ヨセフ物語 18
「備え給う主の道を行かん」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ペトロの手紙1 1章3-9節
旧約聖書 創世記46章1-30節
新しい出発
 先週のお話は、人生には第一部と第二部があるということでありました。第一部というのは、祝福を受けられなくなっていった人間が、神さまに大きな愛と救いの中で、祝福される人間として生まれ変わっていく物語であります。それは決してたやすい物語ではありません。ヨセフ物語の場合、家族が崩壊してから、再び結びあわされるまで22年の歳月がかかりました。その間、父ヤコブの人生は深い悲しみに閉ざされた人生でありました。ヨセフの兄弟たちは、犯した罪に苦しみ続ける人生でした。そして、ヨセフはまことに数奇な、苦難に満ちた人生を生きることになりました。しかし、そのすべてが、神さまの御手の中で、真の家族への生まれ変わるための恵みへと変えられていくのであります。

 その際、ヨセフの人生が特に用いられました。それは、ヨセフが、どのような苦難の中にあっても、神の救いを信じ続けることができた希望の人であったからであります。希望に生きるとはどういうことであるか。それを、私達はヨセフの人生を通して学んできたと言ってもよいでありましょう。

 神さまは、希望の人ヨセフを通して、ヤコブの家に救いをお与えになるのであります。それは人間の弱さ、罪によって崩壊した家族が、もう一度祝福を受け継ぐ家として建て直されるということでありました。しかし、ヨセフの物語、あるいはヤコブの家族の物語は、それで終わりではなく、そこから第二部がはじまるのです。その物語は、神様に救われた人間として、神の祝福への招きに応えて生きるという物語なのです。同じように、私達、クリスチャンの人生にも、救われるまでの人生と、救われた者として神の祝福への招きを受け、それに応答する人生があるのです。

 先週はそのようなお話しをしまして、その第一部と第二部の橋渡しとしまして、ヨセフが、父ヤコブにエジプトへの移住を勧めたということを学びました。エジプトで、ヨセフとの和解を果たした兄弟たちは、「みんなでエジプトで暮らしましょう」というヨセフの言葉を聞き、さっそく父ヤコブの住まうヘブロンの地に帰りまして、「お父さん、ヨセフはエジプトで生きています。しかも、エジプトを治める者になっています。」と報告をします。ヤコブはそれを聞いて、元気を取り戻し、「よかった、死ぬ前にどうしてもヨセフに会いたい」と言って、エジプトへの移住を決断したのでありました。
さて、今日は46章でありますが、それはこのような言葉ではじまっています。

イスラエルは、一家を挙げて旅立った。(46章1節a)

 「一家を挙げて旅だった」、何か晴れ晴れしいものを感じます。バラバラに崩壊してしまった家族が、再び一つとなって新しい旅立ちをするのであります。

 ここで「イスラエル」とは、ヤコブのことであります。ここに初めて出てきた言葉ではなく、これまでもヨセフ物語の中でヤコブがイスラエルと言われているところは何度もあったのですけれども、ここでちょっとその名前に考えてみたいと思います。

 創世記32章に語られていることでありますが、かつて、ヤコブはヤボクの渡しで、「祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と、夜を徹して神さまと組み討ちするような激しい祈りを捧げました。その時、神さまは「あなたはこれからヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。あなたが神と戦って勝ったからである」と仰り、ヤコブを祝福し、この新しい名前を与えてくださったのでした。

 この「イスラエル」という名前は、今もユダヤ人の国の名前として残っているのですが、その意味は「神と戦って勝利した人間」であると、聖書に言われています。確かに、ヤコブは「祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と、非常に戦闘的な祈りをして祝福を勝ち得たとも言えるのですけれども、本当にヤコブは神に勝ったと言えるのでしょうか。この勝利というのは、ヤコブが自分で「わたしは勝った」と勝利を宣言したものではなく、神さまが「あなたの勝ちだ」とヤコブに与えてくださった勝利なのであります。つまり、ヤコブが力で勝ったのではなく、神さまが憐れんでヤコブに負けてくださることによって、ヤコブに与えられた勝利であると言えましょう。

