ヨセフ物語 07
「解き明かしは神のなさることである」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書8章14-21節
旧約聖書 創世記41章1-52節
ファラオの夢
 ファラオが夢を見ました。七頭の、良く肥えたつややかな雌牛がナイル川からあがってきて、葦辺の草を食べ始めます。すると、今度はやせ細った、醜い、七頭の雌牛が川から上がってきて、最初のよく肥えた雌牛たちを全部食い尽くしてしまったという夢でした。ファラオは、そこでいったん目が覚めますが、そのままもう一度眠りにつきます。すると、また夢を見ました。今度はよく実がつまって太っている七つの穂が現れます。その後から、実が入っていない干からびた七つの穂が生えてきました。そして、最初の実の入った穂を全部呑み込んでしまった、という夢でした。

 朝、目を覚ましたファラオは、嫌な夢だなと思います。胸のあたりで得体の知れない不安がざわざわと騒ぎます。ファラオは、エジプト中の賢者、魔術師を宮廷に呼び集めました。それは当時の世界において最高水準の知恵と知識をもった人たちであります。ファラオは、彼らに自分の見た夢の話をしました。いろいろな人が、いろいろな意見を述べました。しかし、ファラオの不安を晴らすことできる真の賢者と言える人は、一人もいませんでした。

 ファラオは夢のせいでイライラし、ふさぎ込み、おびえていました。そんなファラオの傍らでワインを注ぎながら、給仕長は二年前の自分の体験を思い出します。何がどのようにファラオの気に障ったのか、自分でもよく分からないまま料理長と一緒に牢屋に入れられた時のことでした。給仕長はそこで夢をみました。料理長にそのことを話すと、驚くべきことに彼もまた似たような夢をみたというのです。二人は夢の意味が気にかかり、共にふさぎ込んでいました。そこにヘブライ人のヨセフという若い囚人が現れ、「お加減が優れないようですが、どうしたのですか」と、親切そうに声をかけてくれたのでした。そこで二人はヨセフに夢の話をしました。すると、ヨセフはそれぞれの夢を解き明かし、まさしくヨセフの解き明かしの通りに給仕長は復職し、料理長は処刑されてしまったのでした。

 給仕長はまた、あの時、ヨセフが「あなたが復職なさったときには、ぜひ私のことを思い出して、執り成しをしてください。私はさらわれてエジプトに連れてこられたのですし、牢に入れられるような悪いこともしていないのです。」と言っていたことを思い起こしたに違いありません。大きな恩を受けながら、給仕長は二年もヨセフとの約束を忘れていたのです。

 給仕長はヨセフのことをファラオに申し出ます。ファラオはさっそくヨセフを牢から呼び出しました。牢から出されたヨセフはまず散髪をし、服も着替え、身なりを整えたと書かれています。ずいぶん細かい話をもらさず書かれているなと思われるかもしれません。しかし、牢に入れられて何年が経っていたのかは分かりませんが、少なくとも五、六年はいたと思われます。その間、ヨセフの髪も、髭も伸び放題で、服だって一度も着替えたことはありませんでした。風呂にだって満足に入れてもらえなかったでありましょう。そんなヨセフにとって、散髪をし、服を着替えさせてもらうとうことは、決して小さなことではありませんでした。それだけで、生まれ変わった心地がすることだったのです。

 さて、ヨセフが連れてこられると、ファラオはおもむろに「お前は夢を解くことができるそうだな」と話しかけました。ヨセフは臆することなく、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えます。実は、この言葉のなかにこそ、夢を解き明かすヨセフの秘密があります。そして、それこそ今日、私達が学びたいことです。しかし、そのことについて後でお話ししましょう。今はもう少し、このままストーリーを追ってみたいと思います。

 ファラオはヨセフに自分の見た夢の話をしました。聖書を読んでいますと、ここでまたファラオの夢の話が繰り返されていますので、ちょっとくどいように思われるかもしれません。けれども、そこにも意味があります。1-7節に書かれているのは、ファラオの夢が客観的に記されていました。しかし、そのことが、今度はファラオの口を通して語られることによって、ファラオがどんなに風のこの夢を受け止めたか、ひいては夢によって神様がファラオに伝えようとされていたことが何かということが分かるのです。

 ファラオは「醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした」(4節)ことを、「あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない」(19節)と、主観を交え、非常に強調して、ヨセフに語ります。また、「確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。」(21節)と、驚きの大きさを隠しません。

 ヨセフはそのあたりを注意深く聞き取っています。「今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。」(29-31節)と、夢の意味を解き明かしたのでした。 
ヨセフの信仰
 ファラオを、ヨセフの話を聞きながら、これからもたらされるエジプトの大飢饉を想像し、恐怖に震えたことでありましょう。しかし、ヨセフは落ち着き払って、さらに話を続けます。それは夢の解き明かしではなく、夢をお与えになった神様の御心を解き明かすものでした。神様はエジプトを滅そうとして災いの預言しているのではなく、エジプトの救いを願い、災いから免れる道を示そうとして、この夢をお与え下さったのだというのです。

 このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう。(33-36節)

 ここには、ヨセフの人生を貫く信仰が現れています。

 一つは、神様は、どんな時にも、私達を救いに導こうとしてくださっているのだという信仰であります。ヨセフのこれまでの人生は、本当に思い掛けない不幸の連続でした。しかし、その中にも神様の愛と救いのご計画があるのだと信じ続けてきた、それがヨセフの信仰です。ですからヨセフは、まだ一言もファラオの夢を聞いていないとき、まず「それは、神がファラオの幸いについて告げておられるに違いありません」と言い切ったのです。そして、実際、その夢を聞いて、それが恐るべき大飢饉の訪れを告げるものであったとしても、このヨセフの信仰は揺らぎませんでした。神様が災いをもたらされることがあったとしても、私達が神様にいつでもお応えできる信仰を持ち続けるならば、必ず神の救いの御業が成し遂げられていくのだと、ヨセフは信じているのです。

 もう一つ、ヨセフの信仰は、神様の選びに対する信仰であります。エジプトが飢饉から救われるなら、世界中の国々がエジプトによって飢饉から救われることになる。そのために、神様はエジプトを選び、ファラオにこのことをお示し下さったのだという信仰であります。だから、神様の選びに答えて、持てる力と知恵を尽くして、飢饉に対処しなくてはいけないということなのです。

 もちろん、ヨセフは自分自身の人生についてもこのような信仰を持っていました。やがて、ヨセフはエジプトで兄弟たちと再会を果たします。その時、ヨセフは彼らにこういうことを言ったのです。

 わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。(45章4-8節)

 ヨセフが、神の救いを語るとき、自分一人の幸せを言っているのではありません。それだったら、どんな災いにも遭わないほうがいいに決まっています。けれども、神様の救いは「大いなる救い」です。その大いなる救いのご計画の中で、神様は、私だけではなく私の家族を、私の家族だけではなく一つの大いなる国エジプトを、それだけでもなく世界中の国々を飢饉から救おうとしてくださっている。そのためにこそ私の人生の苦難もあり、幸せもるのだと、ヨセフはこのような信仰に生きているのです。

 こういう信仰に立たないと、私達の人生も理解に苦しむことばかりではないでしょうか。神様は愛なのに、どうしてこんな苦しみが襲うのか。まじめに信仰生活をしているのに、どうして私ばかりがこんな目に遭うのか。自分一人の救いということを考えていたら、必ずそのような悩みに陥ってしまうのです。しかし、神様は大いなる救いのために、私達を選んでおられるのです。それは私達が救われることはもちろんですけれども、それだけではなく、私達をして家族や周囲の人々までも神様の愛の中に巻き込んでいくような救いなのです。

 さて、この後のことについては、前回、お話しをしたことでありますから、ごく簡単におはなししますが、ファラオは、ヨセフの知恵と、何よりも神様がヨセフと共におられることを認め、ヨセフをエジプトの宰相に任じました。「ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」(40節)とファラオに言わせしめるほどの最高の地位が、ヨセフに与えられたのであります。

 また、ヨセフには「ツァフェナト・パネア」というエジプト名が与えられました。その意味は「神は語り、神は生きる」という意味だそうです。これは、エジプトの救世主としてヨセフがエジプト中の人々から尊敬されたことを物語る話だと言って良いでありましょう。

 さらに、ヨセフは良家の娘アセナトを妻としてもらい、マナセとエフライムという二人の男子をもうけました。マナセという名前には、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」(51節)というヨセフの感謝の念が込められており、エフライムという名前には、「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」(52節)という感謝の念が込められていました。
解き明かしは神のなさること
 ところで、ヨセフがこのような平和な人生を取り戻すことができたのは、ヨセフがファラオの夢を解くことができたからであります。そして、ヨセフにそのようなチャンスを与えたのも、ヨセフが給仕長と料理長の夢を解いたからでありました。このように夢を解く力というものが、ヨセフの人生の一つの秘訣になっているのであります。いったい夢を解く力とは、どんな力なのでしょうか。

 そこでもう一度注目したいのが、16節のヨセフの言葉なのです。

 「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

 夢を解くのは「わたしではありません」と、ヨセフは語っています。「わたしではありません」とはどういうことでしょうか。それは、ヨセフがもっている特別な才能、特別な知識、あるいは霊能力のようなもので、夢の意味が分かるのではないのだ、ということです。

 では、何によって夢が解かれるというのでしょうか。ヨセフは「神がファラオの幸いについて告げられるのです」と言いました。「神、告げたまはん」。神が与え給う夢の意味を解くためには、神が告げておられることを聞くということだけが大切なのです。それは、人間がいくら頭をしぼって分かることではないのです。特別な才能があれば分かるということでもないのです。大切なことは、神に聞くということです。ただこの一点において、ヨセフはエジプト中の賢者たちに勝り、魔術師たちに勝る人でありました。ヨセフに何か力があったとすれば、それは生ける神の言葉を聞く信仰の力なのです。

