ヨセフ物語 04
「霊の父は愛する子供らを鍛錬する」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙12章7-13節
旧約聖書 創世記39章1-23節
奴隷として売られたヨセフ
 ヨセフは、お父さんの愛を独り占めにして、花よ、蝶よ、と大切にされ、何の生活の心配もない暮らしをしていました。しかし、そのような生活がいっぺんに壊され、人生が真っ暗闇に転じてしまうような出来事が起こったのです。ヨセフは、一緒に育った家族であるお兄さんたちの手によって、荒れ野の落とし穴に投げ込まれてしまいました。そのヨセフを見つけ、穴から救い上げてくれたのは、人を人とも思わぬ冷酷な商人でした。彼らは、「助けてくれ」と泣き叫ぶヨセフを銀二十枚で別の商人たちに売りつけました。ヨセフを買った商人たちは遠い異国の地、エジプトまで連れて行き、若くて、健康で、見た目も美しい掘り出し物の奴隷として、エジプトの高官に売ってしまったのです。

 このヨセフの悲しみ、嘆きを詠んだ詩篇があります。
 奴隷として売られたヨセフ。
 主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ
 首に鉄の枷をはめることを許された
                     (詩編105編17-18節)


 この時、ヨセフは十七歳。青春の真っ盛り。普通だったら恋をしたり、友人たちと羽目を外して遊んだり、将来の夢を熱く語り合ったりする年頃です。しかし、そんなヨセフの青春はどこかに消えてしまいました。文語訳聖書では「くろがねの鎖をもてその霊魂をつなげり」とあります。名訳だと思います。ヨセフの自由で生き生きとした魂が、絶望という暗い淵の中につなぎ止められてしまったのです。

 ところが、聖書は不思議なことを語ります。

 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。(創世記39章2-4節)

 人生を台無しにされ、奴隷にまでおとしめられてしまったヨセフの生活に、「主が共におられた」ということを、二度も繰り返して語っているのです。「どこにも神様なんかいない」と叫びたくなるような絶望で真っ暗な人生であるにも関わらず、神様がヨセフの人生と共にいてくださったのだと、聖書はここで強調しているのです。

 私達の人生にも同じことが言えます。今ここにいらっしゃる皆さんの中にも、ヨセフのように平坦な道を歩いていたときに、突然、落とし穴に投げ込まれ、人生が真っ暗になってしまったという経験をなさった方々がおられます。死を覚悟させられる病いを宣告された方、思いもよらぬ家族の病いや死を突きつけられた方、自然災害で家も仕事も一遍に失ってしまった方・・・私は皆さんと共に祈りながら、「なぜ、神様はこんなことを」と、どれだけ思ってきたことでしょうか。それにも関わらず、神様は私達と共に、私達の人生のただ中にご臨在してくだるのだと、聖書は強調しているのです。
神様の在り方
 しかし、確かにそうであるというならば、神様はなんという在り方をもって、私達の人生にご臨在しておられるのでしょうか。まるで、私達の人生に敵対し、行く手を妨げ、魂を苦しませ、悩ませ、絶望させるために存在しておられるかのようではありませんか。ヨセフの人生と共におられる神様にしても、そうです。まだヨセフが幼い時、神様はヨセフからお母さんを奪い取られました。そして、今度は愛すべき者であるお兄さんたちから憎しみを受け、ひどい仕打ちを受けなければなりませんでした。その結果、自分をこよなく愛してくれたお父さんとも会えなくなり、鎖につながれ、遠い異国の地で奴隷とされてしまいました。神様は、このような在り方をもって、ヨセフと共におられたのでした。

 もちろん、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」とも書いてあります。少しはいいこともあるではないかと思うかも知れません。しかし、これは奴隷として働かせられていたポティファルの家でのことです。うまく事を運んだというのは、自分の人生がとんとん拍子にうまく運んだという意味ではなくて、奴隷として任された仕事をそつなくこなすことができたという話に過ぎないのです。ですから、喜んだのはヨセフというよりも、主人のポティファルだったのです。「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」とは、そういうことなのです。
ポティファル夫人の誘惑
 ヨセフの人生は、相変わらずうまくいきませんでした。ヨセフはまたもや人生に躓いてしまうのです。それが、ヨセフ自身の落ち度なら仕方ありません。けれども、そうではないのです。彼は立派に誘惑をはねのけました。それでも、というよりはそのためにこそ、彼の人生はまたもや転落してしまうのです。

 何があったのか。少し聖書を追ってみましょう。7-9節。

 主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」(創世記39章7-9節)

 ヨセフの主人ポティファルの奥さんが、ヨセフを誘惑し、それをヨセフがつっぱねたということが書いてあります。しかし、ここは色々と考えさせられることがある部分です。夫というものがありながら、こんなことをするというのは、ポティファル夫人の心の奥に何か満たされない寂しさがあったのだと思うのです。

