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非常に深刻な飢饉が、ヤコブの一家を苦しめていました。しかし、「エジプトには穀物がある」という話を聞いて、ヤコブの息子たちはエジプトに穀物を買いに行きます。ただし、末っ子ベニヤミンだけは一緒に行かず、ヤコブのもとに残ったのでありました。
どうしてベニヤミンだけが家に残ったのか? これまでご一緒にヨセフ物語を学んできた方々にはおよその見当がつくことだと思いますが、父ヤコブがどうしてもベニヤミンを手放さなそうとしなかったというのが実情であります。ヤコブには四人の奥さんがいましたけれども、その中で最も愛したのがラケルでありました。ところがラケルにはなかなか子供が生まれない。ようやく生んだのが、ヤコブにとって11番目の子どもであるヨセフと、12番目の子どもであるベニヤミンでした。しかも、ラケルはベニヤミンを生んだときに、その新しい命と引き替えに自分の命を落としまいます。ですから、余計に、ヤコブはラケルの忘れ形見であるヨセフとベニヤミンを愛しく思ったのでありましょう。
そういう気持ちはわからないでもないですけれども、しかし、それはあまりにも露骨な形で現れました。ヨセフだけに特別な晴れ着を着せるとか、他のお兄さんたちが何日も野宿し手真っ黒になって羊を飼っている時に、この子たちだけは家で悠々と過ごさせるとか、このようなヤコブの、子どもたちへの偏った愛情の注ぎ方が、ヨセフ、ベニヤミン以外の他の子どもたちの心を深く傷つけ、ついにはヨセフに恨みを抱かせるようにまでなり、その結果、ヤコブは愛するヨセフを失うことになってしまった。このことは、ヨセフ物語の最初に申し上げたとおりであります。
ところが、ヤコブはヨセフを失った悲しみに暮れるばかりで、自分自身にその原因があったのだということに気がつこうとしません。ヨセフを失ってから二十年が経ったこの時も、相変わらず「ベニヤミンだけは・・・」と言って、エジプトにやろうとしはしなかったというのであります。
ヤコブという人は、人間的にみますと非常に問題の多い人であったといえます。小賢しい知恵が回り、自分の利益のためには平気で人をだますような人物でした。また、今お話ししたような家族に対する愛情の注ぎ方にも大いに問題がありました。その結果、父イサク、兄エサウ、また叔父ラバンや、妻のレア、その子どもたちなど、多くの人たちを傷つけ、苦しませてきました。そればかりではなく、自分自身も人からの恨みを買ったり、報いを受けたりして、悩みと悲しみの耐えない人生を送るのであります。
しかし、私はこのようなヤコブを決して嫌いではありません。人間的には多くの欠けと破れを持ちながら、そのような弱き人間として神様を信じ、依り頼み、神様から大きな恵みをいただいて生きてきたヤコブに、「わたしもそうだ」という親しみを覚えるのです。人間的に立派な人であるということと、信仰者であるということは、必ずしも同じ事ではありません。そして、神様はたとえ立派な人間でなくても、ご自分を依り頼む人を決して軽しめられず、その信仰に豊かに答えてくださるということを、ヤコブの生涯は物語っているように思うのです。 |
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ところで、ヤコブが、相変わらず自分自身の問題に気がつかないままで、またもやラケルの子に対する依怙贔屓を続けているのに対して、息子たちの方は、だいぶ心境に変化が起きているのを見て取ることができます。
エジプトに穀物を買いに行ったヤコブの息子たちは、そこでばったりとエジプトの宰相にまで出世をしたヨセフに出くわすのです。しかし、それがヨセフであるということにはまったく気がつきません。他方、ヨセフの方はすぐにお兄さんたちであることに気がつくのですが、あえて自分が弟であることを明らかにしないで、お兄さんたちに対して「おまえたちは何者だ。エジプトの様子をさぐりに来た回し者ではないのか」と厳しく追及をはじめたのでした。
思いがけずスパイ容疑をかけられ、牢屋にまで入れられてしまったヨセフのお兄さんたちは、必死になって身の証しを立てようと試みます。ところが、なかなか信じてもらえないばかりか、自分が何の罪もない正直者だと主張すればするほど、それとは逆に、本当は自分たちが弟ヨセフに対してとんでもない罪を犯してしまった赦されざる人間なのだという思いが強くなっていくのであります。
「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」
