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しばらくヨセフ物語をお休みしておりました。前回学びましたのは、物語のクライマックスともいうべき場面でありまして、ヨセフが兄弟たちのすべての罪を赦し、兄弟たちと固く抱き合って泣いたというお話でありました。ですが、二ヶ月も前のお話なので、お忘れの方もあるかと思います。まずこれまでのお話を振り返って、ヨセフ物語とはどういう物語なのかということをもう一度確認することから、はじめたいと思います。それは、単なる復習というよりも、今日のお読みしましたお話の意味を捉えるためにも大切だと思うからです。
ヨセフ物語のそもそもの事の起こりは、家庭崩壊にありました。聖書において「家庭」というのは、神の祝福の受ける器の最小の単位であります。よくキリスト教というのは個人主義だと誤解をされるのですが、決してそうではありません。神さまが最初の人間をお作りになったときにも、決して一人ではなく、男と女を造られたと書かれています。
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
『創世記』1章27-28節
神さまが最初にお作りになったのは一人の人間ではなく、一つの家庭であったのです。そして、神さまが最初に祝福されたのも、一人の人間ではなく、一つの家庭であったのでありました。この時以来、神さまの祝福は一人一人の個人にではなく、一つ一つの家庭を最小の単位として下るのです。
ノアの箱船の物語もそのことを物語っています。神さまは暴虐に満ちたこの世を洪水で滅ぼうとされます。しかし、ノアだけは神さまの御心に適う人であったので、箱船を造らせ、洪水の裁きからお救いになるのです。神さまはノアにこのように仰いました。
「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」
『創世記7章1節』
神さまが正しいとお認めになったのは、ノア一人であります。けれども、神さまは家族も一緒に箱舟に入りなさいと言われました。なぜなら、神さまの祝福は個人にではなく家族に注がれるものだからです。
さらに過越の祭りについてもお話をしましょう。過越の祭りは、ユダヤの正月に行われる祭りで、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、小羊の血によって贖われ神の民とされたことを証しするお祭りであります。この祭りの守り方について、モーセは民にこのように命じます。
「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」 『出エジプト記』12章21-27節
これを読みますと、神の救い、神の祝福が、家を単位としていることがよくわかります。家族が一つの家に集まり、家族ごとに一頭の小羊をほふり、家族全員でそれを食べ、またその血を家の鴨居に塗るように命じられています。そして、これは何のためですかと子どもたちが聞いたら、父親は「主が、我々の家を救われたのである」と答えなさいと言われているのです。
旧約聖書だけではありません。イエス様の救いも家族を単位としています。フィリピの獄吏が、パウロとシラスに「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねた時、二人は口をそろえて「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と断言しました。そして、その人と家族全員に主の言葉を伝えたと言われています。このように、聖書において家族というのは、神の祝福を受ける最小の、もっとも基本的な単位なのです。
ところが、その神さまの祝福を受ける器であるはずの家族がバラバラに壊れてしまった。しかも、その家族というのは、「地上のすべての民は、あなたによって祝福に入るであろう」という固い約束を受けた、アブラハムの家の三代目の当主であるヤコブの家であった。そこからヨセフ物語がはじまるのです。 |
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家族の基礎は夫婦であります。それをもとに親子の関係が生まれ、また兄弟の関係が生まれます。しかし、家族の基礎が夫婦であることは変わりありません。夫婦が真の愛によって結ばれていれば、そこに家族のしっかりとした土台ができるのです。しかし、それが揺らげば、親子の愛、兄弟の愛にもひずみがでます。私はヤコブの家の問題も、夫婦の問題が根底にあったと思っているのです。
ヤコブには二人の正妻と二人の側女がいました。このような結婚形態は、当時としては決して特殊なことではなかったのは事実です。しかし、神さまが祝福し給う結婚とは何かということを考えますと、アダムとエバの話をみてもわかりますように、一夫一婦制であることは間違いないのです。それを逸脱した結婚というのは、神さまの祝福の基とはなれないのです。ヤコブは、四人の妻たちのうち、ラケルを格別に愛し、他の妻を疎んじました。この愛の歪みが、当然、親子や子どもたちの兄弟関係にも影響を及ぼしてきます。結論を申しますと、ヤコブはラケルが生んだヨセフとベニヤミンを、特にヨセフを、他の子どもたちとあからさまに区別して、異常なまでに溺愛しました。そのために、ヨセフの兄弟たちは傷つき、ヨセフを妬み、憎み、殺意まで抱くようになったというのです。
そして、とうとう決定的な悲劇が起きます。兄弟たちがヨセフを本当に殺そうとしてしまうのです。しかし、幸いなことに長男のルベンが「殺すのはよそう」と言い出しました。きっと神の御手が働いたのだと思います。結局、彼らは殺してから荒れ野の穴に投げ込むという当初の計画を変更し、生きたまま荒れ野の穴に投げ込み、ヨセフを置き去りにしてしまったのでした。しかし、いずれ放っておけばヨセフは死ぬことになります。彼らはそれでも良いと思っていました。
