ヨセフ物語 16
「張り裂けんばかりの神の思いを知ろう」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 使徒言行録2章32-42節
旧約聖書 創世記45章1-14節
イエス様との出会い
 今日もご一緒にヨセフ物語から神様の御心を学びたいと思います。以前に、私は、「ヨセフとキリスト」というお話をしました。「聖書はすべて私について証しをするものである」とイエス様がおっしゃっておられますけれども、なるほど、ヨセフの生涯とイエス様の生涯を比べてみますと、びっくりする程、色々な点で一致が見られるのです。

 しかし考えてみると、これは不思議でも何でもありません。ヨセフの人生の背後で導いておられた神さまと、イエス様の地上での御生涯の背後で導いておられた神さまは、同じひとりの神さまであるからです。ヨセフの人生の背後に、私たちにイエス様を与えてくださった神さまの姿を見るとしても、それは少しも不思議なことではないのです。そして、きょうも、私たちは、ヨセフの物語を学びつつ、その中に私たちにイエス様を与えてくださった神さまの深い愛を見ることができるでありましょう。

 きょうのお話は、今まで荒々しいエジプトの宰相を演じ、お兄さんたちの罪を責め続けてきたヨセフが、突然、「私はあなたがたの兄弟ヨセフです」と、自分の正体を兄弟たちに打ち明けて、今までのすべての罪を赦してお兄さんたちとしっかりと抱き合うという、ヨセフ物語のクライマックスともいうべき場面です。私はここを読みますとき、かつて自分自身に与えられたイエス様との出会いを思い起こさずにはおられません。

 ヨセフ物語では、お兄さんたちにとって、ヨセフは恐ろしいばかりのエジプトの宰相でありました。もともと彼らは、大飢饉の最中、誰にでも惜しみなく穀物を売ってくれる恵み深い宰相がエジプトはおられると聞いて、エジプトにやって来ました。ところが、そのお方は、どういうわけか自分たちには恵み深いお顔ひとつ見せてくれることなく、お前たちは何者だ、本当に正直者であるか、恵みを受ける資格を持つ者かと、厳しく、荒々しく問い続けるのでありました。

 私にとっても、イエス様はこういうお方でありました。イエス様はすべての罪を赦し、新しい命を与えてくださる救い主だと教えられ、その通りに信じておりました。しかし、イエス様に祈れば祈るほど、「お前は罪人だ。命を受ける資格があるのか」と自分自身を問い質され、罪の意識に苛まされ続けたのであります。

 ヨセフの兄弟たちは、初めのうち、何とか自分たちが罪なき者であることを示そうとして、弁明をしたり、宰相の求めに応じてベニヤミンを連れてきたり、贈り物をしたり、努力をしてきました。しかし、最後には神さまの前にあるすべての罪を認めて、こう言わざるを得ませんでした。

 「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(44:16)

 私もこれと同じでありました。イエス様に愛され、喜ばれる人間になろうとして、罪に破れても破れても、「今度こそは」と罪と戦う思いを新たにしながら努力してきました。礼拝はもちろんのこと、夕礼拝や祈祷会を欠かさずに守り、十分の一献金を捧げ、教会学校、青年会、教会のお掃除など、多くの奉仕をいたしました。しかし、イエス様は決して「それで十分だ」と声をかけてくださることはありませんでした。そして、イエス様に喜ばれる人間になりたいと思えば思うほど、自分は罪人であるという深き意識の中に沈んでいったのであります。

 そして、自分は罪のうちに滅んでいくしかない、もう私にはイエス様の愛も救いも期待できないのだと望みを失ったとき、ヨセフが兄弟たちにそうであったように、イエス様は突然、全き愛なる姿を私に現してくださったのでした。その時の経験はとても一口に言うことはできません。

 私はその時、光に包まれる感覚を経験しました。異言を語りました。そして、よく人が死ぬとき、それまでの来し方が走馬燈のように頭の中にイメージされるといいますが、そういうことが私に起りました。そして、幸せな時の時も、悩んでいる時も、悲しみに暮れている時も、罪の虜になっている時さえも、そのすべての時に神さまがわたしと共にいてくださり、神さまがそのすべての時を与え、導いてくださったことによって、今この瞬間の恵みがあるのだということを知ったのです。さらに、私の頭上で天国の門が開かれているのを見ました。その入り口にはイエス様が立っておられ両手を私に向かって広げておられました。それを見たとき、「私はあなたが来るのを待っているよ。その時、わたしはあなたをこの手で抱きしめて、この門の中に一緒に入るんだよ」という声なき声が、暖かい思いが、私の心にいっぱいに満たしたのでした。そういうことが、ほんの一瞬のうちに、絶望に沈んで祈っている私のうちに起こったのでした。

十字架の愛を知る
 ヨセフは、自分の正体をお兄さんたちに明かした時、このように語りました。

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

 ヨセフは、自分がお兄さんたちによって殺されかけ、多くの苦難に甘んじてきたことを、これは神さまが私になさったことなのです。それはあなたがたの命を救うためだったのです、と言っています。だから、あなたがたはこのことで自分を責めることも、罪に苛まされることも必要ないのだというのです。

