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私たちの学びも、いよいよ佳境に入ったといってもいいでありましょう。今日お読みしましたのは、先週お話しした銀の杯の事件によって泥棒とされてしまったベニヤミンをどうか助けて欲しいと嘆願するユダの言葉から始まっています。ベニヤミンを失って悲しむお父さんの顔を見ることはできない。どうか私が奴隷になりますから、ベニヤミンを無事に家に帰らせてくださいと、ユダは言うのであります。これを聞いて、ヨセフの心はぐらぐらと揺り動かされ、ついに自分がヨセフであることを兄弟たちに打ち明けるのでした。
ところで、今日はまずヨセフ物語の主題についてご一緒に考えてみたいと思います。ヨセフ物語というのはどういう物語なのでしょうか。私は子どもの頃からこのヨセフ物語に親しんで参りました。お兄さんたちにいじめられ、野原に捨てられてしまったヨセフが、見知らぬ外国人に拾われ、エジプトで奴隷になり、また囚人にまでなってしまった。しかし、この可愛そうなヨセフは自分の運命に失望することなく、いじけることなく、どんな辛い境遇の中でも神さまが一緒におられることを信じ続けた。そして、奴隷の時には良い奴隷となり、囚人の時には模範の囚人となり、その時その時を一生懸命に生きてきた。だからこそ、神さまに嘉せられてエジプトの宰相にまで出世することができた。これが、子どもの頃に印象づけられたヨセフ物語でありました。つまり、ヨセフ物語というのはヨセフの出世物語だと思ってきたのであります。
しかし、敢えてこういう言い方をさせていただきますと、ヨセフ物語を出世物語として読むのは、聖書のメッセージを大きく取り違え、歪めてしまう間違った読み方であります。このような読み方をしていますと、神さまを信じていれば、きっと戦争に勝つ、仕事に成功する、金持ちになる、病気もいやさる、といったように、自己実現こそ神様の祝福であり、救いであるという間違った信仰になってしまうと思うのです。
神さまの救いと祝福は、私たちの人生がこの世的な勝利や成功を収めることにあるのではありません。パウロは、『ローマの信徒への手紙』の中でこう言っています。
神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(6章23節)
まったく同じ事を、『ヨハネによる福音書』もこのように告げております。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3章16節)
神様が私たちに与えてくださるのは、この世的な勝利や成功ではなく、永遠のいのちだというのです。私は、永遠のいのちとは、人生に意味が与えられることだと思います。過ぎゆくものの中に生きている私たちの人生が、決して過ぎゆくものとして終わらずに、永遠の意味と価値を持つことができる、それが永遠の命ということではないでしょうか。
実は、ヨセフがエジプトで得た栄光も例外ではなく、やがては忘れられてしまいます。
ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。(『出エジプト記』1章6-11節)
ヨセフは飢饉からエジプトを救い、いわば救世主としての働きをしたのに、世代が変わるとみんなその恩を忘れ、エジプトに住むヤコブの子孫たち、つまりイスラエルの民を邪魔者扱いしたということが書かれているのであります。過ぎゆくものの中に生きている私たちの人生は、過ぎゆくものとして終わっていく、そういう運命を持っていると言ってもよいでありましょう。ヨセフもまた過ぎゆくものの中に生き、過ぎゆくものとして忘れられていったのでありました。
しかし、それにも関わらず、ヨセフの人生には永遠の意味と価値が与えられております。それは、ヨセフが、神さまの永遠なる目的の中に生き、また死んだということによって与えられるのであります。
今お読みしました『出エジプト記』には、「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」と言われていました。これは、振り返ってみれば、かつてアブラハムに「あなたの子孫を星の数のようになるであろう」と言われた神の約束が、こうして成就したということなのであります。
ヨセフも、兄弟たちも、その世代の人々もみんな死んで、世の人々は誰も彼もヨセフのことなど忘れてしまったけれども、ましてアブラハムのことなど誰も覚えていないかもしれないけれども、神さまのご計画と御業は不変のものとして過ぎゆくものの歴史の中に貫かれているということなのです。そして、ヨセフの人生は、そのような永遠なる神さまの目的の中で織りなされることによって、永遠の意味と価値が与えられるのであります。
ちょっと難しい話かも知れません。たとえば、私たちの人生にもうまくいかない時がたくさんあります。大切なものを失うとき、夢に破れるとき・・・もし私たちが自己実現とか、自己保身ということを人生の最大の願いとしているならば、人生というのは本当にうまくいかず、辛く、悲しいことばかりだと思えてくるのです。「生きていても面白いことなんかないや」なんていうつぶやきも当然出てくるのです。しかし、私たちの人生の目的が、神さまの永遠のご計画のなかにあるとしたらどうでしょうか。苦しいことばかりの人生であっても、悲しいことばかりの人生であっても、そういう私たちの人生を神さまがご自身の尊い目的のためにお用い下さっているとしたら、たとえ死んだとしても、そして人々に忘れ去られるとしても、神さまの永遠のご計画の中で、私たちの人生もまた永遠の意味と価値を持つのであります。
イエス様はこう言われました。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(『ヨハネによる福音書』12章23-25節)
「この世で自分の命を憎む」とは、どういうことでしょうか。「自分が」、「自分が」と、自分を主張したり、自分を認めさせようとしたり、自分の満足を求めたりすることを止め、自分に固執しなくなるということです。簡単なことではありません。パウロは「わたしは日々死んでいます」(1コリ15:31)という言い方をしていますが、パウロのような人でも毎日毎日、「自分」というものが頭をもたげてくる。それを殺し、自分を鞭叩いて神さまに従わせるということなのです。そうして、「自分が、自分が」という人間が、「神さまが、神さまが」という人間に変わっていくのです。
そうすると、神さまが自分を生かしてくださるようになる。神さまの永遠のご計画のなかで、尊い意味と価値をもった人生の中に私を生かしてくださるのです。もちろん、それはこの世の人生だけの話ではありません。死ですらも意味のある、価値のあるものになり、死んでもなお、神さまの中に生かされ続けるようになるのです。
さて、ヨセフの人生が、そのように神さまのご計画と目的の中にあったとするならば、私はヨセフがエジプトで成功し、偉い人になったということよりも、崩壊寸前だったヤコブの家を、罪の赦しと愛の招きをもってもう一度固い絆で結び合わせたということが、大事な意味をもっているのではないかと思うのです。
思い出してみますと、ヨセフ物語というのは、ヤコブの家の崩壊から始まったのです。ヤコブがヨセフを溺愛する。ヤコブには四人の妻がいましたが、ヨセフはヤコブが最も愛したラケルの子であったために、ヨセフを格別にかわいがったのであります。当然、ヨセフのお兄さんたちは寂しい思いをします。それがヨセフへの嫉妬となり、憎しみにまでなって、ついにヨセフさえいなければ、お父さんは僕たちをもっと愛してくれるだろうという風に考え、それを実行してしまうのです。
お兄さんたちは、ヨセフを荒れ野の落とし穴に落とし、置き去りにして、お父さんに「ヨセフは死にました」と報告しました。ところが、お父さんはヨセフにこだわり続け、他に子どもたちがいるということを忘れるぐらいにその死を悲しみ続け、同じラケルの子であったベニヤミンを、ヨセフの変わりに溺愛するようになります。
ヤコブはヨセフを得ようとしてそれを失い、お兄さんたちはお父さんの愛を得ようとしてそれを失い、ヨセフはヤコブやお兄さんたちの罪によって、家族そのものを失ったのでありました。さらに、ヤコブはヨセフを失った悲しみを悲しみ続け、お兄さんたちはヨセフに対する罪に苦しみ続けます。本当にこの家族はガタガタになってしまっていたのでした。その上、飢饉がこの家族を襲います。そういう家族を、ヨセフは飢饉から救うだけではなく、罪の赦しと恵みをもって、もう一度、愛の絆によって堅く結び合わせ、祝福の器なる神の家族として再建したのでありました。
自分に正体を兄弟たちに打ち明けたとき、ヨセフはこのように言います。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」
ヨセフ物語の主題は、そしてクライマックスは、この節にあると言ってもよいと思います。ヨセフは、お兄さんたちの罪の完全に赦し、すべては私たちを救おうとされる神さまの御手の中にあったことなのですと言うのです。
ヨセフはお兄さんたちのせいで、散々ひどい目に遭ってきたというのに、どうしてこんなに心の広いことを言えるのでしょうか。それはヨセフが「自分が」という思いを捨てて、「神さまが」という思いに完全に立つことが出来たからだと思います。「自分が」という思いが先に立つ限り、「どうして自分がこんな目にあわなくてはいけないのだ」「自分がこんな目にあったのに、お兄さんたちだけ良い思いをするなんてゆるせない」というような気持ちが必ず起こってくることでありましょう。
しかし、お兄さんたちの罪も、自分の苦しみも、今はすべてが神さまの御手に置かれているのだということを認めたとき、「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」という言葉が出てきたのです。
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ところで、私は、ヨセフとて、はじめからこのような思いを持ち続けて生きてきたのではなかったのではないかと思います。お兄さんたちを恨んだ時もありましょう。自分の人生を呪った時もありましょう。ヨセフが、エジプトでお兄さんたちと再会した時、すぐに自分の正体を明かすことができなかったのも、ヨセフの中にまだお兄さんたちに対する赦せない気持ちが残っていたからだと思うのです。
しかし、そういうヨセフの気持ちが、すべては神さまの御手の中にあるのだという風に変わっていたには、二つの主の御業があったように思います。
一つは、ヨセフの落ちるばかりであった運命が、突然高く引き上げられ、エジプトの宰相になったということです。この普通では考えられないような特例の出世は、自分の人生が何か神さまの目的あっての人生であったということを、ヨセフの心に強く印象づけたであろうと思うのです。ですから、ヨセフは生まれてきた長男に「忘れる」という意味のマナセという名前をつけ、「神が、わたしの労苦と父の家のおことをすべて忘れさせてくださった」と言っています。もう過去のことは忘れよう。そして、神さまが私にあたえようとしておられる人生を受け入れて生きようという気持ちが定まったということだと思います。
