ヨセフ物語 09
「人は自分の犯した罪に気づかなければならない」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 エフェソの信徒への手紙2章1-10節
旧約聖書 創世記42章1-17節
希望に生きる民であれ
 ヨセフがエジプトの宰相に任じられてから最初の七年は、ファラオの見た夢のとおり、エジプト中に大豊作が続きました。しかし、ヨセフはこれに浮かれることなく、この間に出来る限りの食糧をエジプト中に蓄えさせます。こうした七年の後、ついに来たるべきものが来ます。エジプトのみならず中近東一帯を深刻な飢饉が襲ったのであります。

 そうした中、ヘブロンに住んでいた父ヤコブの一家も食糧難に陥ります。後に、ヤコブ一家はヨセフに招かれてエジプトに移住することになるのですが、その時、その数は孫たちの数も入れて七十人であったと書かれています。それに加えて使用人や家畜もいたことでありましょう。このような大家族であるヤコブ一家にとって、この飢饉は極めて深刻な事態をもたらすことになるのです。

 42章は、そのような生命の危機に瀕して、苛立ちを隠せないヤコブの言葉をもって始まります。

 「どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ」(1)

 「困った、困った」と嘆き合っているばかりで、少しも問題を具体的に解決しようとしないでいる、ということでありましょう。そんな不甲斐ない息子たちに、父ヤコブは苛立ちを隠せず、ハッパをかけたのです。

 「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」(2節)

 エジプトには穀物がある。この福音は、息子達の耳にも届いていたはずであります。「それがわかっていながら、どうしてエジプトに行かないのか」と、父ヤコブは叱りつけるのであります。彼らがなかなかエジプトに行こうとしなかったのは、その道が口で言うほどたやすいものでなかったからでありましょう。しかし、父ヤコブは、絶望のなかに留まり続けてはいけない、希望があるならば希望に向かって生きるべきではないか、といったのでありました。

 「穀物」という言葉を「希望」という言葉に置き換えて、ヤコブの言葉を、もう一度読み直してみてください。そうすれば、ヤコブが言わんとしていることの意味を悟ることができるでしょう。

 「エジプトには希望があるというではないか。エジプトへ下って行って希望を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができる」

 ヤコブが「穀物を買ってこい」と言ったのは、「希望を買ってこい」という意味なのです。希望というのは、絶望のなかに座り込んで、指をくわえて見ているだけのものではない。そこに出かけていき、代価を払って、手に入れるものだということなのです。

 信仰生活はウィンドウ・ショッピングを楽しむ生活ではありません。どんなにすばらしいものを窓越しに眺めていても、代価を払わない限り自分のものにはなりません。私達に与えられている希望、私達に与えられている福音もそうです。見ているだけ、聞いているだけで、絶望のなかから立ち上がり、歩き出そうとしなければ、それは自分のものにならないのです。

 言うまでもありませんが、代価を払うということは、お金を払うということでありません。お金があっても、エジプトに行かなくては、穀物を手に入れることはできないのです。一番大切なことはお金ではなく、エジプトに行くということでありましょう。たとえ困難な道であろうと、不安や恐れが胸の中にわだかまっていようとも、勇気を出して、希望に向かって歩き始めるということであります。

 もう一言、付け加えさえていただきますと、ヤコブは「そうすれば、我々は死なずに生き延びるではないか」と言いました。とはいえ、人間はいつまでも生きていられるわけではありません。いつかはお迎えがきます。ヤコブは、そういう運命に逆らって生きよ、と言っているのではありません。私達にとって、迎えに来るのはイエス様なのですから、その日は私達に悲しい日ではなく、喜びの日となることでありましょう。だからといって、私達は、もう死んでもいいなどということを、簡単に口にするものではないのです。

 なぜなら、繰り返しますが、信仰に生きるということは、希望に向かって生きることだからです。たとえ死ぬことがあるにしても、絶望のなかに留まって死ぬのではなく、希望をもって死ぬべきなのです。それが、ヤコブの祖父であるアブラハムの信仰でありました。ヤコブは、それを息子達に伝えようとしているのであります。そして、私達にも伝えようとしているのであります。「アブラハムの子なら、希望に生きる民であれ」と、信仰者の生き方を教えているのです。
信仰へ踏み出すこと
 ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄弟たちは、こうした父ヤコブの叱咤激励を受けて、ようやく重い腰を上げ、エジプトに旅立ちました。

 ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。何か不幸なことが彼の身に起こるといけないと思ったからであった。イスラエルの息子たちは、他の人々に混じって穀物を買いに出かけた。カナン地方にも飢饉が襲っていたからである。(4-5節)

 ここには二つの事が言われています。一つは、ヤコブがベニヤミンをエジプトに行かせなかったことです。もう一つは、エジプトに向かう街道には、ヤコブの息子たちだけではなく、穀物を買いに行こうとする他の大勢の人がいたということであります。

 まず、ベニヤミンを同行させなかったということでありますが、この点についてはヤコブの信仰に筋が通っていないと言わざるを得ません。ベニヤミンは、ヨセフと同様、ヤコブの最愛の妻ラケルの生んだ子でありました。ヨセフとベニヤミン、この二人だけが、ラケルの子だったのです。ヤコブは、ヨセフを失った今、このベニヤミンだけは失いたくないという強い思いに囚われていました。他の息子たちには危険であろうが何であろうが行ってこいと叱り、ベニヤミンだけは危ないから行かせたくないというのは、まったく筋が通らない話ではありませんか。このようにヤコブの信仰、ヤコブの父親としての愛、もっといえば人間性には、大いに欠陥があったと言わざるを得ないでありましょう、

 しかし、そうだとしても、ヤコブが息子たちを激しましてエジプトに行かせたということは、ヤコブ一家の救いへの第一歩になったのでありました。もちろん、そのためにはヤコブ自身も代価を払うことになります。二度目のエジプト行きの時に、今度は逆に息子たちに説得されて、ヤコブはベニヤミンをエジプトに行かせることになったのでした。そうしなければ、穀物を手に入れることができなかったからです。そういうことを考えてみますと、ヤコブと息子たちはお互いに弱く、欠けに満ちたる人間でありますが、その足りないところをお互いに励まし合って、信仰の道を歩んでいたのだということが分かるのです。

 私達もまた、お互いに欠けに満ちた人間であります。牧師であろうが、役員であろうが、信仰歴が何十年であろうが、そのことに変わりがありません。しかし、それでも互いに励まし合うことには大きな意味があるのです。

 自分のように欠けたる人間には他人を励ます資格などないという理屈もあるかもしれませんけれども、そんなことを言い出したら誰にもそんな資格はなくなってしまいます。そうではなく、私達は弱い人間であるからこそ、互いに励まし合うことが大切なのではありませんでしょうか。たとえ完璧ではなくても、部分的には真理を示し、有益な忠告や、励ましを与えることができるのです。どうか謙遜さを失わずに、なおかつ互いに良い影響を与え合いたいものだと思うのです。

 それから、エジプトにむかう街道には多くの人が溢れていたという話があります。それは、エジプト行きにいろいろと不安や恐れを抱えていたヤコブの息子たちでありますが、いざ旅立ってみると、同じような人がたくさんいて、たがいに助け合うことができ、思ったほどエジプトへの旅は危険ではなかったということが言いたいのではないかと思います。

 私達の信仰生活でも同じことが言えます。神様の救いは、信仰をもって歩み出さなければ見えてきません。ですから、信仰をもって踏み出す前が一番不安なのです。だからといって、躊躇していたら、ずっと絶望と恐れの中に留まり続けることになります。大切なのは、恐れや不安を抱えながらでも、勇気をもって一歩を踏み出すことなのです。そうすれば、その信仰に伴う神の恵みを、私達も体験することになるに違いありません。
アイデンティティー・クライシス
 さて、こうしてヨセフの兄弟達は無事にエジプトに着きました。他方、ヨセフはエジプトの宰相の身でありながら、驚くべき事に直接市場に出て、穀物の販売現場の監督をしていたと書かれています。

 考えてみますと飢饉における穀物市場の管理というのは国家における非常に高度な正義感と倫理観、そして防衛力を必要としています。たとえば、金持ちは財力にまかせて穀物を買い占めようとするでしょう。しかし、それを許したら、必ず貧しい農民たちに穀物が行き渡らなくなります。そして、穀物が有り余っているのに大勢の餓死者が出ることになるのです。また外国から穀物倉庫を狙った襲撃がないとも限りません。そのためにはきっと軍隊もかり出されていたと思います。そういうことまで想像力を巡らしますと、エジプトの宰相であるヨセフ自らが市場を見回るということは決して不思議なことではありません。そのぐらい厳しく隙のない目をもっていないと、飢饉のときの市場の安全や正義が損なわれてしまう危険があったのです。市場の管理、それは国家の存亡がかかった重要事だったのです。

 そこで、ヨセフが市場の様子を見回っているところに、ちょうどヤコブの息子たち、つまりヨセフの兄弟たちが穀物を買いに現れたのでありました。驚くべき偶然ですが、すべてのことは神様の御手の中で起こっているのだと考えますと、それは単なる偶然ではなく、神様のご準備なさったことであった言えます。

 彼らがエジプトの宰相に敬意を表するために、それがヨセフだとは知らずに近づいてきて、ヨセフの前でひれ伏しました。それは外国人にも惜しみなく穀物を分けてくれるエジプトに対する心からなる敬意であったでありましょう。この時、ヨセフの方ではすぐにお兄さんたちであることに気づいたと書かれています。しかし、ヨセフはそれを隠すのです。

 ヨセフは一目で兄たちだと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、「お前たちは、どこからやって来たのか」と問いかけた。彼らは答えた。「食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。」ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。7-8節

 どうしてお兄さんたちはヨセフに気づかなかったのか? これについてはあまり説明を必要としないでありましょう。何しろ二十五年ぶりの再会のであります。彼らが知っているのは十七歳の甘えん坊のヨセフでありました。しかし、目の前にいるのは四十歳を過ぎ、毅然とした風格の備わったエジプトの宰相なのです。

 むしろ、考えさせられるのは、どうしてヨセフがすぐに自分の正体を明かさなかったのかということです。私は、ヨセフはお兄さんたちにどう接して良いのか、自分でも分からないほど混乱してしまったのだろうと思います。

 9節をみますと、「ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。」と書いてあります。これは単に「ああ、あの夢が今ここで実現しているのだなあ」と、感慨に浸ったという意味ではないだろうと思います。ヨセフの脳裏に、かつての記憶が生々しく蘇ってきたのです。自分を殺そうとしたお兄さんたちに恐ろしい顔、必死に助けを求めても顧みてくれなかった時に絶望と恐怖、その後、ヨセフが味わってきたあらゆる艱難辛苦の記憶が洪水のように溢れてきて、喜びと悲しみ、愛情と憎しみが入り交じった、非常に複雑な心境を作り出したのではないでしょうか。

 ヨセフの心の中には、「お久しぶりです、私はヨセフです」という気持ちがあったことでありましょう。しかし、とても素直にそれを言葉にすることができませんでした。代わりに、自分でも驚くほど荒々しい言葉がヨセフの口から飛び出すのです。

「お前たちは、どこからやって来たのか」(7節)

「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」(9節)


 思いもよらぬ言葉に、お兄さんたちは驚き、懸命に身の証しを立てようとします。ある説教者が、このことについて非常に的確な説明を加えています。「彼らは、実は今、自分たちが誰であるかを問われているのです。カナンを出る時の危機は生命の危機でしたが、今彼らが直面している危機は、彼ら自身が誰であるか、というアイデンティティー・クライシスなのです。今、彼らの人間存在の根本が問われているのです」(左近淑、『旧約聖書の学び・上』)

