そのような者として振る舞うのです。そのような神の僕としての威厳を持つ者として、神の豊かさを持つ者として、ファラオを祝福するのです。

 クリスチャンの世に対する態度も、これと同じでありましょう。ペトロは、美しの門に座って物乞いをしている足の不自由な人に、「金や銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。イエス・キリストの御名によって歩きなさい」と言いました。金や銀がなくても、私達は、私達に与えられているイエス・キリストの御名によって、天の力をこの地に呼び下し、世を祝福することができるのです。

 パウロはこう言いました。

 「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(2コリント6:8-10)

 ヤコブもそうなのです。ヤコブはファラオに「何歳におなりですか」と尋ねられ、こう答えます。

 「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」

 しかし、ヤコブは、神さまによって生かされ、喜びをあたえられ、無一物でエジプトに逃れてきたにもかかわらず、ファラオでさえ祝福する豊かさを持っていたのです。まして、イエス様の御名をいただいている私達は、それ以下であるはずがありません。私達も人生は労苦に満ちていても安らぎがあり、徒労に見える働きにおいても実りを確信し、死に瀕していてもなお神さまのもとに生き続ける者であります。「貧しき者の如くなれども多くの人を富ませ、何ももたぬ者の如くなれどもすべてのものをもてり」と言える者なのです。この豊かさをもって、私達は世を愛し、世に仕え、世を祝福するのです。

 世を愛すると言いましたが、祝福というのは幸せを祈ることなのですから、愛がなくては祈れません。そして、愛するとは、その人を大切にすることです。そういう意味では、ヤコブはファラオを心から敬愛していたのです。私達も世に執着してはなりませんが、世を愛さなければなりません。そうしなければ世を祝福する者として生きることはできないのです。

 ペトロはこう言っています。

 異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(2ペトロ2:11)
ヨセフの政治
 さて、47章13節以下には、飢饉が深刻化するエジプトでのヨセフの働きが述べられています。そもそもヨセフは飢饉が起こる前、七年の豊作が続くうちに、十分な穀物を蓄えました。それをもって、飢饉が起こった時、エジプト国民ならず他の国の人々にも穀物を売り、多くの人を飢えから救ってきたのであります。

 ところが、飢饉が三年、四年と続くと、エジプト国民も穀物を買うお金がなくなってきます。それでヨセフは、家畜と引き替えに穀物を売るようにいたします。ところが次の年になると、家畜すらいなくなってしまいます。それで今度は農地と交換に穀物を与えるようにしたというのです。つまり、エジプトの農民は土地を失い、小作農となり、収穫の五分の一を税として国に収めるようになったのであります。考えようによっては、国家権力が飢饉を利用して農民から搾取しているようにも思えます。しかし、農民たちは、ヨセフに「あなたは命の恩人です」と感謝しているということが大切だと思います。

 彼らは言った。「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます。」(25節)

 ヨセフは、エジプトの農民を救ったのです。七年も続く大飢饉で、おそらくエジプト周辺諸国では無数の餓死者が出たことでありましょう。しかし、エジプトの農民たちはお金はなくなり、家畜もなくなり、土地までなくなったけれども、だれひとり餓死者は出なかった、そういうことなのです。

 みなさん、エジプトの農民たちにとってヨセフが救い主であったように、イエス様は私達の救い主です。しかし、救い主イエス様のもとにある私達が、この世で何も失わないということではないのです。エジプトの農民たちのように多くのものを失うかもしれません。そして無一文になるかもしれません。しかし、そうなっても一番大切なものは無傷で守られるのです。そのことを信じたいと思います。

 今日は、「主は命を与えませり」という説教題をつけました。イエス様はご自身の命をあたえてくださったのです。私達に与えられたその救いの大きさをわすれないようにしましょう。そして、この世で多くのものを失うとしても、イエス様は救い主ですと終わりに日に讃美する者でありたいと願います。
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