彼らは自分の身にふりかかったことは、自分たちの中にある罪が問題なのだ、もっといえば自分たちのこれまでの生き方がもたらした結果なのだ、そのように問題の原因が自分自身の中にあるということに気がつくようになったのであります。
もっとも彼らがこのように言うのは、半分は正解であり、半分は間違いでありました。確かに、彼らが今このような目にあっているのは、二十年前にヨセフに対して犯した罪が原因であることに間違いありません。その罪が、彼らにこの苦しみをもたらしているのです。しかし、彼らがまだ気がついていないもう一つの隠された現実がありました。それは、この苦しみは、彼らに救いをもたらす苦しみであったということであります。
彼らは決して神の罰を受けているのでなければ、ヨセフの復讐を受けているのでもありませんでした。むしろ、ヨセフは、彼らと真の和解を結ぶためにこそ、彼らの心を試し、問うているのです。罪の自覚を持たない者には、罪の赦しも、和解の福音も届かないからです。そこまで彼らの思いが至っていないにしろ、彼らの心に罪の自覚が生じ、自分の身に降りかかったこれらの問題はすべて、根源的には自分自身のうちにある問題なのだと考えるようになったということは、たいへん大きな心の成熟でありましょう。
自分の罪を素直に認めることができるようになりますと、意外なことに人間というのは優しくなるものであります。それは自分の弱さを知ることによって、他人(ひと)の弱さをも知ることができるようになるからだと思います。そのような一面が、父ヤコブへの思いやりという形で、ヨセフの兄弟たちにも見られるようになります。
彼らは、自分たちが立てた身の証しが本当であることを証明するために、家に残してきたベニヤミンをエジプトに連れてくるようにと要求されます。そして、それまでの間、シメオンを人質として取られてしまうのです。シメオンは、彼らの見ている前で縛り上げられ、人質となりました。それを見た彼らは生きた心地がしないほどの恐怖を感じたでありましょう。
ところが、家に帰った兄弟たちは、自分たちが味わった恐怖や苦しみのことよりも、父ヤコブの気持ちを最大限に思いやろうとします。ちょっと細かな話になって恐縮なのですが、42章33節で、人質となったシメオンについて、彼らは、エジプトの宰相から「お前たち兄弟のうち、一人だけここに残し・・・」と言われたのだと語っています。この「残し」という言葉は、直訳すると「休息させ」という意味であり、敢えて縛り上げられたとか、牢に監禁された事実は隠して報告しているのです。それは、父ヤコブの気持ちをおもんぱかってのことであったでありましょう。
また、ベニヤミンをエジプトに連れて行くということについてですが、37節で、ルベンは、「自分の子どもの命に代えても、ベニヤミンを守ります」と言っています。同じ兄弟なのに、ベニヤミンだけが特別扱いされることは、決して面白いことではなかったはずなのに、そういう自分たちの気持ちよりも、父ヤコブの気持ちを最優先に考えて、こう言っているのです。かつて、父親にちやほやされているヨセフを妬み、憎み、落とし穴に置き去りにし、動物の血をつけたヨセフの着物を父親に送りつけて、「あなたの息子は獣にかみ殺されて死にました」と冷酷な報告した兄弟たちは、これほどまで変わったのです。
何が彼らをそのように変えたのでありましょうか。一言で言えば、それは罪の自覚としか言いようがないのです。罪のない人はいません。しかし、罪を自覚していない人はたくさんいます。罪の自覚のない人は、常に問題は自分の外にあると考えてしまいます。だから、自分の不孝を他人のせいにしたり、環境のせいにしたり、神様のせいにしたりするのです。
最初にも申しましたが、父ヤコブが、相変わらずそうなのです。ヤコブが他の息子たちの気持ちを考えず、ヨセフばかりを愛したために、最初の不幸は置きました。そして、今回も、シメオンが人質にとられたのも、ヤコブがベニヤミンをエジプトに同行させなかったからだともいえるのです。そういう意味では、私は一番反省しなくてはいけないのはヤコブだと思っています。ヨセフやシメオンだけではなく、息子たちは皆、ヤコブのせいで苦しめられていると言ってもいいのではないでしょうか。ところが、ヤコブは自分自身の中にある問題に気づこうとしません。問題は、自分の外にあると考えてしまうのです。ですから、こんな言葉が出てくるわけです。
「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」
これとほとんど同じ事が43章6節にも言われています。
「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」
