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マティ・ステパネク君という11歳の少年が書いた『ハートソング』という詩集があります。CNN、ニューヨーク・タイムズなど、全米のあらゆるメディアが絶賛し、初版の200部がシリーズで200万部突破の大ベストセラーになりました。邦訳はPHP研究所から出されております。マティ君は生まれながらの筋ジストロフィーで、3歳の時から詩を書き始め、13歳で天に召されました。マティ君の詩には、まるで友人の一人であるかのようによく神様が登場します。その中で、彼が6歳の時に書いた「祈りのテスト パートU」という詩をご紹介したいと思います。
神さま
ママに聞きました。
マージーのお腹のなかにいた赤ちゃんが
昨日の夜、亡くなったと。
ぼくはおどろいて、怒りを感じました。
神さま、ぼくは祈りました。
毎晩、お祈りしました。
毎日、お祈りしました。
みんなで祈りました。
かわいい赤ちゃんが生きられるようにと。
亡くなったとママから聞いて
ぼくは言いました。
「お祈りは通じなかった
神さまは耳をかたむけてくれなかった
赤ちゃんにきせきをおこせなかった」と。
ママは答えました。
神さまはいつも私たちのお祈りに
耳をかたむけているけれど
望み通りにならないこともある
そういうときもあるの、と。
それに、祈りと望みはちがう、と。
その赤ちゃんはちいさな天使になって
天国に導かれたのなら
それもきせきなの、と。
毎日、たくさんのきせきが起きているんですね。
望みや願いとちがうから
ぼくたちはきづかないけれど。
神さまは
いつもぼくたちに
きせきを届けてくれる。
すべての祈りに
耳をかたむけてくれる。
そのことに感謝します。
赤ちゃんのことは
とても悲しいけれど。
神さまにおこったりはしません。
(『ホープ・スルー・ハートソング』)
マティ君は、お祈りが聞かれなかったことに、「ぼくはおどろいて、怒りを感じました」と言っています。でも、お母さんが、「神さまはお祈りを聞いてくださらなかったのではないよ。神さまはどんなお祈りも聞いてくださって、たくさんの奇跡を起こしてくださっているのだよ。でも、それはわたしたちの願いや望みのままというわけではないだけなのよ」と教えてくれたというのです。それでマティ君は、自分の願いや望みのことばかりを考えていたから、神さまがしてくださった奇跡に僕は気づかなかったのだということを知るのです。
「毎日、たくさんのきせきが起きているんですね。望みや願いとちがうから ぼくたちはきづかないけれど。神さまはいつもぼくたちにきせきを届けてくれる。すべての祈りに耳をかたむけてくれる。そのことに感謝します。」これは、何とすばらしい信仰でしょうか。そして、子供らしい言葉で、まるでお友達にお話しをするかのように、「赤ちゃんのことはとても悲しいけれど、神さまにおこったりはしません」と結んでいます。
みなさん、このマティ君の詩は、ヨセフ物語を理解する時にとても大きな助けになります。ヨセフは、40章15節で「牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです」と、同じ牢に入れられていたファラオの給仕長に訴えています。私は無実の罪で牢につながれているのだと、ヨセフの必死な叫びがここにあります。
ちょっと細かい話で恐縮ですが、興味深いことなので申し上げます。ここで「牢屋」と訳されている言葉は、37章に出てきた「穴」というまったく言葉と同じ言葉なのです。37章で、ヨセフは、やはり何も悪いことをしていないのに、異母兄弟のお兄さんたちによって深い穴に投げ込まれてしまいました。しかし、それはほんの始まりでありまして、そこからミディアン人の奴隷となり、次にイシュマエル人の奴隷となり、足かせ、首かせをつけられて、父の家から300キロも離れた異国の地エジプトまで歩かされ、ファラオの侍従長ポティファルに売られます。すると、今度はポティファルの奥さんから執拗な誘惑を受け、それをはねのけると、今度は讒言をもって無実の罪をきせられ、牢に入れられてしまう。このような、よく言っても「波瀾万丈」、悪く言えば穴から穴へと転げ落ちていく艱難辛苦の人生が始まったのでした。
しかし、そのような人生の中にありまして、ヨセフがこれまで一度も不幸を託つことがなかったというのは、本当に驚くべきことであります。もちろん、それはヨセフが少しも苦しまなかったということではありません。ヨセフはどれほど神さまの前で多くの涙を流して祈ってきたことでありましょうか。けれども、それにも関わらず、ヨセフの苦難に対する生き方を見ますと、とても前向きなのです。明るささえ感じるのです。
私は、無実の罪で牢に入れられたヨセフの物語を読みますと、必ずデュマの『モンテ・クリスト伯』を思い出すのです。正直で、まじめな青年エドモン・ダンテスは前途洋々たる人生を生きていました。しかし、彼の人生の成功を妬んだ友人たちの陰謀によって、突然、地中海の孤島にある恐ろしい監獄に入れられてしまうのです。その真っ暗な土牢の中で、エドモン・ダンテスは復讐心だけを心の支えにして堪え忍びます。
それに対してヨセフはどうでありましょうか。
主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。
ここを読みますと、なんだかヨセフの牢獄での生活がとっても素晴らしいものであるかのように勘違いをしてしまいそうになるのです。実際、ヨセフは心の中に「牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです」という気持ちを持ちながらも、不思議なほどに明るく快活に、そしてまじめに、誠実に生きていたのでありました。
どうして、そのような生き方ができるのでしょうか。それはヨセフもまた、マティ君と同じことを学び取っていたからではないでしょうか。「毎日、たくさんのきせきが起きているんですね。望みや願いとちがうから、ぼくたちはきづかないけれど、 神さまはいつもぼくたちにきせきを届けてくれる。すべての祈りに耳をかたむけてくれる。そのことに感謝します。」多くの人に愛され、祈られ、待ち望まれつつも、ついに産声を上げることなく死んでしまった赤ちゃんも、また生まれながらに筋ジストロフィーという重い病気を抱えている自分の人生も、実は神さまの大きな愛の中に包まれ、神さまの御業の中で生かされている。なかなかそのことに気づくことができないけれども、神さまは多くの愛で、奇跡で、私達を取り囲んでくださっているのだということを、彼は6歳にしてこのことを学び取ったのでした。
このような信仰あればこそ、マティ君も自分の人生を非常に前向き生き、自分のことだけではなく、家族や友人たち、また戦争で傷ついた人々のことや世界の平和にまで心を広げて生きることが出来たのであります。ヨセフもこのような信仰によって、捨て鉢にならない生き方、倦み疲れることない生き方、憎しみや復讐心にとらわれない生き方ができたのです。
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さて40章は、ヨセフが、同じ牢にいるファラオの給仕長と料理長の夢を解くというお話しであります。二人は同じ夜に、それぞれ夢をみました。給仕長の見た夢は、ぶどうの木に三本のつるがあり、それがみるみるうちに芽を出し、花が咲き、葡萄が熟します。給仕長は、その葡萄を取り、それをしぼってファラオの杯に注いだという夢でした。料理料が見た夢は、頭の上に三個の籠があり、ファラオのために整えたご馳走がそこに盛られていました。そして、鳥が籠の中のご馳走をつついているという夢でした。
ヨセフはそれぞれの夢を解き明かします。給仕長の夢は、三日後に元の職に復帰し、ファラオの給仕をすることができるという意味でした。料理長の夢は、三日後にファラオの前で斬首され、遺体を木にかけられることになるという意味でした。三日後というのは、実はファラオの誕生日であり、二人はヨセフが解き明かした夢のとおりになったというのです。
これだけを申しますと、それは給仕長、料理長の運命の話でありまして、ヨセフの人生に何の意味も、関わりもない出来事であったように思えます。しかし、実はそうではなく、このことがヨセフを牢獄から解放する端緒となったのであります。物事の端緒というのはどこにあるか分かりません。よく「何が幸いするか分からない」と言いますけれども、本当にその通りなのです。
しかし、それは偶然やってくるということでもないのです。39章23節には「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」とあります。このことからしますと、ヨセフの人生にご計画を持ち、それを導いておられる神さまが、この給仕長との出会いをヨセフに与えてくださったのだと言えるのであります。
ただし、それだけではありません。神さまのご計画、御業がヨセフの人生にあるということが何よりも大事なことでありますが、それに答えるヨセフの信仰、生き方ということも、私達は無視することができないのであります。「そっ啄同時」という言葉があります。「そつ」というのは、雛が卵から孵ろうとして内側から殻をつつくことです。「啄」とは母鶏が外から殻を噛み破ることです。このように内側と外側の働きが一致することを「そっ啄同時」と言います。神さまの恵みに生きるということもそうでありまして、神さまがしてくださることと、それをしっかりと受け止めようとする私達の信仰が一致するということが必要なのです。ヨセフと給仕長との出逢いを見ても、このようなそっ啄同時があったことが分かります。
これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。(40章1-3節)
ファラオの給仕長と料理長が、侍従長ポティファルの家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている牢獄に入れられたとあります。こういう巡り合わせというのは、ヨセフがどんなに努力をしても、善い業をしても、それで何とかなる話ではありません。神さまが恵みをもって、ヨセフに備えてくださらなければどうにもならないのです。
しかし、見落としてはならないのは、「これらのことの後で」と言う言葉です。それは牢獄でもヨセフが監守長の目にとまり、心にかけられるようなり、さらにヨセフを牢獄にいるすべての囚人たちの世話役に任じるようにまでなった、その後でということであります。ヨセフがそういう立場にいたからこそ、給仕長に出会う可能性も開けてきます。神さまは、そのような時を見計らって、給仕長と料理長をヨセフの牢獄に送ったということなのです。
そう考えますと、どんな境遇においても前向きに生き、人に仕えて、神さまに喜ばれる生き方をし続けるということには、とても大きな意味があること分かるのです。無実の罪を着せられて牢屋に入れられ、そこでいくら囚人たちの長に任じられても何もうれしくないと思いますが、そういう生き方がなければ神さまのヨセフに対するご計画は前に進まなかったからです。
次にこう記されています。
侍従長は彼らをヨセフに預け、身辺の世話をさせた。牢獄の中で幾日かが過ぎたが、監獄につながれていたエジプト王の給仕役と料理役は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた。
ファラオの給仕長と料理長は、ヨセフの手に預けられ、ヨセフが二人の世話をすることになりました。そして、二人はそれぞれ夢を見るのですが、こういうことはヨセフが努力のしようがないことでありまして、100パーセント神さまがご計画のうちに備えてくださったことなのです。しかし、その次の部分はどうでしょうか。
朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた。ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか。」「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。(4-9節)
ヨセフは、給仕長と料理長がふさぎ込んでいるのを見ました。牢屋に入れられているのですから、ふさぎ込んでいるのは当たり前だと思いますが、それでもヨセフは「どうしたのですか? 大丈夫ですか?」と訊ねます。さりげない言葉ですが、こういうことがさらりと言えるということが、ヨセフの生き方を反映しているのです。ヨセフだって相当不孝な状況にいるのです。そういう自分の人生を嘆くことで心が一杯になっている時には、なかなか他人の悩みや苦しみを思いやる優しい言葉はでてきません。出てくるのは、厳しい言葉、裁く言葉、そういう愛のない言葉ばかりなんですね。でも、そうだったら、給仕長はヨセフに自分の夢を話すことはなかったでしょう。ファラオの給仕長というのは、そうとう偉い身分の人だったはずです。そんな人が自分の夢をヨセフに話したのは、ヨセフの思いやりに満ちた優しい言葉があればこそなのです。
「情けは人のためならず」と言います。なんだから人への親切まで打算で考えているようで、あまり好きな言葉ではないのですが、私はヨセフの親切をそんな意味で言っているわけではないのです。ヨセフは打算的に親切にしたのではありません。しかし、どんな時にも神さまを信じ、神と人に仕える生き方をすることは、神さまのお喜びになることだということは思っていたでありましょう。
