ヨセフ物語 10
「罪は熟して人に死をもたらす」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヤコブの手紙1章12-15節
旧約聖書 創世記42章17-38節
罪の自覚は和解への第一歩
 先週は、「人は自分の犯した罪に気づかなければならない」というお話をしました。しかし、実はちょっと時間が足りなくなってしまい、肝心なところを十分にお話ができなかったと感じております。それは何かといいますと、「罪を自覚することは和解の第一歩である」ということです。このことが先週、一番申し上げなければならなかったことでしたが、十分にお話しできなかったと思っているのです。今日はそのあたりを少し補足しながらお話しを進めさせていただきたいと思います。

 前回のお話はこうでした。ファラオが見た夢のお告げの通り、エジプトに七年間の大豊作が訪れます。しかし、その期間が終わると、今度は打って変わって大凶作が襲いかかるのです。それはエジプト国内のみならず中近東全域を襲う大飢饉でした。夢のお告げによれば、このような飢饉は七年間も続くはずでした。

 幸い、エジプトでは、ヨセフのお陰で、大豊作の間に十分な穀物の蓄えることができました。しかし、周辺の国々ではそのような備えがあろうはずもありません。極めて深刻な飢餓状態に襲われたと思われます。ヨセフの蓄えたエジプトの穀物は、このような人々をも救うことになりました。ヨセフが、他国の人々にも分け隔てなくエジプトの穀物を売ることを許可したからであります。

 「エジプトに穀物がある」という噂が国々をかけめぐりました。そして、そのような噂を聞いた人々が、穀物を買い求めるために、ぞくぞくとエジプトに集まってくることになったのです。ヘブロンに住んでいたヨセフの家族、つまりヤコブ一家でも、飢饉は生死に関わる非常に深刻な問題となりつつありました。そこでやはり「エジプトには穀物がある」という噂を頼りに、十人の息子たち、つまりヨセフの兄弟たちが、エジプトに行くことになったのです。

 他方、ヨセフはエジプトの宰相として、穀物市場の見回り、監督をしておりました。すると、そこにヘブロンからやってきたヨセフの兄弟たちが姿を現したのであります。ヨセフはすぐにお兄さんたちの存在に気がつきました。しかし、お兄さんたちの方は、まさかエジプトの宰相がヨセフであるとは思いもよりません。その時、ヨセフがお兄さんたちを呼びつけたのか、あるいはお兄さんたちの方からエジプト宰相への表敬の挨拶をしようとして近づいてきたのか、その辺は定かではありませんが、ヨセフとお兄さんたちはそこで二十数年ぶりの再会を果たすことになったのでした。

 ところが、それはすぐには感激の再会場面とはなりませんでした。ヨセフは、自分の前にひれ伏すお兄さんたちに、自分の正体を隠したまま、「おまえたちはどこからきたのか。エジプトの様子を探りに来た間者ではないのか」と、厳しく問いただしたのであります。思いもよらぬ立場になってしまったお兄さんたちは必死になって身の証しを立てようとします。

 「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません。」(10-11)

 しかし、その申し開きは聞き入れられません。「いや、おまえたちはエジプトの手薄なところを探りに来たにちがいない」と、ヨセフはますます厳しくお兄さんたちを責め立てたのでした。

 この時、ヨセフのお兄さんたちはアイデンティティー・クライシスに陥ったのだと、先週、私は申し上げました。アイデンティティーとは、「自分は何者であるか」ということです。「私は誰々の息子です」、「誰々の妻です」、「どこどこの出身です」、「どこどこの大学を出ています」、「どこどこの会社に勤めています」云々。そういうことは自分が何者であるかということをいかにも雄弁に語っているようですが、実はあまり確かな話ではないのです。たとえば、「誰々の息子です」「誰々の妻です」ということが、自分の誇りであり、喜びであるような時には何の問題もないのですが、逆にそれが自分の重荷となったり、自分を苦しめる原因となってくるようなことがないとも限りません。そうなると、自分は誰々の息子である、誰々の妻であるということは、自己存在の証明どころか、自己存在を否定するような要因になってしまうからです。