息子たちを責めるのは、まったくのお門違いです。しかし、問題が自分のなかにあるということに気がつかない人は、常に自分の不孝を他人のせいにするのです。たとえ、それが家族であっても、そうなのです。 |
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さて、ヤコブの家族は、まったく行き詰まり、追いつめられてしまいます。エジプトにはシメオンが人質になっています。シメオンを取り戻すためには、ベニヤミンをエジプトに連れて行かなくてはなりません。ところが、父ヤコブは頑としてそれを拒絶します。そうこうしているうちに、エジプトから持ち帰った食糧も底をついて来ました。しかし、ベニヤミンを連れて行かなければ、エジプトに行くことはできません。かといって、このままでは飢え死にを待つばかりなのです。本当に、にっちもさっちもいかない状況に陥ってしまったのでした。
そのような中、息子たちが父親の説得を試みます。
ルベンは父に言った。「もしも、お父さんのところにベニヤミンを連れ帰らないようなことがあれば、わたしの二人の息子を殺してもかまいません。どうか、彼をわたしに任せてください。わたしが、必ずお父さんのところに連れ帰りますから。」(42:37)
ユダは、父イスラエルに言った。「あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も行って来たはずです。」(43:8-10)
ルベンは「もし、ベニヤミンを連れて帰らなかったら、自分の二人の息子を殺してもかまいません」と言いました。そのくらいの覚悟をもって、ベニヤミンを必ず守ります、という意味でありましょう。ユダは、「もし、ベニヤミンを連れて帰らなかったら、一生その罪を負います」と言いました。罪を負うということは、もちろん罰をも負うという意味であります。このような捨て身の説得が、ヤコブの心を動かすのです。
先日の聖書の学びと祈り会で、詩編12編を学びました。真実のない、口先ばかりの世の中を嘆く詩編であります。
主よ、お救いください。
主の慈しみに生きる人は絶え
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。
人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。
主よ、すべて滅ぼしてください
滑らかな唇と威張って語る舌を。
彼らは言います。
「舌によって力を振るおう。
自分の唇は自分のためだ。
わたしたちに主人などはない。」(詩編12:2-5)
人々は、「偽り」、「滑らかな唇」、「二心」・・・このような舌先三寸で世間を上手に渡り歩くことばかりを考えている。そして、「信仰のある人は消え去りました」と嘆いています。信仰がなくなったとは、宗教がなくなったという意味ではありません。宗教はある。礼拝や祭りは行われている。しかし、形ばかりで、そこに本物の信仰がないのであります。たとえ、正しいことであっても、魂のない抜け殻のようなものになってしまっているのです。
孔子はダビデよりずっと後の人でありますが、やはり「巧言令色、鮮矣仁。」ということを申しました。「仁」は、他人に対する心の持ち方のことで、愛とか真心といってもよいでありましょう。人間というのは、心がなくても口先ではいくらでもうまいことを言えます。優しい言葉、親切な言葉、希望をもたせる言葉、そういう言葉はいくらでも語ることができます。しかし、言葉だけで終わりです。言葉以上のものは与えようとしないのです。
このように口先だけがモノをいう時代というのは、決して昔だけのことではないでありましょう。古から今日に至るまで、少しも変わらない人間の世界の現実なのです。そこに失われているのは信仰と愛なのです。真理と真心なのです。そのような世の中に、果たして今日の様々な行き詰まった問題を切り開いていく力があるとは、とても思えないのです。
しかし、本物の信仰、本物の愛が現れるとき、道が開けてきます。キング牧師も、マザーテレサも、世の中を動かしたではありませんか。彼らの信仰と愛が世の中を動かしたのです。ヤコブを説得するルベンやユダの言葉のなかには、そのような本物の信仰と愛に通じる真理と真心がありました。決して口先だけでない迫力がありました。その迫力とは、先ほどもちょっと言いましたが、捨て身ということであります。だからこそ、ヤコブの心が動いたに違いないのです。