ただ、ルベンは、後からこっそりと穴に戻り、彼を助け出すつもりだったようです。ところが、それは適いませんでした。ルベンが穴に戻ったとき、ヨセフは穴の中からいなくなっていたのです。実は、一足先に、穴の側を通りかかったミディアン人のキャラバンがヨセフを見つけ、それを拾い上げ、連れ去ってしまったのですが、そんなことを知らない兄弟たちは、自分たちの犯行を隠すために、雄山羊を殺し、その血をヨセフからはぎ取った着物にしみこませて、お父さんに送りつけます。それを見たヤコブは、「あの子は、野獣にかみ殺されてしまったのだ」と信じ込むのです。
ヤコブは、何日も何日もヨセフのために悲しみ続けました。子どもたちがお父さんを慰めようとしてやってきても、慰められることを拒絶して、「ああ、わたしも早く死んであの子のところに行きたい」というばかりだったと言います。
しかし、この事件の発端は、そもそもヤコブ自身にあったことを忘れてはいけません。ヨセフだけを異常にかわいがり、他の子どもたちを疎んじ、その心を傷つけたことが、このような悲劇を生んだのです。ヤコブはヨセフを得ようとして、ヨセフを失ったのでした。そして、それはヨセフの兄弟たちにも言えます。彼らは、父親の愛をヨセフから奪い返そうとして、この事件を引きおこしました。しかし、父の心はいっそう深くヨセフを追い求め、結果として彼らも父を得ようとしてそれを失ったのです。そしてヨセフは、というと、彼は遙か遠い異国に地エジプトに連れて行かれ、そこで奴隷として売られてしまったのでした。
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その後のヨセフの人生は、花よ、蝶よと大切に守られてきた幸せから、一変して真っ暗な深い淵の底に落ちてしまいました。信じていたお兄さんたちに裏切られたショック、命こそ助かったものの見知らぬ人たちに足かせ、首かせをはめられて、エジプトまで歩かされる恐怖、言葉もわからぬ国で奴隷とされる絶望、さらに濡れ衣を着せられて牢に入れられてしまう・・・まったく不幸の連続でありました。
他方、お兄さんたちも、表面的には平和に過ごしながらも、魂の奥では自分たちの犯した罪に苛まされて過ごします。父ヤコブは、いつまでも悲しみを引きずり、ヨセフの代わりにベニヤミンを溺愛する日々でありました。このように、この家族はどこにも救いがないような家族になってしまったわけですが、このバラバラになってしまった家族が、神さまの不思議な導きのうちに、再び一つの絆につなげられ、神さまの祝福を受け継ぐ家族となっていくというのが、これまで読んできたヨセフ物語の主題なのであります。
どのように、神さまはこの家族をもう一度立て直してくださったのか。エジプトのファラオが見た不思議な夢、それを解き明かし、七年の豊作と七年の飢饉を預言するヨセフ、エジプトの宰相に引き立てられるヨセフ、飢饉に苦しみエジプトの穀物を買いに来るヨセフの兄弟たち、そしてその兄弟たちを見つけ、自分の正体を隠しながら兄弟たちを試すヨセフ、これらのことについていちいちお話する時間はありません。しかし、一つ申し上げるならば、それは22年かかったということであります。これだけ長い年月、彼らは苦しみ続け、どこにも救いがないような思いを何度も経験してきました。しかし、この家族が経験した真っ暗な22年の間、神さまは休み給うことなく彼らの救いのための準備をしてくださっていたのであります。
みなさんの22年前を思い起こしてみてください。みなさんはどこで何をしておられたでしょうか。その時から今日に至るまで、どのような人生を歩んでこられたでしょうか。私もそうですが、それは決して一口に語れるものではありません。しかし、そのすべてが神さまの御手の中にあり、神さまの知恵と不思議によって織りなされて、私たちの「今日」という日があるのであります。
皆さんは、「今日」という日を神さまに感謝できるでしょうか。できるならば、それが幸せというものであります。22年間にどんな辛いことがあったとしても、今日という日を感謝しているならば、すべてのことが感謝なのであります。あるいは、「今日」という日を、なお暗闇の中で迎えておられる方もあるかもしれません。しかし、いつか必ず感謝できる日が来ます。すべては神さまの御手の中で、喜びに変えられるのです。そのために、神さまは私たちの人生を導いてくださっているのです。
ヨセフは、そのことに気づき、兄弟たちのすべての罪を赦し、このように申します。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(45章4-5節)
事の始まりは家族崩壊であったと、私は申しました。そして、それは明らかに人間の愚かしい罪によって引きおこされたものであります。ヤコブの罪、お兄さんたちの罪、そしてヨセフ自身にも罪がなかったとは言えないでありましょう。その罪の重さを、ヨセフは忘れてこう言っているわけではありません。しかし、神さまはその人間の犯した罪をご自分の重荷とされ、22年間という歳月をかけて祝福に変えてくださったのです。罪を祝福に変えるなんてことは人間には決してできないことでありますが、神さまにはそれが出来るのです。
パウロもそのことを経験しました。そして、こう言うのです。
「恵みの賜物は罪とは比較になりません。・・・恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決がくだされるからです。・・・罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」
『ローマの信徒への手紙』5章15,16,20-21節
