ヨセフ物語 02
「神は悪魔の所業を踏み越えて進み行く」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書  ローマの信徒への手紙11章33-36節
旧約聖書  創世記37章12-36節
後悔しない人生
 みなさん、私たちは後悔をしない人生を生きることができるのでしょうか? 昨日は、三月に亡くなられたNさんの納骨がありました。Nさんのことを思いますと、わたしは胸にチクリとする後悔がよみがえってきます。Nさんが亡くなる前の日、私はNさんを訪問しようと思っていました。しかし結局、その日はいろいろとやらなければならない仕事があり、明日でいいやと思ってしまったのです。

 翌日、Nさんは突然天に召されていきました。どうして、Nさんを訪問しようと思ったとき、すぐにそれを神さまの御心と受け止めて出かけなかったのか。どうして明日にしようなどと怠け心を起こしてしまったのか。そのことを思うと、私は後悔の念に打たれるのです。

 「後悔、先に立たず」という言葉があります。後になって、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと悔やむことが、皆さんにもお有りなのではないでしょうか? 人間というのは愚かなものでありまして、取り返しのつかない事態に陥ってみて、はじめて自分はああすればよかったのだ、こうすればよかったのだということがわかるのであります。

 しかし、これは仕方がない面もあります。言い訳とも、開き直りとも聞こえるかもしれませんけれども、もしNさんが明日には天に召されるということが分かっていたならば、どんな怠け者の私であっても、決して「明日でいい」などと思いはしなかったでありましょう。しかし、これは誰にも知り得ないことでありました。ご一緒に生活しておられた妹さんですら、お姉さんの死などということは思いもよらないことだったのです。また、逆にNさんが天に召されるようなことがなかったならば、一日訪問を伸ばした事を、私が後悔することもなかったでありましょう。問題は、私には神さまのご計画が分からなかったことにあったのだとも言えるのです。

 神さまのご計画というのは、しばしば人間に隠されていて、あとになってようやく明らかになるものなのです。イエス様は、十字架におかかりになる前の晩、ペトロに「わが為すことを汝いまは知らず、後に悟るべし」(ヨハネ福音書13章7節)とおっしゃいました。そのように、神さまは敢えてご計画を隠しておられるのです。

 それは、ひとつには神さまの栄光のためであります。「事を隠すのは神の誉れ」(『箴言』25章2節)という御言葉があります。私たちも、人を驚かせるために、敢えて計画を隠しておくことがあるのではないでしょうか。そうすることによって人に二倍の喜びと感動を与えることができるからです。神さまも、私たちの讃美を二倍、三倍にもあふれさせるために、私たちを喜ばせるためのご計画を敢えて隠されるということがあるのです。

 それからもう一つ大事な意味があると思います。それは、神さまのご計画を、悪魔に隠しておかれるためであります。たとえば、イエス様が十字架という神さまのご計画についてお話しをされると、すぐに悪魔がペトロの中に入り、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言わせたということが、『マタイによる福音書』に記されています。悪魔とは神への反対者なのです。神さまは、そのような悪魔に手の内をすべて披瀝するようなお方でありません。「敵を欺くためにはまず味方から」という言葉がありますが、神さまは悪魔の策略から私たちを守り、私たちに対するご計画を確実にお進めになるためにこそ、知恵をもってご自分の計画をお隠しになるのであります。

 そうだとしますと、私たちが神さまのご計画を知り得ないということは決して悪いことではないはずです。悪いのは、神さまのご計画を知らないことではなく、隠れたところで私たちの人生を導いておられる神さまの愛と知恵を信じないことなのです。それを信じられないときに、私達は後悔することになります。

 最初に、「私たちは後悔をしない人生を生きることができるのでしょうか?」と尋ねました。それは、できます。人生におけるすべてのことの中に、神さまの愛なるご計画があることを信じればいいのです。

 誰のであったか忘れましたが、ある科学者が「わたしは実験で失敗をしたことがない」と、弟子に豪語しました。すると、弟子は、「たった今、先生の実験が失敗したではありませんか」と反論しました。すると、その科学者は、「これは失敗ではない。これでは駄目だということが、この実験によって証明されたのだ」と答えたというのであります。私たちの人生にも、しばしば愚かさが、弱さが、罪が、明らかにされるような出来事が起こります。しかし、それもまた神さまの御手の中にあり、神さまがそのことを私たちに教えてくださったのです。それは、神さまが私たちを愛し、私たちを今よりももっとすばらしいところへと導こうとしておられる結果なのです。

 ですから、ああすればよかった、こうすればよかったと、くよくよする必要はまったくありません。その結果の中に、神さまの教えに尋ね求めるということは必要ですが、後悔することはないのです。今ここに導き給う神さまの愛なるご計画を信じ、その結果を受け止めて、さらに導きのままに前進していけば良いのであります。
神はおられるのか
 さて、今日はヨセフ物語を通して、「神は悪魔の所業を踏み越えて進み行く」というお話しをしたいと思います。今、私は、私たちの人生のどんな結果に対しても神さまのご計画を信じましょう、というお話ししました。しかし、なかなかそれが信じられない原因のひとつは、私たちの人生を動かしているものは、人間の愚かさ、弱さ、罪深さばかりであって、それだけが私たちの人生を決定づけていると思ってしまうことにあります。

 しかしそれにも関わらず、私たちの世界、人生の中で主導権を握っておられるのは神さまなのです。神さまは、あらゆる人間の愚かさ、弱さ、罪深さ、そして悪魔の力に打ち勝ち、それを踏み越えて、ご自分の愛なるご計画を、この世界に、私たちの人生に、成し遂げていかれるお方なのであります。

 今日お読みしました創世記37章が、そのことを私たちに物語っているのです。一見すると、ここに書かれているのは、おぞましいばかりの人間の罪深さとその結果であります。先週お話ししたヤコブのヨセフに対する偏った愛も、そのひとつでありましょう。このヤコブの罪のゆえに、ヨセフのお兄さんたちは、ヨセフをねたみ、殺そうとまでいたします。ヨセフは命こそ助かりましたが、着物をはぎ取られ、裸のまま荒れ野の落とし穴の中に投げ込まれてしまうのです。

 お兄さんたちはその傍らで平気な顔をして食事をしています。なんという無神経、不人情、残酷さでありましょう。すると、彼方にエジプトに向かうイシュマエル人の商人たちが通りかかるのを見つけました。そこで、お兄さんたちはさらに悪い相談をします。あの人たちにヨセフを売ってしまおうというのです。ところが、お兄さんたちが落とし穴に戻ってみると、そこにヨセフはいませんでした。ミディアン人の商人たちが一足先にヨセフを見つけ、穴から引き上げて、それをイシュマエル人に売ってしまったのです。この後25年間、ヨセフは家族と引き離れて数奇な運命を生きることになります。

 しかし、お兄さんたちは、そんなヨセフのことを心配もせず、お父さんにどう言い訳するかということを相談しています。そして、ヨセフの着物に山羊の血をつけ、あたかも獣に殺されたかのような工作し、それを人を通してお父さんに送りつけ、お父さんの魂を深い嘆きの中に陥れます。

 いったい、このようなお話しのどこに神さまがおられるか、と思ってしまいます。実際、37章には神様について語られている節はひとつもありません。これが物語っているのは神様ではなく、人間の本性です。それがどんなに悪魔的であるかということ、そして、それがもたらすのは悲劇だけであるということを明白に物語っているように思えるのです。これを読む多くの人は、私たちの生きている世界も、人生も、これとまったく同じだという感想を持つでありましょう。すべては罪深い人間の結果として起こっており、悪魔の為せる業であり、神さまなんてどこにもおられないと思うのです。
隠れたところにおられる神
 しかし、この物語の中にも、神さまはおられるのです。確かに、悪魔が、人間の罪が、これでもかというぐらいに力をふるっています。神さまは、どの節を読んでも登場しません。しかし、イエス様は、神さまは「隠れたところにおられるあなたがたの父」であると教えられました。この中にも、神さまは隠れたところで働いておられるのです。

まず12-14節をもう一度読んでみましょう。

 兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていたとき、イスラエルはヨセフに言った。「兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが。」「はい、分かりました」とヨセフが答えると、更にこう言った。「では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか。」父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。 (37:12-14)

 ヨセフのお兄さんたちはお父さんの羊を連れてシケム地方まで牧草地を探しに行っていたとあります。ヘブロンにも牧草地はあったでしょうが、それだけでは十分ではなかったため、より豊かな牧草地を求めて遠くまで行っていたのだと思います。それはたいへん危険な仕事でもありました。野獣に襲われる心配はもちろんのこと、牧草地を巡って他の部族と争いになるようなこともしばしばあったからです。ヤコブは、ヨセフだけはこのような危険に遭わせたくないと思い、家に残しておきました。

 しかし、そのヨセフを兄たちのもとに送ろうと決心します。シケムに行くと言って出かけたきり何日も音沙汰がない息子たちのことが急に心配になってくるのです。おそらく相当悩んだ末のことでしょう。ヤコブは、「お兄さんたちの様子を見に行ってくれ」と、ヨセフに頼みます。ヨセフもお兄さんたちのことが心配だったでしょうし、もう17歳にもなっているのですから父の願いを断る理由はありません。ヨセフは「はい、わかりました」と素直に父の頼みを聞き入れました。そこで「父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。」と記されているのです。