 しかし、外面的に見るならば、ポティファル夫人は人がうらやむほどに何もかも満たされた人でありました。夫はファラオの侍従長で、広い屋敷に住み、贅沢な調度品に囲まれ、食事の支度はコックがしてくれるし、掃除や洗濯はみんな召使いがやってくれます。贅を尽くした宝飾品も、ドレスも、欲しいままに手にすることができました。けれども、このような社会的地位や物質的な豊かさが、必ずしも心の飢え渇きを満たすわけではなかったのです。

 ある説教者は、ポティファル夫人は宮仕えで神経をすり減らして、へとへとになって帰ってくる夫に構ってもらえず、欲求不満だったに違いないと説明していました。なるほど、そういうこともあるかもしれません。しかし、そうだとしても、私はポティファル夫人が求めていたのは、単なる肉体的な満足ではなく、もっと魂の奥底にある飢え渇きが満たされることだったと思うのです。

 ちょっと古い方なのですが、メアリー・アスターというハリウッドの女優がいました。アカデミー賞を受賞し、華やかな結婚をし、二人の子供に恵まれ、ビヴァリー・ヒルにはいくつもの邸宅があり、高価な毛皮を持ち、世界的な人気を博しました。このように、女性として、人間として、これ以上何を望めようかといほどの成功と富と名声を手にしながら、けれども、彼女はこんなことをいうのです。

 「永い間―絢爛たる名声の最中にいてもー私は何か自分の心を満たしてくれるもの、幸福にしてくれるものを求めて止まなかったのです。ただぼんやりと無気力な好奇心で宗教を眺めていた時から・・・一人の人格としての、父としての神を見いだし、信仰の中に歩むことが本当に人間の成長なのだと知るまでに、殆ど二十年かかりました」(キャサリン・マーシャル、『愛はいずこに』から)

 たとえ絢爛たる名声の中にいても、心に神様をお迎えするまでは、けっして心が満ち足りることはなかったと、メアリー・アスターは告白しているのです。パスカルは、このような心の空しさについて、とてもおもしろい表現をしています。人間の心の中には大きな穴がポッカリと空いていて、それは神様の形をしている、というのです。だから、この空しさは、神様以外の何ものをもってしても埋めることの出来ないのです。それなのに、物質的な豊かさや、この世の地位や名声ばかりを追い求めるから、まだ足りない、まだ足りないと貪欲な人間になってしまうのです。

 イエス様はこう仰いました。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカによる福音書12章15節)

 また、主の兄弟ヤコブは「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(『ヤコブの手紙』1章15節)という名言を残しています。ポティファル夫人がヨセフを誘惑した背景にも、「欲がはらんで罪を生む」という魂の迷いがあったのではないでしょうか。

 他方、健康な若者であるヨセフにしても、性の誘惑というのは抗いがたい強烈なものだったに違いありません。しかし、ヨセフは「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」と、ポティファル夫人の誘惑を突っぱねました。ここにも注目すべきことがあります。それは、姦淫の罪は「大きな悪である」と言われていることです。

 昨今は、そんなのは古い考えだと一笑に付す人たちが大勢います。しかし、そのような性に対するルーズな考えが、どれほど多くの人たちを、特に子供たちを不幸にしているでしょうか。結婚を大切にしなくなり、離婚が増え、子供たちがその犠牲になっています。ポルノ情報が子供たちの周りに溢れ、中学生や高校生が性を売り物にしたり、妊娠したり、堕胎したり、身も心も傷ついています。これが大きな悪ではなくてなんでしょうか。

 ある人が、人間にとって最も大きな誘惑はお金と性の問題にあると言っていました。本当にそのとおりです。私は、牧師がお金や性の問題で罪を犯してしまった話を聞くことがあります。その度に、人ごととは思えない怖さを感じるのです。お金も性も決して悪ではありません。神様は、お金も、性も、人間の喜びや祝福としてお与えになってくださいました。

 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。(コヘレトの言葉5章18節)

 しかし、自ら分をわきまえ、自分自身の労苦の結果を楽しめと言われています。言い方を変えれば、神さまが与えられた自分の分を越えたものまでむさぼり求めるようになることによって、それは祝福ではなくなり、自分も他人も不幸に陥れるようなものになってしまうのです。

 お金について盗んではならない、むさぼってはならないという戒めが与えられています。性については姦淫してはならないという戒めが与えられています。この神の戒めの中にあって、お金も性も喜び、楽しむことが大切なのです。それを越える時、私達は真の喜びを失います。それだけではなく、神さまに対する罪を犯すことになります。ですから、ヨセフはこのような誘惑に身をゆだねることは、主人ポティファルに対してはもちろんですが、何よりも神様に対して罪を犯すことになるのだと言っているのです。

 さて、しかしポティファル夫人は毎日のようにヨセフを誘惑し続けました。

 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。(創世記39章10節)

 ヨセフは、ポティファル夫人に断固として拒否の姿勢を貫きました。甘いささやきに耳を貸さず、二人っきりになることすら避けたというのです。話を聞くぐらい、また二人で一緒にいるぐらいは罪とは言えません。しかし、そのぐらいなら大丈夫だという気のゆるみが、大きな罪に至る第一歩なのです。ヨセフは、そのような自分の弱さを知っていました。罪を犯さないためには、自分の弱さを知り、誘惑から遠ざかることが一番なのです。