罪があるから救われない、祝福されないというのであれば、いったい誰が救われるでありましょうか。神さまは、罪があっても、その罪をご自身の重荷として負われ、それを恵みによって祝福に変え給うことができるお方なのです。そのことを信じる時、私たちは「すべては神さまの恵みであった」と言えるようになるのです。 |
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さて、ヨセフは、兄弟たちと固く抱き合い、ずっと歪み続けていた兄弟の関係を修復することができました。しかし、それでめでたし、めでたしではないのです。ヨセフは、このように申します。
「この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。」(6節)
苦難はまだ続くと、ヨセフは言います。しかし、今までと、これまでは違います。すべての罪を赦し、祝福に変えてくださる神さまがおられることを知ったのです。
「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」(7節)
ヨセフは、「大いなる救いに至らせるためです」と言います。崩壊した家族の回復は、もちろん神さまの救いです。しかし、もっと大いなる救いがある。それを信じて、これからは家族が心を合わせて、神の祝福を存分に受け取る器となって、エジプトで暮らそうというのであります。
「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』」(9-12節)
私たちに与えられた救いは、さらに大いなる救いに至るためのものである。私たちも、ヨセフのように考えなければなりません。そして、そのためには、今までの生活を捨てて、新しい旅立ちをする必要があるのです。そこには新たなる困難もありましょう。言うまでもありませんが、洗礼を受けてクリスチャンになっても、人生の困難はあるのです。しかし、今まで、苦しみは絶望でしかありませんでした。これからは違う。たとえ苦しみがなお続くとも、大いなる救いを信じて生きることができるのです。絶望ではなく、希望をもって、その困難を生きていくことができる。それが今までとはまったく違うところなのです。
今日は16節からお読みしました。16-21節は、ヨセフと兄弟たちとの再会をファラオが祝福し、ヨセフの家族がエジプトに移住してくることを保証したということが書かれています。21-26節には、これを受けて、ヨセフの兄弟たちは、多くのお土産を手に、一端、故郷に帰ったということが書かれています。そして、父ヤコブに「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」と報告をするのでした。
それは父ヤコブにとって、にわかには信じがたいことでした。
父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。(26節)
信じられないのも仕方がありません。しかし、神さまはこのような信じがたいことを成し遂げられるお方なのです。それを信じなければ、次に進むことはできません。息子たちは、お父さんに信じてもらうために一生懸命に語りました。同じ話を、お父さんが納得してくれるまで、何度も何度も語ったに違いありません。そして、ようやくヤコブもその話を信じられるようになるのです。
父ヤコブは元気を取り戻した。イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」
「父ヤコブは元気を取り戻した」という言葉を、よく味わって欲しいと思うのです。そのために、今日はヨセフ物語の発端である家庭崩壊について、改めて丁寧に語らせていただきました。あの時、ヤコブはヨセフが死んだと信じ込み、「ああ、わたしも死んで、あの子のところに行きたい」と願ったのでした。そして、そのままずっと悲しみの中に閉じこもって生きてきたのでした。そのヤコブが、元気を取り戻します。そして、「よかった」と言います。自分の幸せを感じたのであります。さらに「わたしは行こう」と言います。老いた身体を奮い立たせて、新しい旅立ちをしようと決心するのです。さらに、「死ぬ前に、どうしても会いたい」と申します。何かもあきらめ、絶望していたヤコブの心に、願いと希望がわき上がってきます。ヤコブは、このように急に生き生きとした人間になっていったのです。
私たちは、毎週、礼拝堂に掲げられた「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされた」という御言葉を目にしています。私たちもまた、神さまの大いなる恵みであるイエス様によって、私たちのすべての罪が赦され、大いなる救い、大いなる祝福への招きが与えられているのです。だから、元気を出しなさいと励まされているのです。
元気を出すとは、幸せを感じ、感謝をし、さらに大いなる救い、大いなる祝福への希望をもって新しい旅立ちをすることであります。そのためにこそ、神さまは私たちを救ってくださったのです。
ヨセフ物語は、崩壊した家族が修復されたというだけの話ではないのです。それだけの話であるならば、ここでヨセフ物語の学びを終わっても良いと思います。しかし、ヨセフ物語には、第二部があります。祝福の器となるべき家族が崩壊し、祝福を受けられないものとなっていたヤコブの家族が、神さまの恵みによって再び祝福の器となる家族となった。そこから、祝福を受け継ぐものとして、新しい生活を始める救われた家族の物語がはじまるのです。
私たちの人生も同じです。救われるまでの第一部の人生があり、さらに救われた者としてさらに大いなる救い、祝福に向かって歩み始める第二部の人生があるのです。どうぞ、希望をもって、歩み続けたいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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