 私は、愛なるイエス様の姿を見たとき、それと同じイエス様の心を受け取りました。「わたしはあなたが十字架に欠けて殺したイエスです。しかし、今は、そのことで悔やんだり、自分を責める必要はありません。あなたに命を与えるために、神さまがわたしをあなたにかわって十字架につけたのです」

 実は、後で気がついたのですが、ペンテコステの時、聖霊に満たされたペトロもまったく同じ事を言っています。

 「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(『使徒言行録』2章36節)

 ペトロは、このことはすべての人が必ずはっきりと知らなくてはならないことです、と説教しました。知るべきことは二つです。一つは、あなたがイエス様を十字架につけて殺したということであります。ヨセフのお兄さんたちが、ヨセフを妬み、憎み、邪魔者として、荒れ野の穴に放り投げ、置き去りにしてしまったように、ユダヤ人たちの指導者たちはイエス様を邪魔者として十字架につけて殺しました。そして、それとまったく同じように、私たちも、自分の願い、欲望を満たすために、イエス様を邪魔者にして、その愛を知ろうともせず、その言葉に耳を貸そうともせず、自分勝手な罪深い生活をしてきたのであります。私たちもイエス様を十字架につけて殺した人々と同じなのです。私やみなさんがイエス様を十字架にかけたのです。

 しかし、それにも関わらず、神さまは「わたしが、あなたがたの身代わりとして、愛する独り子を十字架にかけたのだ」と言ってくださっている。それは、イエス様は、罪深き者たちの罪深さに敗れて十字架にかけられたのではなく、罪深い者たちの罪を余すことなく身に受けられることによって、十字架に身を捧げたのだということであります。それゆえ、ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と言うのです。このイエス様の十字架の愛を、そして独り子なるイエス様が十字架にかけられて殺されるのを良しとしたまう神さまの深き御心を、私たちははっきりと知らなければならないのです。
はっきりと知る
 私たちの救いは、このことを「はっきりと知る」ことができるかどうか、ということにかかっています。しかし、「はっきりと知る」ということは、単に知識として知ることではありません。まず知識として知り、頭で理解することが必要かもしれません。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」(『ローマの信徒への手紙』10章14節)とパウロも言っているのです。けれども、知識というのは、必ずしも私たちの心の現実ではありません。頭で分かっていても、心がいうことが聞かないということは、誰にでもよく起こることではないでしょうか。

 たとえばヨセフ物語をもう一度見てみますと、3節にこう書いてありました。

 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。(3節)

 ヨセフは「わたしはヨセフです」と身を明かしたのですうが、兄弟たちはにわかにそれを信じ、受け入れて、喜ぶことができなかったというのです。そこで、ヨセフは重ねて兄弟たちに語りかけます。

 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。(4節)

 それまで、お兄さんたちは、ヨセフを近寄りがたく、恐ろしいエジプトの宰相としてしか見ることができませんでした。ですから、遠くに離れてひれ伏していたのでありましょう。そのお兄さんたちに、ヨセフは、「どうぞ、もっと近寄ってください」と言うのです。

 私たちも、イエス様を遠いお方として見ている限り、イエス様を身をもって知るということはできません。確かに、イエス様は聖なるお方、神の独り子、神にも等しきお方、それに対して私たちは取るに足らぬ無きに等しい者、罪深き者であります。その隔たりが少しも縮まらないのなら、私たちはとてもイエス様を親しく知るということはできないに違いありません。しかし、イエス様は「わたしのもとに来なさい」と、私たちを招いてくださるお方でもあるのです。

 恐れつつも大胆に、その招きに応える者となること、それがイエス様を身をもって知るということの第一歩ではないでしょうか。先ほど、私の体験についてお話ししました。私は自分の罪のゆえに、イエス様を遠い方としてしか見ることができず、自分の罪を裁く恐ろしいお方としか思えませんでした。正直、私は教会を離れ、信仰を捨てることも考えましたが、しかし、それでも、私は、「イエス様、わたしをお救い下さい」という祈りをもって、イエス様に必死になって近づこうとしました。今思えば、それが幸いであったと思うのです。

 14-15節にこう記されています。

 ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。(14-15節)

 ヨセフは自分に歩み寄ってきた兄弟たちに、言葉だけではなく、口づけと抱擁をもって、自分の愛を、そしてもはや恐れることがないことを伝えたのでした。そして、その後、やっと彼らは現実を受け入れ、ヨセフと親しく、兄弟として語り合うことができたと記されているのです。

 このように、私たちもイエス様に大胆に近づき、イエス様の愛なる御心を、身をもって知らなければなりません。そうすることによって、私たちの現実から恐れが消え去り、イエス様の喜びと平和に満ちた人間となることができるのです。
唯一の慰め
 ところで、ヨセフは兄弟たちにこのようにも語りました。

 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。(6-8)

