ヨセフ物語 13
「神は罪人を食卓に招きたまう」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネの黙示録3章20節
旧約聖書 創世記43章26-34節
旧約聖書とキリスト
 今日は、ヨセフ物語から二つのことを皆さんにお話ししたいと思います。一つは、ヨセフとキリストというお話しであります。ヨセフ物語を学んでおりますと、驚くほどその生涯がイエス様のご生涯に重なって見えてきます。今日は、そのことを一つお話ししたいと思います。

 もう一つは、それと無関係ではありませんけれども、ヨセフが自分に罪を犯した兄弟たちを昼食会に招いたというお話から、神は罪人を食卓に招き給うお方であるということをお話ししたいと思うのです。

 まずヨセフとキリストというお話でありますが、もう少し根源的なお話として旧約聖書とイエス様という事からお話をはじめたいと思います。

 ある日、イエス様はご自分に反対するユダヤ人らに「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(『ヨハネによる福音書』5章39節)と仰いました。イエス様がおっしゃっているのは、聖書を研究しても永遠の命を得ることはできないということではありません。しかし、一生懸命に勉強すれば必ず永遠の命を得ることができるということでもない、ということなのです。

 聖書というのは、「イエス様があなたがたのメシアである」、「イエス様があなたがたの永遠の命である」ということを、神様自らが私達に証しをしてくださっている書物なのです。ですから、イエス様を抜きにした知恵や生き方をそこに求めても、結局は何も得ることができません。聖書を読む、聖書を学ぶということは、その中に「イエス様があなたがたのメシアである」、「イエス様があなたがたの永遠の命である」という神様の証しを見いだし、それを受け入れるということでなければならないのです。

 ところで、実は、ここでイエス様が「聖書」と呼んでおられるのは、まだ「新約聖書」が存在していない時の「聖書」つまり、「旧約聖書」のことなのであります。旧約聖書には、イスラエルの歴史、律法、預言、知恵、詩編などが記されております。それはすべてイエス様がお生まれになる前の話であり、一部の預言を除いては、直接的にイエス様を証ししているようには見えません。それにも関わらず、イエス様は、これらは私についてなされた神の証しであると言われました。それが、とても大切なことなのです。逆に言えば、旧約聖書を読むならば、イエス様こそが私達の救い主であるということが分かってくるということなのであります。

 こういう話もあります。とある二人の弟子が、イエス様が十字架にかかって死んでしまわれたことに絶望して、エルサレムを離れていこうとするのです。すると、復活のイエス様が彼らに近づき、彼らに聖書を解き明かして、救い主の苦難と復活について教えられたというのです。

 イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(『ルカによる福音書』24章25-27節)

 二人の弟子たちは、イエス様自らが聖書をひもといて証しなさるのを聞いて、信仰を取り戻していったと、書かれています。この時、イエス様がお用いになった聖書も、やはり旧約聖書でありました。

 また、パウロは『コリントの信徒への手紙1』の中で、このように言っています。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(15章3-5節)

「聖書に書いてあるとおり」、「聖書に書いてあるとおり」と、パウロが繰り返し語っています。ここでパウロが「聖書に書いてあるとおり」と言っているのも、「旧約聖書」のことです。新約聖書がイエス様を証しする書物であることは言うまでもありませんが、旧約聖書もまたイエス様が私達の救い主であるということを力強く証しする書物であったのです。イスラエルの歴史、律法、預言、知恵、詩編などすべてを通して、神様が「イエス様こそあなたがたの救い主である。これを信じ、受け入れなさい」と語っておられるのが、旧約聖書なのです。
ヨセフとキリスト
 そういう観点からヨセフ物語というものを読んでみますと、初めに申しましたように、それはもう本当に不思議なほどに、ヨセフの姿がイエス様の姿にぴったりと重なって見えてくるのであります。そのことを、もう一度ヨセフの物語を振り返りつつ見てみたいと思います。