ある本の中に、「自分の生命の提供、これがクリスチャン・ライフであります」という塚本虎二師の言葉が紹介されていました(左近淑、『旧約聖書の学び/上』)。なるほど、イエス様は、このように言われました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」とは、自分のすべてを賭けて、神様を礼拝するということでありましょう。「自分のように愛しなさい」とは、自分への愛をそっくりそのまま隣人に与えるということですから、自分を顧みない捨て身の愛ということが言われているのです。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と、イエス様が言われたのは、まさしく「自分の生命の提供、これがクリスチャン・ライフであります」ということでなかったでしょうか。
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さて、ヤコブ一家の話に戻りますが、今日のお話しで一番驚かされるのは、ヤコブのこの言葉でありましょう。
「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」
ベニヤミンはヤコブの命でした。ヤコブにとって、ベニヤミンを失うことは、死ぬことより辛いことだったのです。だからこそ、どうしてもベニヤミンを手放すことができませんでした。誰だって自分の命は捨てられないのです。
ところが、これまでのヤコブの姿勢からは想像もつかないような言葉が、ここで飛び出すのです。「どうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」 ベニヤミンを失ってもいいと、ヤコブは言ったのでした。しかし、これは、どうにでもなれというやけっぱち、絶望の心ではなく、「どうか、全能の神が・・・」と祈っていますように、すべてを神様のご意志、ご計画にお委ねしたということなのです。言ってみれば、これはヤコブのゲッセマネの祈りなのです。
みなさん、私達の人生にもこのようなゲッセマネの祈りが必要になる場面というのがあると思うのです。ゲッセマネの祈りというのは、決して口先だけ祈れる祈りではありません。これは捨て身の祈りなのです。自分の命をすっかり神様のご意志に委ねるという祈りです。
このような祈りを捧げなくてはならないときというのは、私達にとって非常に辛い場面、絶体絶命の場面でありましょう。最近、わたしはある本の中で、こんな笑えない「笑い話」を読みました。
ある男が、狭い山道をトラックで走っていました。片側は深い谷底でした。ところがカーブでハンドルを切り損ない、道からはじき飛ばされたトラックは、山肌を何度もバウンドしながら、谷底へとまっさかさまにおちていったのです。男は車から投げ出され、かろうじて崖っぷちで一本の小枝に捕まることができました。しかし、切り立った崖の上で、たった一本の小枝にぶらさがることになってしまったのです。彼は死にものぐるいで崖をよじ登ろうと格闘しましたが、とうとう精根尽き果て、「神様!」と祈るのです。すると、一瞬おいて、雷鳴のような声が山に響き渡りました。「わたしなら、ここにいる。何をしてほしいのかね」男は嘆願しました。「どうか、助けてください。もうこれ以上捕まっていられません」すると、主がお応え下さいました。「よろしい。助けてあげよう。しかし、まずその小枝を手離しなさい。そうしたら、わたしが捕まえてあげよう。私に任せて、安心して手を離しなさい。私の手はお前のすぐ下にあるから、大丈夫だ」宙づりの男は下を見ました。深い谷底でトラックが燃えています。男は再び叫びました。「ほかにだれかいませんか!」
みなさん、私達にも、神様の言葉に従う前に、もっといい方法はないだろうか、もっと手軽に自分を救ってくれる人はいないだろうか、そのような思いにかられることがあるのではありませんでしょうか。
ヤコブもそうだったと思うのです。ベニヤミンをエジプトに行かせないで済む方法はないのか。誰かがうまいこと問題を解決してくれないだろうか。ベニヤミンという小枝に必死にしがみついて、がんばり続けたのです。
しかし、息子たちの真剣な説得に、彼もようやく悟ります。「主の名のほかに、私を救い得る名はないのだ」ということを知るのです。このとき、ヤコブはルベンやユダの言葉に動かされたのは確かですが、決してルベンやユダの言葉を当てにしたのではありません。神様に自分の命も、命よりも大切に思えるベニヤミンも、すべてを委ねたのです。小枝から手を離したわけです。それがヤコブのゲッセマネの祈りです。
私達にもこのようなゲッセマネの祈りが必要なときがあります。そのとき、どうか本当の信仰に主に表すことができる者でありたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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