 ヨセフは、「まだこの先、飢饉が続き、耕すことできなければ、収穫もないでしょう」と言っています。そうなのです。イエス様を知り、イエス様と共にある喜びを知ったとしても、私たちの人生から苦しみや悲しみがなくなってしまうのではないのです。

 しかし、ヨセフは、「神さまが私をエジプトの宰相としてくださったのは、そのような苦しみや悲しみの中にあっても、あなたがたが決して滅ぼされることなく、命を確保する者となり、大いなる救いに至らせるためのだ」と言います。確かに、悩みや苦しみはあるけれども、もう大丈夫だ。あなたがの救いは、神さまに約束されているのだというわけです。

 イエス様が、弟子たちに「あなたがは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(『ヨハネによる福音書』16章33節)と言われた言葉を思い起こします。私は、イエス様が天国の門の前にたち両手を広げて待っていてくださる姿を見たとき、これと同じような希望が与えられました。私はイエス様が生きておられることと、そして私のすべての罪を許してくださっていることを、知る者となりました。それは素晴らしい救いでありました。しかし、イエス様は私の過去の問題を解決してくださっただけではありません。これからもまだまだいろいろな苦しみや悩みが、私の人生に襲ってくるでありましょう。それらすべてに勝利する者となって、大いなる救いに至ることを約束してくださるお方なのです。

張り裂けんばかりの神の思い

 私は、今日の聖書を読みまして、どうしてヨセフはこれまで兄弟たちの前で鬼のような宰相であり続けたのだろうか。どうしてはじめからお兄さんたちに、赦しと愛とをもって接しなかったのだろうかということを考えてみたのです。ヨセフは、お兄さんたちに復讐することや、罪の償いを求めていたわけではありませんでした。ヨセフが求めていたのは、お兄さんたちの悔い改めであります。

 なぜなら、悔い改めのない心には、罪の赦しも届かず、何の意味もなさないからです。そのために、ヨセフはお兄さんたちを荒々しく扱い、罪人として厳しく追及したのでした。その結果、これまで見てきましたように、お兄さんたちは、弟ヨセフに対して犯した罪を悔い、そのことで神の裁きを受けるのは当然だと思うまでになったのであります。

 振り返ってみますと、ヨセフは決してお兄さんたちに鬼のようであったのではなく、何度か、お兄さんたちに隠れて、愛の涙を流しているのです。そこに、ヨセフのお兄さんたちに対する本当の心がありました。ヨセフは、お兄さんたちに罪を反省させ、その罰を負わせようとしているのではなく、罪を赦し、愛をもって抱きしめ、大いなる祝福に共に与る者にしようとしていたのであります。ただ、ヨセフはその涙をお兄さんに悟られないようにして流してきたのでした。

 イエス様も同じなのです。イエス様は、聖なるお方であり、罪に厳しいお方です。私もそうでしたが、皆さんも、イエス様を知ることによって、余計に自分の罪に悩み苦しむようになったということがあるのではありませんでしょうか。ヨセフのお兄さんたちが、ヨセフを怖いエジプトの宰相としてか見ることができなかったように、私たちもイエス様を恐ろしく、近寄りがたいお方としか見ることができなくなってしまうこともあると思うのです。しかし、その時、イエス様が求めておられることは、私たちの悔い改めなのです。なぜなら、もう一度申しますが、悔い改めの心がなければ、罪の赦しを与えてもそれは届かず、何の意味もなさないからです。

 ペンテコステの後、ペトロが「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と説教したというお話をしましたが、それを聞いた人々は大いに心を打たれ、「では、私たちはどうしたらいいのでしょうか」と尋ねたと言います。その時、ペトロが人々に答えたことも、「悔い改めなさい、そうすれば罪の赦しを受けることができます。そして賜物として聖霊を受けることができるのです」ということでありました。

 ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 罪の赦しを受けるためには、悔い改めが必要なのです。それゆえ、私たちに罪の赦しとご自身の祝福に与らせたいイエス様は、私たちに罪の自覚を促すための厳しいお顔をなさりながら、他方では、かのヨセフのように、私たちの見えないところで、私たちのために愛の涙を流して祈っていてくださるのではありませんでしょうか。

 そのイエス様のこの涙を知るということが大事だと思うのです。今日は、「張り裂けんばかりの神の思いを知ろう」という説教題をつけさせていただきました。ヨセフはついに平静を装っていることができなくなり、兄弟たちの前で声をあげて泣き、とめどもない涙を流します。

 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。(45:1-2)

 この時、ヨセフの心にあったのは愛がすべてでありました。イエス様も、私たちに対してこのようなお方でいらっしゃいます。私たちが真実に悔い改めるのを見るとき、イエス様もまたヨセフのような激しい愛をもって私たちに望み、私たちの罪を赦し、抱きしめ、ご自身の祝福に与らせようとしてくださっている御心を露わに示してくださるのです。悔い改めをもって、主に近づきましょう。そして、主との素晴らしい、愕くべき出会いを果たす者でありたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp