ヨセフ物語 06
「人は忘れても神は忘れない」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書12章4-7節
旧約聖書 創世記41章1-53節
一羽の雀さえ
 今日は「人は忘れるが、神は忘れない」という説教題をつけさせていただきました。昔、イスラエルの市場では貧しい人の食料として雀が売られていたそうであります。一銭で二羽(マタイ10:29)、二銭だせば五羽(ルカ12:6)の雀を買うことができました。つまり二銭の場合は一羽おまけしてくれたのです。「おまけの一羽」の価値は値段もつかないほどに低いものでした。しかし、イエス様は五羽の雀が二銭で売られているのをご覧になってこう言われたのであります。「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはありません」(ルカ12:6)と。神さまは一羽の雀すらお忘れになることはないのです。

 「神は忘れない」と言われているのは、憶えているというだけの意味ではありません。「空の鳥を見よ、蒔かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ」(マタイ6:26)。これもまたイエス様のお言葉です。「忘れない」というのは憶えているということではなくて、心にかけているということでもあるのです。そして、その生活のすべてのことに神が責任をもってくださるということなのです。

 イエス様はまた、このようにも言われました。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29) 「その一羽」とは市場で売られている雀であります。元気だった雀が、ある日突然、人間の手に捕らえられ、市場で売られる安い食肉となってしまう。こんな一羽の雀の運命にも、実は神さまの深い配慮があるのだというのであります。従って、雀は決して神さまに忘れられて死んでいくのではありません。運が悪くて死ぬのでもありません。人間の横暴によって命を奪われるのでもありません。たとえ、現実がそのようであったとしても、決してそれだけではなく、一羽の雀が生きることにも、死ぬことにも心をかけてくださる神さまの御心があったのだというのであります。

 愛する兄弟姉妹たち、そして主はこう言われました。「恐るるな。汝らは多くの雀よりも優るるなり」(ルカ12:7)と。たとえば、私達の人生に何か思い掛けないような出来事が起こり、私達の運命が地に落ちてしまったと思えるときがあるとします。そのようなときにも、神さまは決して私達をお忘れになっているのではないのです。神さまはなおも私達の天の父であり、保護者でいらっしゃいます。そして、すべてをご承知くださっています。私達がどんなに大切なものを失ったのか。どんなに大きな苦しみや悲しみを味わっているのか。どんなに大きな不安に苛まされ、途方に暮れ、孤独にうちふるえているか。神さまは父の愛をもって、それらのことを知っていてくださるのです。その上で、敢えて隠された深い御心をもって私達にそれを与えておられるのです。

 私達が学んでいるヨセフの運命とは、まさにそのようなものでありました。兄弟たちに野に捨てられ、ミディアン人たちによってさらわれ、イシュマエル人たちによって買い取られ、足かせ、首かせをつけられて遙かな地エジプトまで連れて行かれ、そこでファラオの侍従長の家の奴隷となり、まじめに働いていたにもかかわらず女の主人から濡れ衣を着せられ、暗い牢の中に投げ込まれました。しかし、御言葉は、転落の一途を辿るこのようなヨセフの人生も、決して神に忘れられていたのではないのだと語っています。常に主はヨセフと共におられ、天の父としてヨセフの一切に心をかけ、配慮し、導いてこられたのだと言うのであります。
信仰とは何か
 私達は、ヨセフの人生においてそのことを認めるだけではなく、私達自身の人生において、そのことを信じ、認め、神さまを讃美する人間にならなければなりません。しかし、聖書のように文字によって神さまのご臨在がはっきりと描かれ、示されているならばいざ知らず、現実の自分自身の人生を眺めてみますと、いったいどこに神さまが居ますのか? 悪いことばかりが続くし、何をやってもうまくいかなし、祈ってもさっぱり聞かれない。ヨセフの人生に神はおられても、私の人生には神はおられないのではないかと、恐れ、不安になる事もあるのであります。そのような人生において、神のご臨在を認めるとはいったいどういうことなのでしょうか。別の言葉で言えば、信仰を持つとは、いったいどういうことなのでしょうか。

 作家・五木寛之さんの代表作に「生きるヒント」というエッセイ集があります。五木さんは仏教、特に浄土真宗、親鸞に深く帰依しておられる方で、そういうことを文章の中でもたびたびお話しになっているのですが、宗教的な生き方という面では共感する部分も少なくありません。その中で、次のような一文を皆さんにご紹介したいと思います。