 神さまと人間がまとも争えば、神さまが勝つに決まっています。しかし、神さまは人間をそのような力で抑えつけるお方ではないのです。神さまが私達に願っておられるのは、力にねじ伏せられた弱々しい者として生きることではなく、神の恵みによって立ち上がり、強く雄々しく生きる者になることだからです。そのために、神さまはご自身の勝ちにこだわるのではなく、いかに私達に勝利をお与えになるかということを絶えず心にかけてくださるお方なのです。「イスラエル」という名前には、そういう神さまの愛のお心が込められているのです。イスラエルという名前の意味するものは、ヤコブがそのような神さまの憐れみを受けて、どんな敗北の中になっても、必ず勝利者として立ち上がることが約束された者であるということだと言っても良いのではありませんでしょうか。

 そして、まさにヤコブは、イスラエルとして、つまり神さまの憐れみによってあらゆることに勝利する者として、悲しみのどん底、絶望の崖っぷちから立ち上がり、このような晴れ晴れしい新しい旅立ちをする者になったということなのです。
神の声を求める
 さて、旅立ちというものは、それがどんなに希望に溢れたものでありましても、未知なる世界に足を踏み入れていくわけですから、そこには様々な恐れやためらいというものも同時にあるのであります。ヤコブもそうであったに違いありません。ヤコブが今すんでいる土地は、ヤコブの祖父であるアブラハムが、神さまによって「この土地をあなたの子孫に与える」と約束していただいた土地でありました。そこにはアブラハム、サラ、イサクが眠るお墓もありました。果たして、そういう土地を離れて、はるかエジプトに下って住むということが、神さまの御心に適うことなのだろうかと、ヤコブは迷ったに違いありません。

 確かに、飢饉があって、この土地に住み続けることは極めて困難なことでありました。しかし、思い出されるのは、父イサクが語ってくれた話であります。父イサクもまた、この土地で厳しい飢饉を経験しました。そして、飢饉から逃れるためにエジプトに下ろうと考えました。ところが、その時、神さまは「エジプトに下って行ってはならない。私が命じる土地に留まり続けなさい。そうすれば、わたしはあなたを祝福し、この土地をあなたとあなたの子孫に与える。アブラハムに誓った祝福をあなたにも誓う」と仰ったのでした。それでイサクはエジプトに行く計画を取りやめました。そして、イサクがその土地に留まり、飢饉に耐え忍んで、畑に種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があったというのです(『創世記』26章1-14節)。ヤコブは、父から聞いていたこのような話を繰り返し語り聞かされていたに違いありません。

 もしかしたら、私も、この土地に留まり続けるべきなのではないだろうか。それが神さまの御心なのではないだろうか。どんなに辛くても、耐え忍んでいれば、きっと神さまが父イサクの時のようにお守りくださるのではないだろうか。それが信仰というものではないだろうか。こんな風に、ヤコブは迷ったと思うのです。

 他方、死んだと思ったヨセフがエジプトで生きているということ、これも神さまの祝福の現実です。そのヨセフは、「神さまが、みんなをエジプトに呼び寄せるために、私をはじめにここにお遣わしになったのです」と言っています。確かに、ヨセフに与えられた神さまの奇しき祝福を診ますと、確かにヨセフの言う通りかもしれないとも思うのです。

 進むべきか、留まるべきか。チャレンジをするべきか、忍耐するべきか。いったい神さまの御心はどちらにあるのだろうかと、皆さんも悩みを持たれる事があるのではないでしょうか。聖書を読みますと、神さまは「進め」という時もあれば、「留まれ」という時もある。「大胆にチャレンジせよ」と励まされる時もあれば、「じっと忍耐せよ」という時もある。結局、その時々に、神さまの声を聞くしか答えは出てこないのです。