 ヨセフは、父ヤコブの寵愛を一身に受け、父のそばで大切に保護されて暮らしていましたが、ある日、シケムで羊飼いをしている息子らの様子を心配するお父さんの頼みによって、お父さんの家を離れ、お兄さんたちのもとに遣わされました。

 イエス様も、父なる神様の寵愛を一身にお受けになり、父のそばで大切に保護されている神の独り子であられましたが、地上の子らを、つまり私たち人間のことを心配するお父さんの深い御心によって、この地に遣わされていらっしゃいました。

 お兄さんたちを訪ねていくヨセフには、何一つお兄さんたちに対する敵意も、悪意もありませんでした。むしろ子どもたちを心配する父ヤコブの愛を自分の心として、愛に溢れる者としてやってきたのです。ところが、お兄さんたちは、ヨセフがやってくるのを見つけると、「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう」と、ヨセフを殺す相談をはじめたのでありました。そして、ヨセフは、お兄さんたちによって深い穴の中に放り込まれてしまうのです。

 イエス様もまた、地上の子らに対する天の父なる神様の愛に溢れて、世にいらしてくださいました。しかし、地上の子らはイエス様を拒絶し、こぞって殺す相談をし、ついには十字架にかけて殺してしまったのであります。

 お兄さんたちがヨセフを殺そうとした理由は、ヨセフが見た夢が原因でした。その夢は、お兄さんたちが自分を拝んでいる夢でした。この夢の話を聞くと、お兄さんたちは、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」と言って、ヨセフをますます憎むようになったと、聖書に記されています。

 イエス様が十字架にかけられた理由も、これとまったく同じパターンでありました。イエス様の教えを聞いた律法学者や祭司長達が、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」と怒り、ローマの総督ポティオ・ピラトに「ユダヤ人の王と自称している」という廉でイエス様を訴えたのでした。ヨセフが衣を引きはがれて深い穴に落とされたように、イエス様は衣をはがれて十字架にかかりました。そして、イエス様が磔にされた十字架の上には「ユダヤ人の王」という罪状書が掲げられました。

 ところで、ヨセフは実際には死にませんでした。ミディアン人の商人たちによって穴から引き上げられたのです。しかし、お兄さんたちは、父ヤコブにヨセフは死んだと報告し、そのように信じ込ませる細工までしました。

 イエス様も十字架にかかり、墓穴に葬られましたが、三日目に神様によって引き上げられ、復活なさいました。しかし、ユダヤ人たちは、イエス様が復活したということが流布することを恐れ、それを一生懸命になって否定しようとしたとが聖書に書かれています。

 次に、ヨセフ物語では、ヨセフがポティファルの家で奴隷となったこと、しかしヨセフはその不遇な身を一切嘆かず、むしろ忠実なる奴隷になるように働いたこと、そのためにポティファルの信頼を受け、また神様に祝福されたことが聖書に記されています。

 この点についても、ヨセフの姿はイエス様の地上でのお姿に通ずるものがあります。イエス様が家畜小屋でお生まれになったことについて、聖書は「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」(『ルカによる福音書』2章7節 口語訳)と記していますが、まさにこの言葉が象徴するようにイエス様の地上のご生涯は、片隅に追いやられたものでありました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(『マタイによる福音書』8章20節)というお言葉もそのことを物語っています。しかし、ヨセフがそうであったように、イエス様もご自分のそのような身の上を神様がご自分にお与えになった生き場所と心得て、「わたしは、仕えられるためではなく仕えるために来たのである」と、この地上の生涯を僕となって仕えることに徹せられたのでありました。そして、そのことのゆえに、イエス様は神様に嘉せられるものであったのでした。