 しかし、ある日、ポティファル夫人は、主人が留守であることをいいことに、ヨセフの着物をつかんで強引にベッドに引きずり込もうとしました。ヨセフは強く抵抗しますが、夫人の手は着物をつかんで離そうしません。仕方なく、ヨセフは着物を脱ぎ捨てて、裸のままポティファル夫人の寝室を飛び出したのでした。ポティファル夫人は、そこまでして自分を拒絶するヨセフに屈辱感を味わったのかもしれません。大きな叫び声をあげ、召使いたちを呼び寄せ、ヨセフが自分に乱暴をしようとしたと嘘をついたのでした。

 着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」(創世記39章13-15節)

 やがて主人ポティファルが帰宅します。すると、彼女はヨセフの着物を見せ、同じことを訴えます。もちろん、召使いたちにも同じ事を証言させたでしょう。ヨセフは完全な濡れ衣を着せられてしまったのでした。

 「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。(創世記39章19-20節)

 なんと、ヨセフはこのポティファル夫人に着せられた濡れ衣のために牢屋に入れられてしまったというのです。
霊の父は愛する者を訓練する
 最初のお話しに戻りましょう。「主がヨセフと共におられた」と言いながら、相変わらずヨセフの人生は転落の一途を辿っていきます。どうしてなのでしょうか? ヨセフが神さまに逆らうからでしょうか? そうではないことは、ヨセフがいかにしてポティファル夫人の誘惑を退けたかということからも分かります。神さまがヨセフと共におられ、ヨセフもまた神さまと共にあり続けようとしているのに、どうしてヨセフの生活は上向きにならないのでしょうか。

 詩編105編をもう一度見てみましょう。

 主はこの地に飢饉を呼び
 パンの備えをことごとく絶やされたが
 あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。
 奴隷として売られたヨセフ。
 主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ
 首に鉄の枷をはめることを許された
 主の仰せが彼を火で練り清め
 御言葉が実現するときまで。(詩編105編16-19節)


 「奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された」とあります。これだけを見たら、不幸以外の何ものでもありません。しかし、この話には、前後があります。まず、「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。」とあります。神さまは、やがて来る飢饉に供えて、ヨセフをエジプトに遣わし、ヨセフを通してイスラエルを救おうとされていたのだというのであります。そして、ヨセフが奴隷として売られ、卑しめられ、足かせ、首かせにつながれるような運命を辿ったのは、「主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。」であるということなのです。言い方を変えれば、ヨセフが落とし穴に落とされたことも、商人に拾われてエジプトに連れて行かれたことも、ポティファルの奴隷となったことも、牢屋に入れられたことも、すべてのことは神さまの救いのご計画の中にあることであり、そのご計画が実現するために、ヨセフを神さまの僕として鍛錬するためであったということなのです。

 主が共におられるとは、無病息災、商売繁盛の生活を送ることではなく、神さまのご計画の中に生かされているという意味なのです。ですから、ヨセフにとってはポティファルの奴隷となることが、主が共におられるということでありました。次には王の囚人となることこそが、主が共におられるということだったのです。

 ヨセフはこうして、監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、 監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。

 監獄においても、「主がヨセフと共におられた」ということが繰り返されています。そして、主が恵みを施し、導き、物事をすべて取りはからってくださったとあります。確かに、ヨセフが経験していることは人生の艱難です。しかし、その中にあっても、主が共におられるということの証しが、そこかしこにみられたのだということなのです。たとえば、37章の話ですが、ヨセフが落とされた落とし穴の中には水がなかったということが書かれていました。あるいはポティファルの家や監獄でも、主の助けや導きがあったのです。

 『ヘブライ人への手紙』12章10節には、こう記されていました。

 霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

 私達の霊の父なる神さまは、目的をもって私達に試煉をお与えになるのだと言われています。その目的とは、「神の神聖に預からせるため」とあります。難しい言葉ですが、要するに私達は本当の神の子となるためだということなのです。

 最後に、ヨセフはそれを知っていたのかということを考えたいと思います。自分の人生に対する神さまのご計画をすべて分かっていたから、それに耐えることができたのでしょうか。そうではないのです。ヨセフは、私達と同じように、このような人生にどんな意味があるのかと、悩み苦しんだことでありましょう。しかし、結局は、ヨセフは神さまがわからなくても、神さまを信じて、神さまがこれから何をしてくださるのかということに目を注ぎ、自分の人生を神さまにゆだねて生きようと決心したのだろうと思います。

 出典はよく分かりませんが、ヘレン・ケラーの有名な言葉があります。

 「幸福の扉」の一つが閉じる時には、別の「幸福の扉」が開きます。けれど、私達は閉じられたほうばかりをながめていて、こちらに向かって開かれているもう一つの扉に気づかないことが多いのです。

 私達の人生に起こったことには、すべて意味があります。それは、私達が本当の神の子となるためであり、また神さまのご計画が成り、神さまの栄光が現れるためなのです。前を向いて、主の日が来ることを待ち望みながら、互いに励まし合い、共々に強く雄々しく生きて参りましょう。

目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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