こうしてヨセフは、給仕長に、自分のことをファラオに執り成してくださいと嘆願する機会を得たのであります。
「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」(14-15節)
ヨセフはここぞとばかり、自分の不孝な境遇を訴え、無実を訴え、救いを求めました。それだけヨセフの中には苦しみがあったのです。あったけれども、神への信頼、感謝も忘れなかったということでありましょう。最初にご紹介しましたマティ君の詩の言葉でいれば、「とても悲しいけれど。神さまにおこったりはしません。」ということだと思うのです。
さて、これで晴れてヨセフは牢を出られることになったかということ、実はそうではありませんでした。23節にこう記されています。
ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。
なんということでありましょうか。給仕長は自分が幸せになると、ヨセフのことなどすっかり忘れてしまったというのです。ヨセフは期待した分だけ、落胆も大きかったことでありましょう。しかし、神さまは決してヨセフのことを忘れませんでした。なお二年の時を経なければなりませんでしたが、ヨセフは給仕長に思い出され、ファラオに呼び出されることになるのです。これは次回のお話しです。
今日は最後に、もう一つマティ君の詩を紹介したいと思います。実は、マティ君の筋ジストロフィーは、お母さんからの遺伝による病気でした。そのことが分かったのはマティ君が二歳の時、お母さんが筋ジストロフィーが発症した時です。それから、マティ君には一人のお姉さんと三人のお兄さんがいましたが、皆、筋ジストロフィーで幼くして亡くなりました。そのような境遇を小さな心で受け止めて、六歳のマティ君が書いた「また歩き出す」という詩です。
ママは以前、歩いていた。
でも、筋肉のどこかがマヒして
ビタミンが足りなくなり
歩けなくなった。
これはママがまた歩き出す詩。
ぼくはおぼえている。
ママが「高い高い」をしてくれたこと。
空を飛んでいるようだった。
ずっとずっと高いところ。
だけどママはもう
そのことができない。
それでぼくはママに
カードをプレゼントした。
ママがまた歩いて
ぼくに「高い高い」をしてくれる絵を描いて。
ぼくはママがだいすき。
ママがまた歩ければいいと思う。
この話は、これでおわらない
ここまでは、ほんのはじまり
序章。
ここからは、ぼくの作った物語
また歩き出す話。
ママがあるいていたことをおぼえている。
ジャミーやケイティ
スティーヴィー
みんなにまた会いたい。
ママにまた歩いてほしい。
また歩ければいい。
ぼくをふりまわして
行ったり来たり、上や下にお手玉のように。
鬼ごっこしてあそんだり
ブランコにのったりして。
歩いて、階段をのぼり
いろいろなところへ行く。
ママにまた歩いてほしい。
ママの筋肉を強くする
薬がみつかるといい。
はってでしか進めない人もいるけれど
天国では、また歩ける。
ぼくは、まだ歩けるけれど
ママといっしょに歩けるともっといい。
歩ける家族になりたい。
ぼくはママがだいすき
歩けなくてもすき。
ぼくは神さまがだいすき。
神さまもぼくたちを愛してくれる。
ぼくたちが歩けなくても。
ぼくはママがだいすきだから平気。
歩く物語が
ここでおわったとしても。
私は、この詩を読んで、「この話は、これでおわらない。ここまでは、ほんのはじまり。序章」という言葉に、深い感銘を受けました。ヨセフも、自分の人生をいつもそのように考えていたのではないでしょうか。「ああ、これで僕の人生は終わりだ。生きていても仕方がないや」と思いたくなる時もあったでしょう。特に、給仕長に忘れられた時には、最後の望みが断たれたという深い落胆を経験したでしょう。しかし、いつも、いや、これで終わったのではない。神さまが私の人生の中で紡いでくださる物語は、まだこれからなのだ。そのような期待をもって、生きたのではないでしょうか。
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Translation
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