 このアイデンティティーとは何でしょうか。アイデンティティーは、英語の辞書をみますとか「自己同一性。存在証明。身元。正体。」という訳が載っています。要するに「自分は何者であるか」ということなのです。従って、アイデンティティー・クライシスというのは、「自分が何者であるか分からなくなってしまう」ということであります。

 自分が何者であるか分からなくなってしまう、なんていうことがあるのでしょうか? これについて、渡部昇一さんがたいへんわかりやすい話をしています。

 源平の戦いの頃は、「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。われこそはかしこくも清和天皇の皇子、貞純親王の流れを汲む源六条判官為義の八男為朝なり」といった具合にいい名乗ってから戦闘を始めたと言いますが、おもしろいことに、この名乗りがちゃんとしたアイデンティティーになっているのです。自分の先祖から説き起こして、父にいたり、自分はその子である、といったふうに、「自分がいかなる者であるか」を生物学的に、また社会的に明確に規定しているからです。この時、為朝の頭の中には、「自分とは何ぞや」といったことはほとんど問題にならなかったに違いありません。自分の父は源氏の棟梁為義であり、自分はその子であり、いま戦わんとしている、それだけで十分だったのです。・・・
 似たようなことは、つい最近までいろいろな場面でありました。「私はA社の社員である」と言えば、それだけで十分なので、A社の繁栄につながるように献身することが自己実現であり、生き甲斐であったのです。「私はB大学の学生である」と言えば、その先輩、後輩の流れの中に自分がいると感じ、例えば、大学のスポーツ観戦においても我を忘れて応援し、その熱狂の中で同化する自分に満足できたのです。
 また、「山内一豊の妻でございます」と言えば、「私は何であるか」という問いに対する答えがすべて含まれているのです。これはアメリカも同じことで、夫の名前のジョン・スミスの前にミセスをつけることで済んでいたのです。夫の成功が妻の自己実現であり、成功であり、生き甲斐であったのです。
 ところが、現代はそうではなくなってきています。つまり、アイデンティティー・クライシスの時代とは、「自分は何であるか」という問いに対して、簡単に「○○の子である」とか、「○○会社の社員である」とか、「○○の妻です」という答えでは満足できなくなった時代のことです。つまり、自分の外にある規範や体制と同一化することで、「自分は何であるか」「自分は何をする人か」を規定することを拒否する人が増えてきたのです。(渡部昇一、『人生観、歴史観を高める事典』)


 「自分が何者であるか」という自分を規定する規範や価値観が、自分は誰の子であるとか、誰の妻であるとか、どこどこの学校を出たとか、どういう会社に勤めているとか、そのように自分の外にある場合のことが書かれています。しかし、そういうものを自分で否定したり、何かによって奪われたり、壊されてたりしてしまった時に、アイデンティティー・クライシスということが起こるのだというのであります。

 このようなアイデンティティー・クライシスを経験するということは、人間が成熟するために必要なことだと思います。ヨセフも、そういうアイデンティティー・クライシスを経験して成長した人でありました。ある日突然、ヤコブの息子としての平和な生活が壊され、奪われてしまったのです。その後、ヨセフは奴隷になり、囚人になり、エジプトの宰相になります。そのように自分のアイデンティティーが上に下に、右に左にと揺るがされる経験を経て、自分はいったいぜんたい何者なのかということを問わざるを得なかったと思うのです。

 そして、自分が何人であるとか、どこに住んでいるとか、誰の子であるとか、どんな身分であるとか、そういうことに関わらず、自分が自分であり続けるために、「自分は何者なのか」という答えを自分の置かれている状況にではなく、自分の内面に求めていっただろうと思うのです。その結果として、ヨセフは奴隷であろうと、囚人であろうと、はたまたエジプト宰相になろうと、自分らしく生きるすべを得ることができたのではないでしょうか。