 ヨセフのお兄さんたちが陥った状況は、これとはちょっとわけが違いました。ヤコブの息子であることに誇りをもてなくなったわけでは決してなかったのです。しかし、それ自体が自己証明として、相手には何の意味もなさないような場所に立たされてしまったのでありました。実は、教会という場所で、私たちはそのような者として、神の前に立っています。つまり、私達が誰の息子であるとか、誰の妻であるとか、どんな仕事をしてきたとか、そういうことが通用しないのです。神様は私たちを外側からではなく、内側からご覧になるお方だからです。その、何一つごまかすことのできない神様の目にさらされながら、私たちは「あなたは何者か」と問われているのです。

 私たちは神様になんとお答えできるでしょうか。私たちの答えは、果たして神様の前に通用する答えでしょうか。そのような「自分とは何者か」という問いが改めて自分自身に迫ってくることをアイデンティティー・クライシスと言います。

 この問題を考えるのにたいへん参考になる話があります。ある時、イエス様は、神様の前に自分は何者であるかということを祈った二人の人についてのお話しをなさいました。

 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 神様の前に、わたしは何も悪い人間ではないと胸を張るファリサイ派の人と、神様の前に「わたしは罪人です」と目を上げることもできず、うつむくばかりの徴税人の祈りが、ここに記されています。イエス様は、この二人のうち義とされて家に帰ったのは、「わたしは罪人です」と祈った徴税人だけであったと言っています。義とされて家に帰るとは、壊されていた神様の関係が元通りにされて家に帰ったということです。もっと端的にいうならば、「おまえをゆるすよ」という神様の言葉を聞いて、それを受け取って、喜んで家に帰っていったということなのです。しかし、ファリサイ派の人は神様に祈った後も、そのような喜びを経験することはなく、以前と何も変わることのない人間として、家に帰っていったのであります。

 私は、なぜファリサイ派の人が神様と関係を修復して家に帰ることができなかったのかということを、注意深く考えなければならないと思います。それは、神様がこの人をゆるそうとしなかったからではないのです。神様は、徴税人に対するのと同じように「おまえをゆるすよ」という恵みの言葉を、この人にためにも与えたいと願っておられました。しかし、当の本人が、そんなものは自分に必要がないのだと主張をしてしまっているのです。

 実に、神様はすべての人を赦そうとしているお方です。すべての人との関係を修復し、その関係を喜びに満ちた新しいものにしたいと思っておられます。そのために、神様は私達の罪の償う生け贄として、イエス様を十字架にかけてもくださったのです。しかし、自分は罪人であるという自覚を持たない人には、この素晴らしい神の恵みも何の意味も持ちません。イエス様は、豚に真珠を投げると、豚はそれを足で踏みにじり、あなたがたに噛みついてくるであろうと言われましたけれども、罪の自覚のないものに、「わたしはあなたを赦します」と言った時にも、まったく同じ事が起こるのです。そういうことを考えますと、ヨセフがお兄さんたちに何を求めていたのかということが分かってきます。

 ヨセフはお兄さんたちと二十数年ぶりの再会を果たして、心底懐かしく思いました。お兄さんたちとの関係を回復し、もう一度喜びに満ちた家族を取り戻したいという気持ちが起こってきました。しかし、だからといって、お兄さんたちの罪を不問に付すわけにいかないのです。罪を問わずして、「お兄さん、私はヨセフです。お久しぶりです。さあ、せっかくこのように再会できたのですから、もう一回仲良く暮らしましょう」といったところで、それは本当の和解にならないからです。そういう状態では、ヨセフはお兄さんたちに対する恨みを残したまま、お兄さんたちはヨセフに対する罪を残したまま、本質的な何も変わらないままに、ただ一緒になるということに過ぎないのです。罪を問わないで水に流すということでは、決して本当の和解は生まれません。心からなる悔い改めと心からなる罪の赦しが結合したときにこそ、和解による新しい関係が生まれるのです。

 ヨセフは、お兄さんたちを愛すればこそ、そのような本当の和解を望みました。自分の中にあるお兄さんたちへの心のしこりを完全になくし、またお兄さんたちの中にある罪をまったくきれいに消し去って、新しい喜びに満ちた関係を回復したと願いました。だからこそ、ヨセフはお兄さんたちの罪を問題にせざるをえないのです。