 「ちょっと考えてみると誰でもわかることですが、私たちは自分ひとりの力で生きているわけではありません。私たちが生きていく上には、さまざまなものが必要です。
 太陽の熱、そして光、空気、水
 また植物や他の生き物たち。
 体をあたためるために石油を燃やしたり、他の生物を栄養としてとりこんだりもします。
 それだけではありません。
 人間は家族とか友人とか、また仕事とか、社会とか、そういったなかに生きているわけですから、まったくひとりぼっちで生活していくわけにはいきません。
 生きている、ということは、とりもなおさず、他から生かされている、ということでもあります。
 そしてまた、どんな人間の知恵や科学の理論が進んだところで、宇宙全体の目的や、不思議な人間の心のすみずみまで解き明かすことはできないでしょう。
 なにか目に見えない大きなものがある。そして、その大きな生命の流れに乗って、私たちは動いていく。
 こんなふうに考えてみたらどうでしょうか。
 一艘のヨットがある。ヨットが波をきって進むためには、風が吹かなければ不可能です。帆に風をいっぱい受けてヨットは走る。まったくの無風状態では立ち往生するしかありません。
 しかし、風が吹いてきたときにヨットが動くためには、帆を張っていつでも動けるように風を待っていなければならないのです。しかし、いくら帆を張って待っていても、風が吹かなければヨットは動かない。しかし、風が吹いているだけでもだめ。
 そう考えると、私たちは何らかの形で、風という大きな力をじっと待ちながら、自分なりの帆を張ることを忘れてはならないのです。
 帆をあげておくということがどんなことか、それはうまくいえません。
 しかしたとえば、自分なりの夢を心の中にしっかりと持ちつづけている、ということも、ひょっとすると帆をあげていることになるのではないでしょうか。」(五木寛之、「夢見る」、『生きるヒント』、角川書店)

 生きているとは、生かされていること。自分ひとりの力ではない。何か大きなものがある。その生命の流れに乗って、私たちは動いている。これは、親鸞の他力本願の思想からくる人生観であります。「その生命の流れに乗って」という言葉に、仏教的な特徴が表れていると言ってもよいでありましょう。仏教では、すべての命が一つにつながっているのであります。五木さんがいうのは、その一つにつながった大きな命のうねりの中に、自分の命も包まれているのだということでありましょう。私たちの信仰からすれば、「何か大きなもの」というのは、人格的な存在としての「神」です。その点は大きな違いあるのですが、人生は自分で切り開くとか、自分でがんばるというだけではなく、身を任せて生きることが必要だという点においては共感するものがあるのです。

 信仰とは何か。私は「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」(ルカによる福音書1:38)というマリアの言葉に、その本質があると思います。みなさんもよくご存じのように、これは受胎告知と言われる場面でのことであります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと友におられる。あなたは身ごもって男の子を産む」と、天使ガブリエルはマリアの幸せを告げました。しかし、マリアは戸惑います。最初に心に浮かんだのは、そんなことはあり得ないということでした。まだ男性を知らない女性が妊娠するなどということは、まったく非現実的な話なのです。次に心に浮かぶのは婚約者ヨセフのこと、また世間の目のことです。たとえ妊娠したとして、婚約者ヨセフにどうしたら理解してもらえるのか。世間をどのように納得させたらいいのか。天使は「おめでとう。あなたは恵まれた方です」と言いますが、マリアにとっては信じられない話であり、はた迷惑な話でもあり、大きな不安と恐れを抱え込む話だったのです。

 しかし最終的に、マリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」(ルカによる福音書1:38)と答えたのでした。天使ガブリエルが「神にはできないことはない」と言ったからです。マリアは、神さまがすべてをしてくださるのだということに、自分の人生をかけました。ヨセフとの関係がどうなるのか? 世間の目はどうなのか? 神の子の母となるとはどいうことなのか? 自分につとまることなのか? どうして私なのか? 考え出したら、恐れ、不安、疑問はつきることがありません。しかし、自分が納得するまで前に進まないというのではなく、何も分からなくても、神さまのなさることにアーメンと唱え、自分をゆだねますと告白したのです。

 五木寛之さんの「ヨットのたとえ」がわかりやすいと思うのです。人生というヨットは風を受けなくては進まない。しかし、風が吹くだけでは駄目で、風を受け止める自分なりの帆をはることが必要だと言います。五木さんは、控え目に「帆をあげておくということがどんなことか、それはうまくいえません。しかしたとえば、自分なりの夢を心の中にしっかりと持ちつづけている、ということも、ひょっとすると帆をあげていることになるのではないでしょうか。」と言いますが、たとえ風が吹いていないときにも自分なりの夢を持ち、希望を持ち続けろと言いたいのでありましょう。あきらめて、帆を下ろしてしまったら、風が吹いても前に進むことができなくなってしまうからです。

 「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」(ルカによる福音書1:38)というマリアの信仰は、まさに、何が起こるのか、起こらないのか、知る由もないけれども、私はいつでも、どんなことでも、神さまのなさることにアーメンと言いますよと、そのように神さまの風、つまり私達の人生に対するお働きを受け止める信仰の帆を張ったことだと思うのです。そうすると、神さまの働きを受けて私達の人生が進み出すのです。思わぬところに行くかもしれませんが、それもまた神さまの深い御心のなせることだと受け入れて歩んでいきますと、いつの日にかきっと、「ああ、神さまは御心はここにあったのだ。見捨てられたのではないか、忘れられたのではないかと思うときもあったけれども、やはり神さまは愛であった、人生の祝福であった」ということが分かるようになるのであります。かならず、そういうときが来ます。
忘れることができる恵み
 さて、ヨセフの話であります。ヨセフにも、いよいよその時がきます。もちろん、まだすべての神さまのご計画が実現するわけではありませんが、少なくとも今までの苦しみから解き放たれる日が来たのであります。ヨセフは牢屋での生活から解放され、ファラオに次ぐ地位である宰相に任じられました。また、良家の子女をお嫁さんにもらい、エジプト貴族の一員にもなりることができました。

 ファラオはヨセフに向かって、「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。」ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ。(41:41-45)

 ヨセフがこのような出世を遂げることになったのは、一つには彼がファラオの夢を見事に解きあかしたということがあります。しかし、それ以上に重要なこととして、神さまが夢によって示されたことにたいして、それでは今後我々はどうしたらよいのかという知恵をファラオに示すことができたということがあります。ヨセフが出世する直接のきっかけとなったファラオの夢解きの話は、次回にとっておきたいと思います。今日は、そういうヨセフの働きがあったにせよ、それだけでヨセフの運命が変わったということではなく、ヨセフの人生の背後に神様の大いなる計画があったということに心を留めたいと思うのです。

 飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた。この子供を産んだのは、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトである。ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」また、次男をエフライム(増やす)と名付けて言った。「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」(50-52)

 ヨセフに二人の男の子が生まれたと書かれています。ヨセフは、長男マナセが生まれた慰めの日に、「神が、わたしの労苦と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」とその喜びを表しました。また、次男エフライムが生まれた日に、「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」と喜びを表しました。ヨセフのこの告白が、かえってこれまでのヨセフの辛さがどんなに大きなものであったかということを思い起こさせます。しかし、神様はその苦しみを忘れさせてくださり、悩みの地を祝福の地に変えてくださったというのです。

 特に、「神が、わたしの労苦と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」ということについて考えてみたいと思います。人間には嫌なことを忘れることができる恵みというものがあるのです。

 私は、若いとき「忘れることができない苦しみ」を味わいました。自分の失敗、他人を傷つけたり、欺いたりした罪が、絶えず私の心を苦しめました。また他人が自分に対してしでかしたこと、またしてくれなかったことに対する恨み辛み、怒りも忘れることできず、自分を苦しめました。私は自分に対しても、人に対しても、激しく怒り、絶望していたのです。しかし、「その一羽さえお忘れになるようなことはない」というと主の愛を知った時、私はこれらのことをすべて忘れることができました。どんなことも主が心にかけてくださっている。そして、主が御手の中で万事を良きに変えてくださるのだと思えることによって、私はすべてを自分の心から手離し、主にお任せすることができたのです。

 「人は忘れるが、神は忘れない」というのは、人は大事なことを忘れてしまうけれども、神様はどんな小さなことも忘れないでいてくださるという意味でもあります。たとえば、牢屋の中で、ヨセフに夢を解き明かしてもらい、実際に罪から解放されたファラオの給仕長は、ヨセフから受けた恩をすっかりわすれてしまいました。二年もの間、思い出すことはありませんでした。このことによって、ヨセフはどんなに辛い二年を送ったことでしょうか。期待した分だけ絶望も大きかったと思うのです。しかし、給仕長がヨセフのことを忘れても、神がヨセフのことを忘れたわけではありませんでした。ヨセフに対する神様のご計画は、ヨセフが牢屋で失意のうちに過ごしている二年間の間にもちゃくちゃくと進んでいたのであります。

 ただ、そのように神様が忘れないでいてくださるということが分かると、今度は忘れることができる恵みというものを味わうことができるのです。「忘れることができる恵み」には、二つのことがあります。ヨセフは「神が、わたしの労苦を忘れさせてくださった」と言いました。それは、神の慰めの日が訪れて、苦しみ、悲しみを忘れることができたということです。

 では、「父の家のことを忘れさせてくださった」とは、どういうことでしょうか。ヨセフにとって「父の家」は決して忘れられない、そして忘れたくない大切な場所でありました。いつの日にか、きっと帰ることができるという希望こそが心の支えであり、様々な苦しみにも耐えさせてきた魂の根源的な力だったと言えましょう。

 けれども、それはかなわぬ夢でありました。神様のヨセフに対するご計画の中に、生ける日のうちにヨセフが父の家に帰るということはなかったのであります。神様は、ヨセフが父ヤコブとも、兄弟たちとも再会を果たし、共に住む日が与えようとしておられました。しかし、それはエジプトにおいてだったからです。

 みなさん、このように神様のご計画と私達の願いが食い違うことがあります。その願いがどんなに正当性をもっており、切なるものであっても、祈りが願い通りに聞かれないことがあるのです。そのような時、私達の信仰は試されます。母マリアのように「御言葉のごとく我になれかし」と素直に言えないという思いにかられます。希望の火が消え、「どうしてですか、なぜですか」と神様に対する反抗心が頭をもたげてくるのが抑えられなくなります。

 私は、ヨセフの心の中にそのような反抗心が一度も起こらなかったとは考えられません。では、どのようにしてヨセフはその絶望が立ち直ったのでしょうか。ヨセフは「神が父の家のことを忘れさせてくださった」と言うのであります。それは、父の家のことなどもう懐かしくなくなったということではなく、神が、ヨセフの心に新しい希望を、新しい祈りを与えてくださったという意味ではないでしょうか。そして、かなわぬ夢に捕らわれ続けるのではなく、新しい希望、新しい祈りによって神の備え給う道をさらに前進できるようにしてくださったということだと思うのです。

 使徒パウロも、祈りがかなわなかったことがあります。「肉体の棘を取り除いてください」と祈り続けたにもかかわらず、その願いは退けられたのです。しかし、神様はその代わりに「我が恵み、汝に足れり」とのお言葉を与えてくださいました。それを聞いたパウロは、弱さの中にこそキリストが宿り、私の力、支えとなってくださるのだということを悟ります。そして、自分の弱さを抱えて生きることをマイナスとしてではなく、プラスとしてとらえることができるようになったのです。ヨセフの「神は父の家を忘れさせてくださった」という言葉には、パウロのそのような体験に通じるものがヨセフに与えられたということなのです。

 「人は忘れるが、神は忘れない」。ヨセフとの間にある恩と約束を忘れてしまった給仕長のように、私達はしばしば神様との間にある恩と約束を忘れて生きてしまうことがあります。しかし、神様は、私達のことを、そして私達に対する恵みと救いのご計画を必ず憶えていてくださるお方です。たとえ人に忘れられても、人に捨てられても、神様は私達を忘れたり、捨てたりなさることはないのです。ですから、どうぞ、神様が、私のことを心にかけていてくださるということを、どのような時も思い起こしてください。そして、そのことのゆえに、思い煩いをすべて神様にゆだね、神様の大いなる御力と愛の中の下に、「汝の御言葉のごとく、我に成れかし」と、自分を低くすることができますように、祈りたいと思います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp