ヨセフ物語 14
「神のみ光の前に義人はひとりもいない」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書8章1-10節
旧約聖書 創世記44章1-17節
銀の杯
 若い頃、お兄さんたちの乱暴によって殺されたかけたヨセフは、数奇な運命をたどり、エジプトの宰相にまで出世をいたしました。そして、飢饉のためにエジプトに穀物を買いに来た兄さんたちと、市場でばったりと再会をすることになったのです。ヨセフは自分の正体を隠してお兄さんに近づき、彼らをエジプトの様子をさぐりにきたスパイとして厳しく取り調べます。お兄さんたちは、まさかそれがヨセフだとは知らずに、必死に自分たちが怪しいものではないことを訴えると、ヨセフは「おまえ達の話が本当だというならば、弟のベニヤミンをエジプトに連れてきなさい」と命じました。そして、シメオンを人質にとる一方で、他のお兄さんたちには穀物を与えて家に帰したのでした。

 家に帰ったお兄さんたちは、エジプトで経験したことをすべてお父さんのヤコブに報告しました。報告を聞いたヤコブは、かつてヨセフを失い、今シメオンを失い、今度はベニヤミンも失わなければならないのかと深い悲嘆に暮れます。そして、お兄さんたちがベニヤミンをエジプトに連れて行かせてくださいと言っても、頑として首を縦に振ってくれないのでした。ところが、エジプトから持ち帰った穀物が底をついてきます。お兄さんたちは「必ずベニヤミンを守り、無事に連れて帰りますから」と、必死にお父さんを説得し、とうとうヤコブも仕方がないと悟り、ベニヤミンをエジプトに連れて行くことに同意をしたのでした。

 こうしてヤコブの息子たち、つまりヨセフのお兄さんたちはシメオンの無事を祈り、またベニヤミンに対する重い責任をひしひしと感じながら、たいへんな緊張をもって、再びエジプトに旅立ったのでした。ところが、あに図らんやエジプトに着いてみると、彼らは思わぬ歓待を受けることになり、シメオンは無事に釈放され、それどころかヨセフの昼食会にまで招待され、大いに酒宴を楽しむこととなりました。

 今日のお話は、この酒宴が終わったところから始まります。酒宴がおわると、ヨセフは執事に命じて、兄弟たちの袋にそれぞれ穀物をいっぱい詰めてやるように命じます。さらに、前回同様に、穀物代金として持ってきた銀をそっと袋のなかに返しておくようにとも命じました。そこまでは特に問題はないのですが、その後、ヨセフは、自分が大事にしている銀の杯を、ベニヤミンの穀物の袋に紛れ込ませておくようにということを命じたのであります。

「それから、わたしの杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れておきなさい。」執事はヨセフが命じたとおりにした。(44:2)

 そんな細工がされたとは露だに気がつかない兄弟たちは、心配事すべてが杞憂に終わったことにほっとして、エジプトでくつろいだ一夜をすごしたことでありましょう。そして、翌朝早く、ヨセフが用意してくれた穀物の袋を受け取り、それをロバに乗せて、エジプトを出立したのでした。

 ところが町を出てまもなくすると、ヨセフの執事が馬に乗ってか、馬車に乗ってかは分かりませんが、追いかけてきます。そして、追いつくや険しい顔をして、「どうして、おまえ達は私達の善意に悪を持って報いるのか。おまえ達はヨセフ様の大切な銀の杯を盗んだであろう」と問いつめるのです。この執事は、ヨセフに命じられて自分でベニヤミンの袋のなかに銀の杯を入れたのですから、彼らが盗んだのではないことは重々に承知しているはずです。しかし、ヨセフがこの執事にそのように言って、兄弟たちを連れ返してくるようにと命じたのでありました。いったいヨセフは、どうしてこのようなことをしたのでしょうか。このことは、後で申し上げたいと思います。

 疑いをかけられた兄弟たちは、まったく身に覚えがないことですから、自信をもって、こう答えます。

 「御主人様、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか。僕どもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。袋の口で見つけた銀でさえ、わたしどもはカナンの地から持ち帰って、御主人様にお返ししたではありませんか。そのわたしどもがどうして、あなたの御主君のお屋敷から銀や金を盗んだりするでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります。」(44:7-9)

執事は、こう答えます。

 「今度もお前たちが言うとおりならよいが。だれであっても、杯が見つかれば、その者はわたしの奴隷にならねばならない。ほかの者には罪は無い。」(44:10)

 兄弟たちは、自ら袋をロバからおろし、袋を開き、執事の前で広げてみせました。執事は怖い顔をして、年上の者の袋から念入りに調べ始めます。そして、一番年下のベニヤミンの袋から銀の杯を取り上げたのでありました。その時の青ざめる兄弟たちの顔が目に浮かびます。彼らは、執事に連行されて、再びヨセフのもとに帰って行きました。

 ユダと兄弟たちがヨセフの屋敷に入って行くと、ヨセフはまだそこにいた。一同は彼の前で地にひれ伏した。(14)

 「地にひれ伏した」という言葉は、43章26節でも出てきます。昼食会に招かれた兄弟たちが、ヨセフに敬意を払って地にひれ伏したということが書かれていたのです。しかし、ここで「地にひれ伏した」と書いてある言葉はそれとは違う言葉です。身を投げ出して倒れるという非常に強い意味をもった表現なのです(左近淑)。兄弟たちの絶望を意味する言葉だと言っても良いでありましょう。

 その兄弟たちに、ヨセフは「おまえ達がしたこの仕業は何事か。隠し通せるとでも思ったのか」と、その罪を責め立てます。するとユダが代表して、ヨセフにこのように答えました。

 「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(16)

 先ほど、なぜヨセフはこのような芝居を打ったのであろうかという疑問を投げかけましたが、ここでも新たな疑問が浮かびあがってきます。ユダは、ここで少しも弁解せず、「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と言い、その罪を認めてしまっているのです。そして、「この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」とまで言っています。これはいったいどういうことなのでしょうか。これもまた後で申し上げたいと思います。

 ヨセフは、ユダが「兄弟皆で罪の責任を負い、御主君の奴隷になります」と答えると、「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」と答えます。

 ここで、ヨセフが銀の杯をベニヤミンの袋に入れさせた理由が、ある程度分かって参ります。ヨセフは、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンを非常に愛していました。最初に兄弟たちに会った時に、「ベニヤミンを連れてこい」と言ったのも、彼らがベニヤミンを連れてきたのを見て涙を抑えきれなくなったのも、そのようなベニヤミンに対するヨセフの特別な思いの現れでありました。そして、ヨセフは何とかベニヤミンを自分のもとに残しておく方法はないかと考え、銀の杯の芝居を考えついたのではないでしょうか。そして、他の兄たちが帰った後で、ベニヤミンだけには自分がヨセフであることを告げて、兄弟二人水入らずの時間を過ごしたいと思ったのではないかと思うのです。

 ところが、18節以下に記されているユダの嘆願によって、事態はヨセフの思いを越えた方向に展開していきます。それは45章の話でありますが、ユダの言葉に深く心を揺り動かされたヨセフは、ついにこらえることができなくなり、自分がヨセフであることを兄弟全員に告げることになるのです。 
神が罪を暴かれた
 ユダがどのような言葉でヨセフの心を動かしたか。そのことをお話する前に、ユダが「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と言った意味について考えてみたいと思います。

 銀の杯の事件は、ヨセフが仕組んだことでありますから、ユダはもちろんのこと、ベニヤミンにも他の兄弟たちにもまったく罪がないことでありました。ですから、どんなに調べたって、盗んだ銀の杯など自分たちのうちにありはしないと、兄弟たちも潔白に確信を持っていたのです。ところが、執事が調べると、自分たちのうちには絶対にないと思っていた罪の証拠が見つかってしまったのです。

 実は、私にはこれとよく似た体験があります。私が荒川教会に来て四年目のことでした。それまで三年間、私はなんとか荒川教会を盛り上げようと一生懸命に働きました。受洗者、転入者も10人ぐらい与えられ、私も自分の働きに満足し、これからもっとがんばろうという気持ちでいました。ところが、四年目ぐらいから、役員をしておられた方が続けて他教会に転出をされたり、洗礼を受けた方が教会に来なくなったり、長期欠席の方が出たりと、教勢が急に落ち込んだのです。もちろん、転出を思いとどまってくれるように頼んだり、来なくなった信徒が戻ってくるように努力し、一生懸命に神様にお祈りをしましたが、どれも徒労に終わりました。

 私はがっかりしました。自分はこんなに荒川教会を盛り上げようと神様のためにがんばっているのに、誰も分かってくれないのだろう、信仰をもってついてきてくれないという被害意識さえ持ち始めました。自分は悪くない、一生懸命にやっている。しかし、他の人々が悪いのだという気持ちが強くなって、教会を責める気持ちや、人の不信仰に苛立ちや腹立ちさえ覚えるようになっていたのです。

 私は暗い気持ちで、毎日、鬱々と祈っていました。しかし、神様が思いがけないことをわたしにお示しになったのです。それは、教会がうまくいかないのは、他のだれのせいでもなく、自分の罪のせいだということであります。神様がお示しになった私の罪というのは、私が何をして人を躓かせたというようなことではありませんでした。もちろん、私には反省すべきこともありましたが、それは許されてもいい範囲の失敗や過ちであったと思っていました。つまり、自分よりも人の方が悪いと思っていたのです。

 しかし、神様は、もっと根本的な問題として、あなたに罪があるということを、私に示されました。「あなたは教会を盛り上げようとして熱心に努力し、がんばってきたというが、それは自分のためではなかったか。自分が牧師として認められるため、成功するためでないのか。信徒が離れ、教勢が減って悲しんでいるのは、その人たちの魂のことを悲しんでいるのではなく、また神様のことを思って悲しんでいるのでもなく、自分実現が果たされないことを悲しんでいるだけではないか」と、そのようなことを私は神様に問い掛けられたのです。その時、私は銀の杯の体験をしたのです。つまり、自分は潔白だと信じ切っていたにもかかわらず、自分でもまったく知らない罪が、自分のなかにあることに気づかされたのであります。

 ヨセフの兄弟たちが経験したのも、そのことではなかったかと思います。たしかに銀の杯を盗んだ覚えはない。しかし、このような災いが立て続けに自分たちに起こるのはいったいなぜだろうか。何か、神様を悲しませ、怒らせている罪が自分たちにあるに違いない。そうだ、あのことだ。ずっと心にかかってきたヨセフに対する罪・・・。

 罪には時効はありません。日本の法律では殺人事件の時効は15年だそうです。しかし、法律的に罪を問うことができなくなったとしても、罪を犯した人間の中にある罪は決して消えないのです。ヨセフは17歳の時、兄弟たちにいい荒れ野の穴に落とされ、30歳でエジプトの宰相となりました。この間は13年です。ヨセフがエジプトの宰相になるとすぐに7年の豊作が続き、それから飢饉が起こります。ヨセフの兄弟たちが食糧難に陥ってエジプトに穀物を買いに来たのは、おそらく飢饉の2年目ぐらいではないでしょうか。これらの年月を加えると、ヨセフと兄弟たちの再会は、かの事件から22年後ということになります。

 この22年間、彼らはヨセフを殺した者として、その罪に苦しんだり、あるいはその罪を隠そうとしたり、その罪に言い訳しようとしたり、その罪を忘れようとしたり、すべてが罪によって支配されて生きてきたのでした。しかし、今、ユダは自分たちの生き方の根源にあるその罪を直視し、認め、受容しているのです。「神が僕たちの罪を暴かれたのです」と。

義人はいない
 罪について三つのお話をしたいと思います。一つは、今日の説教題にも表しておりますように「義人はひとりもいない」ということであります。聖書はすべての人は罪人であると語っています。「義人はいない。一人もいない。」(『ローマの信徒への手紙』3章10節)と、はっきりというのです。

「ベニヤミンの袋の中から杯がみつかった」

 これは何と象徴的な出来事でありましょうか。ベニヤミンは、もちろん杯を盗んでいませんし、22年前のヨセフに対する罪とすら無関係でありました。ベニヤミンは、父ヤコブから愛され、ヨセフからも格別に愛された人物でもありました。そのベニヤミンの袋の中からあろうはずのない杯が見つかったのです。これは、信仰深く、罪とは無関係に生き、神に格別に愛されている聖人のようなクリスチャンから、罪が見つかったというのと同じぐらいの驚きなのです。

 新約聖書には、こういうお話が書かれています。姦淫の女を捕まえて、石で撃ち殺そうとしていた人々に、イエス様が「あなたがたの中で罪のない者がまずこの女に石を投げなさい」と言うのです。すると、聖書にはこう書いてあります。

 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

 「年長者から始まって」というところが興味深いと思います。若い人たちというのは、意気盛んで、自分の正義を信じて疑わないところがあります。それが若者らしさでありますけれども、年を重ねていくうちにだんだんと自分の弱さ、罪というものが分かるようになってくるのです。また、そうでなければ人格的に成長したとはいえないのではないでしょうか。

 二つ目のことは、「罪の支払う報酬は死である」(ロマ書6章23節)ということです。ここで「死」というのは肉体の死のことではありません。肉体の死は誰でも経験するものです。しかし、魂の死というものがあります。罪は、人間の魂に死をもたらすのです。

 健康であっても、喜びに溢れていない人がいます。多くのものを持っていながら、感謝に溢れていない人がいます。知恵も力もあるのに、生きる目的を見いだせない人がいます。不平不満や怒りや憎しみに囚われている人がいます。このように神様が与えてくださった命を生き生きと喜びをもって生きることができないということは、生の根源が罪によって死の病におかされてからなのです。ヨセフ物語では、銀の杯を盗んだものは奴隷になると言われています。罪は、本来自由で生き生きとしたものである私達の魂を縛り、悪い感情や絶望感から逃れられない惨めな奴隷にしてしまうのです。

 そして、このことと、「すべての人は罪人である」ということを重ねて考えてみますと、すべての人が罪を持ち、そのために魂の自由さを失い、惨めな奴隷となり、本来神様の私たちに与えてくださっている明るい神の子として生きられなくなっているということがいえるのです。パウロは、自分自身の体験として、次のように語っています。

 わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマの信徒への手紙7章14-24節)


 ここで言われていますように、問題は、罪の法則のとりことなっているこの惨めな人間は、いったいどうしたら救われるのか、ということだと思います。

 この点について、これが三つ目のことになりますが、聖書は人間は罪の償いができない。罪が取り除かれるためには、ただその赦しが与えられるという方法しかないのだということを教えているのであります。

 今日のお話をみてみますと、ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかった時、ユダが兄弟たちを代表して、「この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷となります」と言っています。つまり、ベニヤミンの罪を、兄弟がみんなで分かち合い、一緒に負うということであります。これは本当に愛に満ちた素晴らしい申し出でありましょう。私たちの教会も、「あなたがこんなことをしたからいけないのだ」と、罪を責め合う教会ではなく、一人の人が罪を犯したら、みんなでその悲しみと悔い改めと償いを、みんなで負い合う教会でありたいと願います。

 しかし、それだけも罪の問題が完全に解決するわけではないのです。罪の問題は、罪を犯した人間の努力によっては解決しません。罪を犯された方の人が、その罪を悲しみや苦しみを引き受けて、もうあなたはこのことで苦しまなくてもいいよ、と言ってくれることによってのみ、解決するのです。

 そして、そのような罪からの救いを、私たちに与えてくださるお方、それがイエス様なのです。イエス様は「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と言われました。イイエス様による罪の赦し、十字架の救いを経験しなくては本当の救いは分からない。十字架の救いを経験するときに、私たちは、本当に救われたという経験をすることができるのだというのであります。

 私は、自分自身の銀の杯体験についてお話ししました。自分は潔白だと思っていたにもかかわらず、神様によって自分のなかにある罪が示されたという体験であります。私は、その罪によって本当に生けていけないほどの恐れと苦しみを味わいました。しかし、私は今、その時、自分が罪人であるということを示されて本当に良かったなあと思っているのです。そのことによって、私は人の罪を責める者ではなく、自分の罪の赦しを願う者にされました。そして、イエス様の十字架の愛というものを知ることができたのです。クリスチャンというのは、罪を犯さない立派な人間ではなく、自分の罪が赦された喜びを知る人間なのであります。ご一緒に、十字架の主を褒め讃えたいと思います。
 
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