 ヨセフは、「あなたたちは何者なのだ」と厳しく問うことによって、お兄さんたちの本心を探ろうとしたに違いありません。お兄さんたちの心の中に、「ヨセフをあんな目に遭わせてしまって、本当にすまないことをした」という気持ちがあることを見つけ出そうとしているのです。それを見つけることができたならば、ヨセフは心からお兄さんたちを赦し、その赦しによってお兄さんたちの心から罪が消え去り、新しい関係を結ぶことができるのだと考えたのでした。罪の自覚は和解への第一歩であるとは、そういうことなのです。

 そして、これは私達と神様の関係においてもまったく同じであります。罪の自覚がなければ、イエス様の十字架をみても何も感じません。しかし、罪の自覚を持つ人は、イエス様の十字架を仰いで、そこに「おまえをゆるすよ」という神様の恵みの言葉を聞き、それを胸に抱きしめて、喜んで家に帰ることができるでありましょう。そして、そこから神様と新しい喜びに満ちた関係が始まるでありましょう。そのことが、あのファリサイ派の人と徴税人の祈りの話の中で、イエス様がお語りになったことなのです。
罪は熟して死を生み出す
 さて、ヨセフは、「あなたがたは何者なのか」と、お兄さんたちに執拗に問い続けます。それに対して、お兄さんたちは今まで敢えて黙っていたことも語らざるを得なくなりました。それは、弟ベニヤミンとヨセフのことでありました。私はおそらく、お兄さんたちは意識的にこのことについては黙っていたのではないかと考えるのです。ヨセフのことについては、お兄さんたちの心の深い傷となっていて、決して触れたくないことの一つであったでありましょう。またベニヤミンのことも、それに関係していて、もう二度と弟を失うようなことがあってはならないという強い思いがお兄さんたちの心の中にあっただろうと思うのです。

 ヨセフも、そのあたりのお兄さんたちの気持ちを読み取ったのではないでしょうか。そして、ヨセフは、その点についてさらにお兄さんたちの心を確かめようとして、「おまえたちの誰か一人を行かせて、ベニヤミンをここに連れてこい。それまでは、おまえたちを牢屋に入れておく」と、お兄さんたちに試煉をあたえるのでありました。

 三日目になって、再びヨセフはお兄さんたちの前に現れました。そして、前回の条件を少しゆるめて、改めてこのようにお兄さんたちに要求するのであります。「おまえたちのうち一人が人質として牢に残りなさい。残りのものは飢えている家族のために穀物をもって帰ってよろしい。ただし、必ず末の弟を連れて、もう一度戻ってくるのだ。それを確かめたら、おまえたちのことを信じてあげよう」お兄さんたちは、どうしてもベニヤミンをエジプトに連れてこなければならないこと、また自分たちのうち誰かが人質として残らなければならないことを思い、非常に心を苦しませました。そして、互いにこう語り合うのです。

 「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」

 また、長男であるルベンは、このようにも言いました。

 「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」

 これらの言葉のなかに、お兄さんたちがヨセフのことでずっと苦しみ続けてきたということが見て取れます。ヨセフはこれを聞いて、感情を抑えきれなくなり、「彼らから遠ざかって泣いた」と書かれています。そして、再び戻ってきて、シメオンを選び、彼らの見ている前できつくし縛り上げて牢に入れました。それを見たお兄さんたちは、シメオンを救い出すために何としてでもベニヤミンを連れてここに戻ってこなくてはと心に誓ったことでありましょう。

 また、さらにヨセフは、人々に命じて、お兄さんたちの袋に穀物を詰めさせました。その上こっそりと、穀物の代金をその袋の中に忍ばせ、戻してやりました。さらに、帰りの道中に必要な穀物も別途に手配しました。ヨセフはお兄さんたちを脅かす一方で、陰ではこのように手厚い保護を与えていたのであります。

 このようなヨセフの一見矛盾するような振る舞いの背景には、先ほど申しましたような、罪を不問に付すわけにいかないが、真実の和解をもって新しい関係を築きたいという強い気持ちがあったからに違いありません。ところが、今日注目したいことは、そういうヨセフの真の心を悟り得ないで、ただただ自分たちの身にふりかかったことを「災いだ、災いだ」と嘆くばかりのお兄さんたちの姿であります。

 エジプトからの帰り道、彼らの一人がろばに餌をやろうとして穀物の袋を開けました。そして、代金として支払ったはずの銀が戻されていることに気づきます。彼らはそれを喜びません。災いだとしか考えられないのです。ただでさえ、回し者だという容疑がかかっているのに、このようなことがあのエジプト宰相に知られたら、それこそ命がないという恐怖に襲われたのです。誰かが自分たちを陥れようとしているとさえ考えたかもしれません。そして、それもこれも、みんなヨセフに対して犯した罪の罰を受けているのだと思ってしまうのです。「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」彼らは、神様の罰を受けているという恐怖に身をすくませるのでありました。

 このように彼らのエジプト行きの体験は散々なものとなりました。ようやくカナン地方のヘブロンの家に帰り、お兄さんたちは父ヤコブにすべてのことを報告します。シメオンをエジプトに残してきたことを父親に語るのは、どんなに辛い、胸の痛むことだったでしょうか。報告を聞きながら、父ヤコブの顔は苦しみと悲しみに歪んできます。そのような中で、唯一慰めといえることは、十分な穀物を持って帰ってくることができたということでありました。しかし、めいめいが穀物の袋をあけてみると、なんとすべての袋の中に、代金として支払ったはずの銀が戻されていることに気づきます。これはいったいどういうことなのか。何かの手違いが起きたのか。それとも、やはり誰かが自分たちを陥れようとして仕組んだのか。彼らはまたもや恐怖に襲われるのでした。父ヤコブもまた、すべての報告をきき、また袋に戻されていた銀を見て、「みんなわたしを苦しめることばかりだ」と嘆いたのでした。

 「みんな、わたしを苦しめることばかりだ」

 このヤコブの言葉が、42章でヤコブとその息子たちが体験したすべてを物語っています。最初は、飢饉です。そして、エジプトで間者の容疑をかけられ、厳しい取り調べを受けます。牢屋にもいれられました。三日目に釈放され、穀物をもって家に帰ることをゆるされますが、シメオンを人質にとられました。お父さんが失ったヨセフに対する思いをも重ねてかわいがっている弟ベニヤミンをエジプトに連れてくるという重いを課題を負わされました。また支払ったはずの銀が穀物の袋に戻されているということもありました。お父さんの嘆き悲しむ姿を目の当たりする苦しみも味わいました。

 どうして、こういう苦しみがヤコブ一家を襲うことになったのでしょうか。彼らはこう解釈します。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ」「あの子の血の報いを受けているのだ」と。彼らの気持ちはよくわかります。私達も悪いことが起こると、罰を受けているのだと思うことがないでしょうか。しかし、聖書的にいうと、そういう私達の考えは正しいのでしょうか。

 今日、私は「罪は熟して死を生み出す」という説教題をつけました。ヤコブ書にこう書いてあるのです。

 人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(1:14-15)

 ここには、罪というものがどのように引きおこされ、どのような結果を招くのかということが実に端的に記されています。罪をもたらすのは、自分自身の欲望です。そして、罪の結果は死であります。これは肉体的な死だけではなく、「みんな、わたしを苦しめることばかりだ」というような絶望、虚無感をもたらす精神的な死ということも意味しているでありましょう。しかし、ご注意いただきたいことは、罪に対する罰としてそのような死や苦しみが神によって与えられるのではないのです。罪そのものがもっている悪い力が熟して、自ずと私達にそのような害悪を、つまり死をもたらすことになるのだというわけです。

 さらに、私は、罪のもたらす最大の害悪は何かということを考えさせられます。それは、神の恵みが見えなくなるということではないでしょうか。ヨセフ物語がこの後どのように展開していくのかということを知っている私達からみますと、彼らがここで経験していることは、単なる災いではなく、救いへの道なのです。ヨセフがお兄さんたちを問い質して苦しめたのは、真の和解を得るためでした。袋の中に銀がはいっていたのは、ヨセフのお兄さんたちへの愛情の表れでした。しかし、彼らはそういうことがまったく見えなくなってしまっているのです。そして、「ああ、私達は罪のせいで罰を受けているのだ」と恐れるばかりになってしまったのです。

 私達も罪人です。私達の犯した罪は、私達に悪い影響を及ぼします。しかし、神様は、そのような中から私達を救おうとしてくださっている方だということ思い起こす者でありたい思います。そして、自分の罪に気づき、悔い改めて、神様の恵みに近づいていく者でありたいと願うのです。
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