 ヤコブは迷いつつもとりあえず、ヘブロンを出発しました。それは、それだけヨセフに会いたいという気持ちが強かったからでしょう。しかし、自分の気持ちだけ進むことに不安があった。そこで、ヤコブはまずベエル・シェバという古い町に行くのです。そこは、アブラハムやイサクともゆかりの深い町でありました。特に父イサクは、この町で「わたしはあなたを祝福する」という神さまのお言葉をいただきました。そのような父イサクが神さまと出会った場所で、自分も祭壇を築き、神さまに祈って、神さまの声を聞こうとしたのであります。1節の後半から読んでみますと、

 ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(46章1b-4節)

 神さまは、ヤコブに「エジプトに下ることを恐れてはならない」と言われました。そして、神さまご自身がヤコブと共にエジプトに行き、そこでヤコブの子孫を大いなる国民として、いつの日にか必ずこの地に連れ戻すであろうと、約束してくださったのであります。

 神さまが共にいてくださる、この確信を与えられたヤコブは、もはや後ろ髪を引かれることなく、神さまの祝福に向かってまっすぐに旅立ちます。

 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。こうしてヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行った。(46章5-7節)

 ところで、私達もヤコブのように迷った時、神さまのこのような声を聞くことができるのでしょうか。それは、必ずできるのです。神さまの声を聞くとは、音として耳に聞こえてくるということもあるでしょうが、決してそれだけではありません。たとえば、ヨセフはどうでしょうか。ヨセフの物語を読んで気がつくのは、一度も、ヨセフはこのような神の声を直接聞くという経験をしていないのです。では、ヨセフは神の声を聞いていなかったのかといえば、そうではありません。ヨセフは、違う仕方で、神さまの声を聞き、御心に対する確信をもっていたのであります。

 たとえばヨセフが奴隷としてエジプト人の家で仕えることになったとき、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」(39章2節)と言われていました。濡れ衣をきせられて牢屋に送り込まれた時にも、「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれた」(39章21節)と言われていました。このように、苦難の中にもなお神さまの祝福があるということ、それによってヨセフは「神さまが共にいてくださる」ということに確信を持つのです。それは苦難に満ちた人生を、なお希望をもって忍耐するヨセフの生きる力になりました。

 またヨセフの兄弟たちは、自分たちの身に起こった不幸を通して、神さまの声を聞きました。銀の杯の盗んだ廉で訴えられたとき、彼らはその件について潔白であったにも関わらず、「神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、ご主君の奴隷になります」(44章16節)と言いました。彼らは、銀の杯の件についての罪のことではなく、もっと根深いところにある罪のことを言っているのであります。その罪を明らかにしようとされる神の働きを、この不幸な出来事のなかに見ているのであります。

 このように、神の声を聞くということは、あらゆることを通して神さまの御心を悟るということであります。そのためには、私達の心が、神さまに向かって開かれていなければなりません。そうでなければ、何を見ても、何を経験しても、神さまの御心を少しも感じることがない鈍感な者であり続けてしまうのです。しかし、もし私達が神さまに祈り、御心を尋ね続けるならば、神さまは必ず、私達の心に御心を示してくださるでありましょう。どんな方法を用いてかはわかりませんけれども、「ああ、これだ」と分かるようにしてくださるのです。 
備え給う主の道
 さて、8節から27節には、エジプトに向かったヤコブの70人の家族の名が記されています。もっともこの70人の中には、すでに死んでいる者やエジプトにいるヨセフやその子らも含まれていますから、実際にヤコブと共にエジプトに行った人数そのものではないようです。いずれにせよ、聖書が言わんとしていることは、みんなで行ったのだということでありましょう。信仰生活というのは一人ぼっちの旅路ではないのです。兄弟姉妹たち、みんなで歩むものであるということなのです。