ところが、こうしてヨセフが過去のことを忘れ、新しい人生に目を向けて生きていますと、そこに二十数年前に生き別れになったお兄さんたちが現れるのです。それはまったくの偶然でありました。しかし、聖書には本当の偶然ということはないのでありまして、すべてが神さまのご計画なのです。ヨセフも、お兄さんたちとの再会をそのように感じたでありましょう。せっかく辛いことを忘れて生きていたのに、神さまはどうして今そのことを思い出させるのか。きっと、そのことの中に、神さまの目的があるに違いないと思っただろうと思うのです。
ヨセフはすぐには自分の正体を明かしませんでした。自分の正体を隠して、お兄さんたちの心を探ろうとしたのであります。この気持ちは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。そうして、ヨセフは怖くて荒々しいエジプトの宰相を演じながら、お兄さんたちをスパイ扱いしたり、ベニヤミンを連れてこいと言ったり、シメオンを人質にとったり、ベニヤミンを泥棒にしたてたりして、お兄さんたちの本音を探るのです。
そうすると、お兄さんたちもお兄さんたちなり、自分の犯した罪に苦しみ、悩み、自分を責め続けているということが分かります。罪を犯した者が、自分の罪意識と裁きに苦しむのは当然と言えば当然でありますが、ヨセフはそのことを見て、やはり神さまの御業というものを感じたのだろうと思います。そして、お兄さんたちが自分に対して犯した罪も含めて、今は一切合切が神さまの御手の中にあるのだということを受け入れただと思います。
人が犯す罪まで、神さまの御手の中にあるというのは変な話に聞こえるかもしれませんが、パウロは「罪のまし加わるところに恵みもいや増せり」と言っています。人が罪を犯すことも神さまのご計画にあるというわけでは言えませんが、人が犯してしまった罪さえも、神さまは御手の中に置いて、それを恵みの材料にすることがおできになるということなのです。
ヨセフはユダの嘆願の言葉を聞いて、そのことを強く感じたのでありました。ユダの嘆願の内容は、最初にも申しましたように、ベニヤミンの身代わりとして自分が奴隷になるから、どうかベニヤミンを無事に父へのもとに返し欲しい。そうでないと父親はどれほど悲しみことになるか。自分にはその悲しむ顔を見たくないのだということであります。30-31節をもう一度読んでみましょう。
今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
それから33-34節を読んでみます。
何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。
これらの言葉のなかに、ユダの思いが込められていると思います。私がここで一番感じるのは、父に対する赦しということです。ユダをはじめ兄弟たちがヨセフに罪を犯したのは、父ヤコブがヨセフだけを愛して、彼らを悩ませたからであります。そのヤコブの性分は少しも変わっておらず、今度もベニヤミンだけを異常にかわいがっている。そういうヤコブの罪が、彼らにヨセフに対する罪を犯させたと言えるのです。ユダをはじめ兄弟たちは、そういう意味で父ヤコブに対するわだかまりというものがあったに違いありません。しかし、ユダの言葉には、その父親をゆるし、その父親を愛し、受け入れ、心から父親の悲しむ顔をみたくないのだという心情がにじみ出ています。ユダをはじめとするヨセフの兄弟たちは、自分たちの罪の苦しみを味わうことによって、人格的に成長し、父の欠点、罪というものを愛をもって包みこむことができるようにまでなっていたのです。
罪を犯すことは悪いことです。しかし、その罪の経験を通してさえも、人間が成長することができる。それは、そこに罪を恵みで覆うような神さまの愛があるからでありましょう。ヨセフは、ユダの言葉の中にそのような神さまの働きを認め、お兄さんたちもまた神さまの赦しと愛を受けているのだということを受け入れることができたのではないでしょうか。
今日は、「人の罪を負うことができるのは神さまの恵みです」というわかりにくい説教題をつけてしまいました。実はちょっと失敗したなと思っています。私が申し上げたかったのは、人間と人間の間にある罪、それは自分の罪もありましょうし、他人が自分に対して犯した罪もあるでしょうが、そういう罪の現実を乗り越えて愛に生きることができるようなるのは、神さまの恵みであるということなのです。
ヨセフの兄弟たちは、ユダの言葉に見られるように、父親の罪を乗り越えて、父親を赦し、受け入れることができるようになりました。ヨセフは、お兄さんたちの罪を乗り越えて、お兄さんたちを赦し、受け入れることができるようになりました。そこには、人間の罪の経験すらも、恵みの経験に転化することができる神さまの大きな愛があるのです。私たちもまたこの神さまの愛によって生かされ、罪ある人々を愛をもって覆い、心から受け入れることができる人間になりたいと願うのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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