 さて、ヨセフに「あなたがたは誰なのか。スパイじゃないのか」と問われた兄弟達の話に戻りましょう。彼らは懸命に自分たちが何者であるかを説明しようとします。

 「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません。」(10-11節)

 「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」(13節)


 最初は、自分たちは食糧を買いに来ただけの人間であるとか、カナンに住むヤコブの息子であるとか、そういう外面的な身分証明を一生懸命に試みるのです。しかし、最後に彼らは「末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」ということを言います。「もう一人は失いました」とは、ヨセフのことであります。それは、彼らにとって一番ふれたくないことでありました。このことを思い出す度に、深い罪責感を覚え、苦しんできたのです。だから、出来るだけそのことを思い出さないように、ヨセフの名を口にしないようにして生きてきた二十五年間だったのではないでしょうか。しかし、自分が何者であるかということを問いつめられ、一生懸命に説明しているうちに、思い出したくない過去を思い出し、それをあらわにしてしまったのです。
自分の罪を知るということ
 私はそこに非常に大きな意味があると思います。実は、この二十五年間、彼らはヨセフに対して犯した罪に、ずっと苦しめられてきたのです。たとえ、ヨセフの名を口にしなくても、その記憶を心の奥底に封印していても、結局はヨセフに対して罪を犯した人間としてしか生きてこられなかったのです。そういう意味で、「おまえ達は何者か」と問われたときに、「私たちは、かつて弟を殺そうとし、弟を失ってしまった罪深い人間です。」というのが、一番正直で、正確な回答だっただろうと思うのです。

 ヨセフも、その言葉のなかに、「ああ、お兄さんたちも、お兄さんたちなり僕のことで悩み、苦しんでいたんだ」と、お兄さんたちの心の本当の姿の一端を見た思いがしたのでありましょう。ヨセフは、その気持ちを確かめるべく、お兄さんたちにこう言います。

 「お前たちは回し者だとわたしが言ったのは、そのことだ。その点について、お前たちを試すことにする。ファラオの命にかけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。もしそのとおりでなかったら、ファラオの命にかけて言う。お前たちは間違いなく回し者だ。」(14-16節)

 ヨセフは「お前たちを試す」と言葉を二度も繰り返しています。ヨセフがどれほどお兄さんたちの心を知りたがっていたかということが分かります。お兄さんたちが、ヨセフに対して犯した罪を心から後悔しているならば、私の心も救われ、お兄さんたちを許すことが出来る、そんな思いだったのではないでしょうか。

 さて、今日は、「人は自分の犯した罪に気づかなければならない」という説教題をつけました。私達の存在の一番根源にあるものは何か。聖書によれば、それは私達が罪人であるということであります。

 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。(『エフェソの信徒への手紙』2章1-3節)

 私達のなかにある罪こそが、私達の考え方、価値観、生き方のすべてを支配しているのだというのであります。しかし、イエス様がそこから私達を救ってくださった。イエス様の救いというのは、まさに罪から救いなのだということが、続けて言われています。

 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(『エフェソの信徒への手紙』2章4-6節)

 私達には、罪から救いが必要なのです。しかし、必ずしも皆がそのように思っているわけではありません。自分が罪人であることを認めない人、その現実に目を注ごうとしない人は、私に必要なのは、罪からの救いではなく、自分の夢を実現させることであり、目の前の困難な問題が消えてなくなることだと思っているのです。そういう人は、結局、自分の問題がどこにあるのかということを知らないまま、従って根本問題を解決し、本当の自分の姿を取り戻すことができなくまま、人生を終えてしまうことになります。

 しかし、もし私達が、自分が罪人であるということに気づき、心から悔い改めることができるならば、私達は、自分の罪を深く悲しむと同時に、イエス様の御救いのありがたさを味わうことになるでしょう。神様の救いを知り、それに与るためには、どうしても、自分の罪に気づくということなのです。
目次

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