 もちろん、ヨセフが経験したように、一人苦しまなければならない孤独を経験させられることもありましょう。それでも、その経験は家族みんなの救いへと結実していきます。一人でいるときも、一人ではなく家族とつながっているのであります。私達の信仰生活も、教会の交わりの中にあることをわすれないようにしたいものであります。

 28-30節には、ついにヤコブがエジプトまでやってきて、22年ぶりにヨセフと再会したということが記されています。

 ヤコブは、ヨセフをゴシェンに連れて来るために、ユダを一足先にヨセフのところへ遣わした。そして一行はゴシェンの地に到着した。(46章28節)

 ヤコブたちはエジプトのゴシェンに到着しました。ゴシェンというのは、ナイル川の下流で、羊を飼って暮らす遊牧民であるヤコブ一族のためにヨセフが特別に配慮して選んだ土地であります。住むにも、家畜を飼うにも適した良い土地でありました。とはいえ、広い地域でありますから、自分たちのところに迷わず来られるように、ヤコブはユダをヨセフの元に遣わします。そして、ユダに道案内をさせ、確実に、早く、ヨセフに会えるように計らうのです。

 ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。(46章29節)

 ヨセフは、ユダから父ヤコブの到着の知らせを聞き、すぐに車を用意させると、ゴシェンにやってきました。そして、「父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。」というのであります。

 イエス様の放蕩息子のたとえ話の中で、父が死んでいたと思っていた息子と再会し、感極まって抱きした場面を思わせるような記述であります。ただ、この場合は、息子が父親を迎えるという話になっていて、その点は違います。

 父ヤコブは、ヨセフと再会した喜びをこのように言い表しました。

 イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(46章30節)

 ヤコブは、ヨセフを失った時、ヨセフが死んでしまったと信じて、「ああ、わたしも早く死んで、ヨセフのもとに生きたい」と言いました。これも「死にたい」ということですが、ここで「わたしはもう死んでもいい」とヤコブが言ったこととはまったく意味が違います。そんな風に悲しみのうちに死にたくはないけれども、もう生きていく望みがなくなったということであります。

 聖書を読んでいますと、信仰者の口から、「もう死にたい」というような絶望的な悲鳴があがるときがあります。ヨブなどは、その代表でありましょう。しかし、ヤコブにしても、ヨブにしても、生きる望みがなくなるような絶望を経験していながら、決して自分で命を絶とうとは考えなかったようであります。人の生きに死には、神さまの御手の中にこそあるのであって、自分で決めることはないと信じていたからでありましょう。

 もっと言えば、自分には生きていることにまったく意味が見いだせないとしても、それでも神さまが命をお与えになっている限り、神様の方には私達を生かしていることに何か意味があり、ご計画があるのです。ですから、命は尊いのであります。他人の命であれ、自分の命であれ、決して自分の手で奪ってはいけないのです。それは命の主である神さまへの反逆だからです。

 ヤコブは、悲しみを背負い、苦しみに沈み、喜びもなく、望みもなく、22年を生きてきました。それでも、生きてきたからこそ、ヨセフとの再会の幸せを得ることができたのであります。ヨセフに会って、ヤコブは「もう死んでもいい」と言います。それは、やっとこれまで生きてきたことの意味がわかったと、生きてきてよかったという事なのです。

 今日は、「備え給う主の道を踏みて行かん」という説教題を付けさせていただきました。これは、先ほどご一緒に歌いました讃美歌の歌詞であります。

 わが行く道、いついかに
 なるべきかはつゆしらねど
 主はみこころなしたまわん
 備え給う主の道を
 踏みて行かん、ひとすじに


 「わが行く道」とは人生のことでありましょう。その人生がどんなに苦しいことばかりで、生きている意味すらも分からなくなったとしても、神さまは必ず御心を行ってくださるのだという信頼の歌であります。ペトロもこのように語っています。

 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

 だから、どんな道であっても、どんな人生であっても、信じて生きていこう、歩んでいこうという歌なのです。どうか、私達もそのような信仰に生かされる者でありたいと願います。
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