 次に、ポティファルの妻が、ヨセフに「自分にひれ伏すように」と誘惑したという話が出て参ります。この誘惑を、ヨセフは「神に罪を犯すことはできない」といって退けました。ところが、そのように身の潔白を守ったことによって、ポティファルの妻の讒言を受けることなり、ヨセフは牢に入れられてしまったのでした。ヨセフは、無実の罪人とされながら、そこでも裁きを神様の手にゆだね、積極的に罪人の友となり、罪人の頭となり、罪人たちの世話に生きました。そして、そのことが幸いして、ヨセフの生涯に大逆転をもたらすことになったのでした。牢獄でヨセフが助けた給仕長が、ファラオにとりなし、ヨセフはついに牢獄から出されて、ファラオに次ぐ権力と栄光をもったエジプトの宰相に引き上げられたのであります。

 イエス様もまた、罪を犯されなかったにもかかわらず、罪人の一人に数えられました。イエス様がそのようなそしりを受けることになったおおもとの原因をたどってみれば、やはり、ヨセフと同じように「わたしにひれ伏せば、この世界をあなたに与えよう」という悪魔の誘惑を拒絶なさったことにあったといえます。そして、イエス様も、ヨセフと同じように喜んで罪人の友となり、罪人の頭となり、罪人の救いのために十字架に身をお投げになったのでありました。しかも、そのことが悪魔に対する大逆転である復活と昇天をもたらしたという点まで、ヨセフの生涯に重なります。

 『フィリピの信徒への手紙』2章6-11節は、そのようなイエス様の御生涯をこのような簡潔な言葉で描いています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 さて、エジプトの宰相となったヨセフは、自分を苦しめた兄弟たちや世の中に復讐しようなどということはまったく考えませんでした。それどころか、さながら救世主となって、飢饉に苦しむ世界に命の糧を与えため、エジプト国民のみならず、エジプトに穀物を買い求めてくるすべての国の人に穀物を分け与えます。

 天に昇られたイエス様もそうであります。『エフェソの信徒への手紙』4章7-10節には、天に昇られたイエス様についてこう記されています。

 わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。

 僕となり、罪人の一人にまで数えられて、地上のもっとも低きに降りられた方が、最も高き所に昇られたということによって、イエス様は、すべてのものを天の祝福で満たすお方になられたのだというのであります。
神は罪人を食卓に招き給う
 さて、ヨセフ物語の大きな主題は、兄弟達との和解にあります。この点についても、ヨセフにイエス様の姿を重ね合わせることができます。しかし、兄弟との和解については、今後ヨセフ物語を読み進めていくうちにいっそう明らかになっていくことなので、あまり先走らないことにしたいと思います。今日、お話ししたいのは、最初に申しましたように、ヨセフが兄弟たちを昼食会に招待したということであります。

 43章16節にこのように記されています。

 ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、自分の家を任せている執事に言った。「この人たちを家へお連れしなさい。それから、家畜を屠って料理を調えなさい。昼の食事をこの人たちと一緒にするから。」

 ヨセフは、最初の兄弟たちのエジプト訪問の際には、自分の正体を隠した上で、彼らをスパイ扱いし、ベニヤミンを連れてこなければおまえ達を信じないと脅かしました。そして、シメオンを人質にとり、残りの兄弟達を家に帰したのであります。家に帰った兄弟達は、シメオンを救うためにも、またもう一度エジプトで食糧を調達するためにも、ベニヤミンを連れてもう一度エジプトに行こうとします。しかし、前にもお話ししましたように、父ヤコブの大反対にあい、ベニヤミンをエジプトに連れていくということは、決してたやすいことではありませんでした。

 ルベンは、「もしも、お父さんのところにベニヤミンを連れ帰らないようなことがあれば、わたしの二人の息子を殺してもかまいません。どうか、彼をわたしに任せてください。わたしが、必ずお父さんのところに連れ帰りますから。」と言って、父ヤコブを説得しました。ユダもまた、「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」と、ヤコブの説得に努めました。このように、彼らは一生懸命に父ヤコブへの深い思いやりを示すと共に、命がけでベニヤミンを守ると約束し、父ヤコブを説得したのであります。

 ヨセフはそのような兄弟達の苦労というものを十分に察知したことでありましょう。だからこそ、彼らが連れてきたベニヤミンを見て、彼らのうちに真の悔い改めがあることを認めたのであります。それで、ヨセフは最初の時のように彼らを荒々しく扱おうとせず、大切なお客様として迎えることにしたというのです。そのような取り扱いに、最初は落ち着かない思いをした兄弟達でありますが、結局、「一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ。」と記されています。

 私はこの昼食会の記事を読んで、イエス様もまた弟子達や多くの罪人たちと食事を共にされたことを思い起こすのです。さらに言うならば、イエス様はしばしば天国を宴会にたとえられて、私達が神様と共に食卓につけること、これこそが和解のしるし、まじわりの回復のしるし、天国であると教えられたのでありました。

 ヘンリー・ナウエンという司祭が、食事の霊的な意味について、たいへんわかりやすい言葉で文章を書いています。

 生きていくためには食事をし、水を飲む必要があります。けれども食事をとるということは、飲食以上のものです。食事をとるということは、私たちが分かち合っている命という贈り物を喜び祝うことです。共にする食事は、最も親密で聖なる、人間らしい行事の一つです。食卓を囲むと、無防備なものとなり、お互いの皿やコップを満たして、食べて飲むように勧めたりします。飢えや渇きを満たす以上のことが、食事の時におこります。食卓を囲んで、私達は家族、友人、一つの仲間となり、さらに、一つの体となるのです。(ヘンリー・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)

 食卓を共に囲むということは、そこで同じ命の恵みを分かち合い、喜び合い、それによって一つの交わりに結ばれるという、人間にとって非常に大切な行事であるということが書かれています。そういう観点からしますと、ヨセフの昼食会には面白いことが書かれています。

 食事は、ヨセフにはヨセフの、兄弟たちには兄弟たちの、相伴するエジプト人にはエジプト人のものと、別々に用意された。当時、エジプト人は、ヘブライ人と共に食事をすることはできなかったからである。それはエジプト人のいとうことであったというのです。つまり、せっかく共に食卓を囲みながら、この食卓では、一つの糧を分かち合うということができなかったのです。これで本当に一つの仲間になるということはまだできないでありましょう。

 しかし、イエス様が私達に与えてくださる食卓は違います。ヨセフの時代、エジプト人がヘブライ人と共に食事をすることを嫌ったように、イエス様の時代においても、ユダヤ人たちは異邦人と共に食事をすること、また罪人と共に食事をすることを嫌うということがありました。しかし、イエス様はそんなことはまったくお構いなしに、罪人や異邦人たちと共に食卓を囲み、同じ命の糧に与ったのであります。そうすることによって、彼らもまた神様の食卓に招かれている神の子供らであるということをお示しになったのでありました。

 みなさん、今日はここに聖餐が準備されています。聖餐というのは、イエス様がご自分の命を私達に分け与えてくださる霊的な食事です。ここに備えられているパンとぶどう液に与る度に、私達はイエス様から命を授けられて生かされている者であること、またこの命を共に分かち合い、喜び合う、一つの家族の絆に結びあわされていることを、心で経験するのであります。

 イエス様はこうも言われました。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。ヨハネの黙示録3章20節

 聖餐式の時、洗礼を受けていない者はこれに与ることができないと言われます。今日もそのようにこの恵みの聖餐に共に与ることができない方々がおられると思いますが、決してこの食卓から拒絶されているのではないのだということを覚えていただきたいと思います。イエス様は、私をあなたの心に迎え入れて欲しい、そして共に食卓に与ろうと、皆さんの心の扉を叩いておられるのです。心にイエス様のノックする音を聞きながら、まだ扉を開けることができないでいる方々も、どうか近い日に、イエス様を迎え入れて共々にこの天の食卓に与る者になりたいと願います。
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