ヨセフ物語 12
「神様の恵みは試煉の中に隠されている」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書14章22-33節
旧約聖書  創世記43章15-34節
これまでお話し
 今日は、ヤコブの息子たちによる二回目のエジプト訪問についてのお話しであります。そのことをお話しする前に、まず、第一回目のエジプト訪問についてのお話しを、ご一緒に思い出しておきたいと思います。

 その頃、世界的な大飢饉がエジプトをはじめとする中東全域を苦しめていました。カナン地方のヘブロンに暮らすヤコブの家族も、この飢饉によって非常に深刻な食糧難に陥っていたのであります。ところが、このような世界的な規模の大飢饉の中にあって、「エジプトには穀物がある」という福音が、ヤコブ一家のもとに届きました。そこで、ヤコブの命により、10人の息子たちがエジプトに穀物を買い付けに行くことになったのでありました。

 エジプトには確かに豊かな穀物がありました。そして、世界中から穀物を求めてやってきた人々が市場にあふれてしました。エジプトに到着した彼らは、その様子をみて「ああ、これで私たちも一安心だ」と、安堵したことでありましょう。

 しかし、そのようにほっとしたのもつかの間、エジプトの役人たちがバタバタと押し寄せてきて、訳も分からないうちに彼らを捕まえ、強引にエジプトの宰相のもとへと引っ張っていったのでありました。あまりのことに、ただただ恐れて、御前にひれ伏すヤコブの息子たちに、エジプト宰相は荒々しい口調で、「おまえたちはどこから来たのか。エジプトの様子を探りに来たスパイじゃないのか」と厳しい尋問を始めます。

 こうして思いも寄らぬ容疑をかけられてしまったヤコブの息子たちは、必死になって自分たちの潔白を証明しようとしました。「私たちはカナン地方に住むヤコブの息子です。家には年老いた父と、父が大切にしている末っ子のベニヤミンがおります。実は、もうひとり兄弟がいましたが、今は失われました・・・」彼らは問われるままに、すべてを正直に答えました。しかし、結局、それらのことを信じてもらうことができず、彼らはスパイ容疑をかけられたまま牢屋に入れられてしまったのでした。

 さて、これまでご一緒に学んできた皆さんはもうご存じのことでありますけれども、このエジプトの宰相こそ、彼らが20年前、憎しみをもって荒れ野の穴に置き去りにし、そのまま行方知れずになってしまった弟のヨセフなのでありました。しかし、彼らはその事に気づきません。ヨセフもまた自分の正体を隠し、素知らぬ振りをして、お兄さんたちをスパイ扱いし、牢屋に放り込んでしまったのでした。

 これはヨセフの復讐なのでしょうか。そうではないということを、これまでのヨセフ物語の説教の中でお話をしてきました。ヨセフの心の中は、お兄さんたちと真の和解を果たし、それによって失われた家族の絆を回復し、さらには自分がエジプトで得た栄光と幸福に共に与らせ、今度こそは互いの愛を信じ合って、本当の家族として共に暮らしたいと願っていたのであります。しかし、そのためにはヨセフとお兄さんたちの間にある罪の問題がちゃんと解決されなければなりませんでした。ヨセフはその真の和解のためにこそ、真の悔い改めをお兄さんたちに求めたのであります。その真の悔い改めを促すために、ヨセフは大芝居を打っているのであります。

 そんなこととは夢にも思わないヤコブの息子たち、つまりヨセフのお兄さんたちは、スパイ容疑をかけられ、牢屋に入れられ、どんなに怖い思いをしたことでありましょうか。けれども、そこのことによって、ヨセフが願っていたように、彼らは罪を深く後悔する者となっていったのであります。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかったのだ」と、彼らは20年まえの罪を今更ながら深く悔い改め、心の中でヨセフに謝罪をしていたのでありました。

 牢に入れられて三日目になりまして、ヨセフが再びお兄さんたちのもとを訪ねて来ました。そして、やはり自分が弟であることは隠したまま、あくまでもスパイを取り調べるエジプトの宰相として、「おまえたちが話をしていた末の弟ベニヤミンをここに連れてこい。そうすれば、おまえたちの言うことを信じてやろう。しかし、それまであなたがたのうちのひとりが人質としてエジプトに残りなさい」と命じます。そして、シメオンをみんなが見ている前で縛り上げ、他の兄弟たちには十分な穀物を与え、さらにその穀物の袋の中にはそっと代金を返して、家に帰らせたのでありました。

 以上が、第一回目の、ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄弟たちのエジプトの訪問の話でありますが、彼らはもう一度、エジプトに残してきたシメオンを救うために、今度は末の弟ベニヤミンを連れてエジプトに行かなければなりませんでした。ところが父ヤコブはどうしてもベニヤミンをエジプトに連れて行くことを許そうといたしません。かつてヨセフを失い、今度はシメオンを失い、その上ベニヤミンまでも失わなければならないのかと、ヤコブは心頑なにして、決してベニヤミンを手放そうとはしなかったのであります。

 しかし、そうこうして日が過ぎてゆく内に、エジプトから持ち帰った穀物も底をつき始めました。ヤコブは「もう一度、エジプトに行って穀物を買ってきてくれ」と、息子たちに頼みます。しかし、ベニヤミンを連れて行かない限り、再びエジプトに行くことはできません。息子たちは父ヤコブを懸命に説得し、やっとベニヤミンを連れてエジプトに行く許可を得たのでありました。
ヤコブの贈り物
 さて、今日の物語はそこから始まるのです。15節をもう一度読んでみましょう。

 息子たちは贈り物と二倍の銀を用意すると、ベニヤミンを連れて、早速エジプトへ下って行った。

 贈り物と二倍の銀をもってエジプトに行った、と書かれています。贈り物というのはカナン地方の名産品でありまして、11-12節に具体的に書かれているのですが、乳香、没薬、樹脂などの香料や薬に関するもの、また蜂蜜、ピスタチオ、アーモンドの実などでありました。また二倍の銀というのは、一回目のエジプト訪問で持ち帰った穀物の袋の中に、知らぬ間に戻されていた代金として支払った銀と、今回新たに穀物を買うための銀とを合わせてもっていったということであります。

 このような贈り物は、実は、父ヤコブがぜひとも持って行くようにと、息子たちに勧めて持たせたものでありました。このようなものをもって、少しでエジプト宰相の心を宥め、ご機嫌を取り、人質のシメオンも、ベニヤミンも、無事に返してもらおうと思ったのであります。私達にも、このように贈り物をもって人の好意を得ようとしたり、また自分の気持ちを分かってもらおうとするということがありますから、こういうヤコブの気持ちはとてもよく理解できるのです。

 しかし、先ほども申しましたように、ヨセフの心は、このような贈り物を受けることにあったのではありませんでした。むしろ、ヨセフは自分の方から父ヤコブと、兄弟たちに素晴らしい愛の贈り物をしたいと願っていたのであります。それは、第一に罪の赦しでありました。第二に、彼らをエジプトに招き、自分がエジプトで得た幸せに、彼らを共に与らせたいということでありました。

 ヨセフは、このような贈り物を、何としても彼らに受け取って欲しかったのです。そして、もう一度、家族の愛による絆を取り戻し、喜びに満ちた平和な家族として共に暮らしたかったのであります。そのために、ヨセフが彼らに求めていたのは、罪を悔い改めることだけでありました。それだけが真の和解の条件でありました。逆に言うと、それ以外のどんな贈り物をもってしても、ヨセフの心を慰め、喜びで満たすことはできなかったのであります。

 このことは、私達とイエス様との関係にも似ているのではないでしょうか。私達も、自分の身に何か悪いことが起きますと、「ああ、神さまの罰がくだったのだ。」という気持ちになることがあります。罪ある人間にとって、神さまは優しいお方ではなく、罰を与える荒々しいお方に見えてくるものなのです。そんな時、私達もまた、何とか神さまの怒りを宥め、幸せをいただこうとして、自分自身の贈り物をしようとします。それはピスタチオとかアーモンドのような木の実ではありませんが、「自分の行いの実」を神さまに献げようとするのです。

 教会や社会への奉仕に励んだり、家族や隣人などに優しくなったりするということは、決して悪いことではありません。しかし、それが罪の贖罪になると思ったら、大きな間違いであります。何かの本に、「ご主人が急に優しくなったら、浮気を疑いなさい」と書いてありました。浮気はともかくとしまして、人間の心理として自分の罪意識を少しでも軽くしようとして、逆に善い業に励むということがあるのです。しかし、罪の赦しというのは、自分の行いによって得るものではなく、愛によって与えられるものなのです。これは神さまと関係においても、人間との関係においても、まったく同じ事であります。罪の赦しは、愛によって与えられる恵みなのです。

 ですから、罪の赦しを得るためには、かならず受け取る者にならなくてはなりません。ところが、ヤコブはヨセフがせっかく恵みとして返してくれた穀物の代金として銀を、返上するために持っていきないと言ったのでありました。このことはたいへん考えさせられることでありまして、罪を犯した人間というのは、しばしば罰を受け取ることよりも、恵みを受け取ることの方が難しいと思えることがあるということなのであります。

 たとえば、こういう話があります。ある人が、とても仲が良かった友人と大喧嘩をしてしまって、カッとなって相手のお腹をナイフで刺してしまったのです。幸い、友人は一命を取り留めましたが、彼は冷静になってから、自分の犯した罪の大きさに恐れおののき、友人を見舞いに行くこともできずに一人悩み苦しんでいました。やがて、友人は退院し、彼の家を訪ねてきました。そして、「君を赦すよ。元通り、仲の良い親友に戻ろうじゃないか」と言ってくれたのでした。彼は、友人の気持ちを本当にうれしく思いました。しかし、彼はその後も自分を責め続け、前のように友人と心からうち解け合うことが出来なくなってしまったのでした。つまり、彼は友人が与えるといった罪の赦しを受け取ることが出来なかったのです。そして、自分はこの罪のために、大切な友人を失い、生涯苦しみ続けるのがふさわしいのだと、自分で決めつけてしまったのであります。

 罪の赦しというのは、安価な恵みではありません。非常に高価な恵みであります。そして、与えられて当然の恵みではなく、本来ならば自分に与えられるはずない恵みであります。このようなとてつもなく大きな愛の借りを受けて生きるよりは、罰を受けて生きる方が、ずっと自分にふさわしいことだし、気が楽だと思えてくることがあるのです。私達も、自分のような罪人は教会にいく資格がないとか、聖餐に与る資格がないとか、お祈りする資格がないとか、愛される値打ちがないとか、そんな風に考えてしまうことがないでしょうか。それは言ってみれば、ヤコブのように恵みを返上しようとしていることだと思うのです。

 しかし、それはどんなに私達を愛し、イエス様を与えてくださった神さまを悲しませることになるでしょうか。また、どんなに私達のために十字架にかかってくださったイエス様を悲しませることになるでしょうか。恵みを拒絶することは、罪に罪を重ねることになるのです。私達は、神さまに何かを与えることができる人間にならなくてもいいのです。しかし、神さまをあたえ給う恵みを心から感謝して生きる人間にならなくてはなりません。自分の愛を、自分の業を誇ることのできる人間にならなくてもいいのです。しかし、神さまの愛を、神さまの恵みの御業を讃美して生きる人間にならなくてはなりません。イエス様が私達に求めておられるのは、そのことなのです。

 
恐れてはなりません
 さて、ヤコブの息子たちは、贈り物を携え、またベニヤミンを伴って、首尾良くエジプトに到着いたしました。すると、すぐにヨセフの執事がやってきて、しかも前回とは打って変わって非常に丁重な態度で出迎え、彼らをヨセフの御殿に案内したのでありました。

 エジプトに行けば当然ひどい目に遭うだろうと覚悟をしていた兄弟たちは、丁重な出迎えを受けたことで安心したかと思いきや、かえってこの思い掛けない丁重な出迎えを受けたことを彼らなりにいろいろ邪推しまして、かえって不安に感じたと、聖書には記されています。

 執事はヨセフに言われたとおりにし、一同をヨセフの屋敷へ連れて行った。一同はヨセフの屋敷へ連れて来られたので、恐ろしくなって、「これはきっと、前に来たとき我々の袋に戻されていたあの銀のせいだ。それで、ここに連れ込まれようとしているのだ。今に、ろばもろとも捕らえられ、ひどい目に遭い、奴隷にされてしまうにちがいない」と思った。

 兄弟たちは、ヨセフの屋敷へ連れて行かれたので恐ろしくなったとあります。なんで屋敷に連れて行かれることがそんなに恐ろしいことなのでしょうか。私はここを読んでしばらく考えましたが、どうしても、屋敷につれていかれるだけで、彼らがそんなにも恐れる理由というのが見つかりませんでした。結局、私が出した結論は、彼らの恐れに合理的な理由があったわけではないのだということであります。

 彼らは、別に恐れる必要はありませんでした。合理的に考えれば、一回目のエジプト訪問で、「末の弟ベニヤミンを釣れてくれば、スパイ容疑は晴れ、おまえたちは殺されはしない。人質を返し、今後自由にこの国に出入りできるようにしてやる」(42:20,42:34)と言われていたのでありますから、ベニヤミンをつれて来た今、どこへ連れて行かれようと、何も恐れる必要ななかったと言ってもよいでありましょう。しかし、彼らは、そうは考えることができませんでした。勝手に悪い想像を膨らませ、「今に、ろばもろとも捕らえられ、ひどい目に遭い、奴隷にされてしまうにちがいない」と、恐れてしまっているのです。

 その原因は、彼らがヨセフの言葉(約束)を信じなかったからなのです。もっと正確に言うならば、彼らはヨセフの言葉に従ってベニヤミンを連れてきたのですが、心の中では「これで助かる」という救いの確信が持てなかったのです。

 私達の信仰生活も同じです。救いの確信がないと、どんなに神様の言葉に従う生活をしていても、いつも恐れと不安がつきまとうことになります。日曜日の礼拝を守り、10分の1の献げ物をし、祈りの生活をし、愛の業に励んでいても、まだ足りないのではないか? もっと何かをしなくてはならないのではないか? そんな不安材料がいっぱいでてきて、何かにつけ物事を悪い方へ悪い方へと考えるようになってしまうのです。

 襲い来る不安をこらえきれなくなったヨセフの兄弟たちは、屋敷の家の門につくと、案内役の執事にこのように訴えます。

 「ああ、御主人様。実は、わたしどもは前に一度、食糧を買うためにここへ来たことがございます。ところが、帰りに宿で袋を開けてみると、一人一人の袋の口のところにそれぞれ自分の銀が入っておりました。しかも、銀の重さは元のままでした。それで、それをお返ししなければ、と持って参りました。もちろん、食糧を買うための銀は、別に用意してきております。一体誰がわたしどもの袋に銀を入れたのか分かりません。」(20-22)

 これなんかは、彼らの不安を非常によく表していまして、彼らは問われてもいない罪について一生懸命に弁明しているのであります。ベニヤミンを連れくればそれで十分だと言われているにもかかわらず、彼らの方で勝手に、それだけでは足りないのではないか、もっとこういうことも必要なのではないか、とびくびくしてしまっているわけです。

 すると、執事の口から彼らが予想もしなかった言葉が飛び出します。

 「御安心なさい。心配することはありません。」

 私達の確信のない、恐れと不安に満ちた人生に必要なのも、この言葉であります。しかし、考えれば考えるほど不安材料がいっぱい出てくる私達の人生において、なぜ安心してもいい、恐れなくてもいいと断言できるのでしょうか。執事は、このように答えます。

 「きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。あなたたちの銀は、このわたしが確かに受け取ったのですから」(23)

 それは、あなたたちの神さまがしてくださったこと、神さまがあなたたちにお恵み下さった宝であるに違いありませんと、言うのであります。

 今日は「神の恵みは試煉の中に隠されている」という説教題をつけさせていただきました。試煉というのは、確信のない心をもって見れば、不安は不安を生み、どこまで不安は広がっていくのです。その中には何一つ良いことがないように見えてくるのです。しかし、本当に私達は不安の底なし沼に置かれているのでしょうか。執事は、あなたたちが不安に思っているそのことは、実は不安ではなく、神の恵みなのですよと言ったのでありました。

 似たようなお話しが新約聖書の中にもあります。向こう岸にわたるために、船で漕ぎ出した弟子たちが、湖の真ん中で、逆風に遭い、漕ぎ悩んでいます。すると、海の上なのに、人影が自分たちの方に近づいてくるのが見えるのです。弟子たちは非常な恐怖にかられ、「幽霊だ」と言って大騒ぎをします。ところが、彼らが幽霊だと思って恐れていたものは、実は彼らの救い主イエス様であったというのです。そして、イエス様も、ヨセフの執事と同じ事を彼らに言います。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 不安が不安を生むのです。恐れが恐れを生むのです。そして、恵みも救いも見えなくしてしまうのです。しかし、私達は神さまの愛を信じようではありませんか。私達の人生には辛いことも、悲しいこともあることでありましょう。しかし、愛なる神さまがそのようなものを私達にお与えになるには、何か愛に満ちた深い御心があることなのです。たとえば、ヨセフが兄弟たちをおまえ達はスパイじゃないかと尋問したり、ベニヤミンを連れてきなさいという課題をあたえたのは、真の和解のためであったというお話しをしました。そのように神さまが私達に試煉をお与えになる時にも、より素晴らしい救いに与らせるためであるのです。

 私達の人生は、試煉の時にもなお、そのような神さまの愛のうちにあるのだということを信じるならば、試煉の中にも多くの神の恵みが隠されていることを知ることができるのです。そして、戦いはあるでしょうし、忍耐も必要でありますから、神さまの慰めを受けつつ生きることができるのです。

 さて、その後、彼らは昼食会で、ヨセフと再会します。兄弟たちも幾分心がくつろぎ、その食事会をヨセフと共に楽しみました。ヨセフはまだ、彼らに正体を隠し続けているのですが、だんだんそれが難しくなるほど、愛が溢れてくる様が、この食事会にうかがえます。今日は時間がありませんので、それらのことについては、次回、お話しをさせていただくことにします。
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