 神の言葉を聞くといっても、耳から、あるいは心の中に神様の声が聞こえてくるわけではないのです。そういう経験をなさった方の話も聞いたことがありますが、それは特別な聖霊体験でありましょう。いつも、その声が聞こえてくるわけではないのです。では、神の言葉を聞くとはどういうことなのでしょうか。

 『マタイによる福音書』8章には、ちょっとおもしろい弟子たちのエピソードが書かれております。イエス様と弟子たちが船にのってガリラヤ湖の向こう岸にわたっておられるとき、イエス様が「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と、弟子たちを教えられます。パン種というのは一つの比喩でありまして、彼らもなかなか良いことをいうではないかとなんて安易に耳を傾けていると、だんだん大きな影響をもち初めて、彼らの悪い教えに毒されるようになるよ、という警告であります。

 ところが、弟子たちはまったく見当違いな聞き方をしてしまいます。というのは、彼らはパンをもってくるのを忘れて、それを「しまった」とずっと気にしていたようです。パン一つの持ち合わせしかなかったと書いてあります。そこにイエス様がパン種の話をなさったものだから、てっきり叱られたのだと思って、弟子たちの間でパンについての議論が始まったのです。議論といっても、誰が悪いとか、一つのパンをどうやってわけようかとか、どこかでパンを調達する方法はないかなど、その程度のいざこざであります。

 それに気づいたイエス様は、あきれて弟子たちをこのように叱ります。

 「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。(マルコ8:19-21)

 弟子たちは、五つのパンが五千人の男たちの空腹を満たした奇跡を体験しました。七つのパンが四千人の男たちの空腹を満たした奇跡も体験しました。それなのに、パンが一つしかないからどうしようかと言っている。いったい、あなたがあの奇跡で何を見たのか? 何を体験したのか? 神様があそこであなたたちに語っておられたことを聞いていなかったのか? イエス様は、このように弟子たちの鈍さを叱っているのでありました。

 神の言葉を聞くとは、いかにも神の声らしきものを聞くということではありません。あるいは、いかにも不思議なことを見たり、経験したりすることでもありません。何を聞いたとしても、何を見たとしても、その経験したことを通して、神様の深い御旨を悟り、信仰をもって受け入れるのでなければ、結局は神の言葉を少しも聞いていないというあの弟子たちのような現実が起こってしまうのです。

 ヨセフに神の言葉を聞くことに長けた信仰があったということは、ヨセフがいつも何か特別な声を聞いていたということではありません。ただ、ヨセフは自分の見たこと、聞いたこと、体験したことのすべてを通して、神様の深い御旨を考え、悟り、それを受け止める信仰の訓練がよく出来ていたということなのです。

 それは、ヨセフの過ごした試煉の13年間によって培われたものに違いありません。お金もない、地位もない、家もない、家族もいない、友人もいない、この世のよすがを何も持たない人間として、ヨセフは13年間を生きていました。目に見えない神様だけがヨセフの拠り所だったのです。その中で、ヨセフはどれほど濃密な神との時間を過ごしたでしょうか。ポティファルの家でも、牢獄の中でも、ヨセフは神が自分を支えてくださっていることを感じていました。そして、どんな小さなことでも、神様をしてくださったことを喜び、感謝をしていたことでありましょう。あるいは、足かせ、首かせをつけられ奴隷とされた屈辱を味わったとき、ポティファルの妻からの誘惑に必死に抵抗するとき、あらぬ濡れ衣を着せられたとき、給仕長に忘れられたということを悟ったとき、数え切れない苦しみ、悲しみの中でも、ただ神様だけがヨセフの嘆きを受け止め、また慰めてくださるお方でした。

 イエス様は「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ8章47節)と言っておられます。神様の御心は、どんなに勉強しても、この世の経験を積んでも分かりません。ただ、神様と共に生きる者だけが、すべてのことの中に神様の愛と恵みの業を見いだし、神様の御心を悟ることができるのです。ヨセフはまさにそのような人だったのです。だからこそ、「わたしではありません。神がお告げになるのです。」と言えたのです。

 これは夢解きだけの問題ではありません。悩みの日、悲しみの日に、自分の人生が分からなくなってしまったようなときに、私達はこのヨセフの言葉と信仰を思い起こそうではなりませんか。すなわち、神が告げておられることを聞くということであります。神様は、いろいろなとき、いろいろな方法で、私達にご自分を現し、語りかけておられます。ただ、それは見ようとしなければ、見えないのです。聞こうとしなければ聞けないのです。たとえ目に映っていても、耳に入っていても、聞く耳を持たなければ、五つのパンが五千人の空腹を満たす奇跡を見ながら何の進歩もなく、パンを忘れたことでくよくよし、一つのパンを巡って諍いを起こし、イエス様に叱られた弟子たちのようなことになってしまうのです。

 どうぞ、神の言葉を聞くことができる者になりたいと思います。そのために、どんなときにも感謝と讃美と願いをもって、神さまと共に生きる者になろうではありませんか。
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