 もし、何事もなくヨセフがお使いを果たして帰ってきたならば、「父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。」という1節にはたいした意味がありません。しかし、これから始まるヨセフの数奇な人生の第一歩がここにあったのであります。そのことを思うと、「父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。」という1節は、きわめて重要な1節であると言えましょう。
37章の終わりで、ヤコブはこのことを非常に後悔します。34-35節を読んでみましょう。
ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父はこう言って、ヨセフのために泣いた。

 ヤコブは、ヨセフをヘブロンの谷から送り出したこと何十編、何百編と思い返し、そんなことをしなければ良かったと後悔したに違いません。しかし、実は、これこそがヨセフの人生に対する神さまのご計画の始まりだったのです。そして、そのご計画は同時に、ヤコブの一家を飢饉から救い出し、またいがみ合った兄弟たちを和解させるためのご計画の始まりでもありました。さらにもっと言えば、ヤコブの子孫をエジプトで繁栄させ、アブラハムに対する「あなたの子孫を星のように増やす」という約束を成就させるためのご計画でもあったのです。

 そのように考えると、人生というのは本当に不思議です。「父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。」という何でもないように思える出来事が、神さまのご計画という観点から見ますと、いろいろな意味をもった出来事になってくるのであります。もし、ヤコブがこのような隠れたところにおられる神さまを信じることができたならば、たとえヨセフを失い、大きな悲しみに暮れたとしても、なお神に希望を持ち、慰めを得ることが出来たのでありましょう。しかし、ヤコブは「慰めれられることを拒んだ」というのであります。私たちも、人生の結果が神の御手の中にあることを信じられない時、ヤコブと同じように悲しみと失望の中に閉じこめられてしまうことになるのです。 
神の時
 次に、14節後半〜17節を読んでみましょう。

 ヨセフがシケムに着き、野原をさまよっていると、一人の人に出会った。その人はヨセフに尋ねた。「何を探しているのかね。」「兄たちを探しているのです。どこで羊の群れを飼っているか教えてください。」ヨセフがこう言うと、その人は答えた。「もうここをたってしまった。ドタンへ行こう、と言っていたのを聞いたが。」ヨセフは兄たちの後を追って行き、ドタンで一行を見つけた。

 ヨセフはシケムまで無事にたどり着きますが、お兄さんたちはそこにいませんでした。ヨセフは途方に暮れ、あちこちをさまよい、お兄さんたちを探します。すると、「一人の人に出会った」と書いてあります。この人がどういう人なのかは何も書かれていません。しかし、ヨセフがこの人を見つけたというのではなく、この人がさまよっているヨセフを見つけ、「どうしたのですか」と親切に声をかけてくれたのです。この不思議な人物の中に、ヨセフの人生の中にある隠れた神さまの御臨在を感じることがます。

 また、別の角度からこの出来事を読むこともできます。ヨセフがシケムでさまよってしまったのは、ヨセフが父の過保護のもとで育ち、このような野山を歩くことや地理に不慣れだったことが原因でありましょう。ヨセフは、見知らぬ土地をさまよいながら、自分の経験のなさを悔やんだかもしれません。日頃からお兄さんたちと羊飼いをしていれば、今お兄さんたちがどこにいるか見当がつくのにと思ったかもしれません。

 しかし、結果的にここで時間をつぶしたことが意味をもってくるのです。後で、お兄さんたちに落とし穴に落とされたヨセフは、ちょうどそこを通りかかったミディアン人に救い出され、またちょうどそこを通りかかり、エジプトに向かうイシュマエル人の隊商によってエジプトに行くことになりました。すべては、ヨセフをエジプトに行かせるという神さまのご計画の中にあったとも言えるのです。

 私たちの人生にも、迷う時があります。自分の経験のなさを悔やむときがあります。しかし、そういうことも決して無意味ではありません。後にならないとわかりませんが、神さまのご計画の中で、そういう時間を過ごしたことが、あとで大切な意味を持ってくるということがあるのです。
罪でさえも神は用い給う
 さて、不思議な人に導かれたヨセフは、ようやくお兄さんたちのいるドタンに来ました。お兄さんたちも、ヨセフを見つけます。18節から24節を読んでみましょう。

 兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。

 お兄さんたちがヨセフを殺す相談をしたということが書かれています。しかし、長男のルベンは弟たちをなだめ、「命を取るのだけはやめよう」と提案しました。さすが長男だと、単純に感心する人もいるかもしれません。しかし、実は、このルベンというお兄さんは、お父さんに対してとんでもない負い目をもっていたのです。35章22節にそのことが記されています。

 イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。

 ルベンはこのような罪を犯していました。その負い目が、「ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。」ということに結びついたのです。そして、これもまたヨセフをエジプトに連れて行こうとする神さまのご計画の中にあるとするならば、神さまはルベンの恥ずべき罪ですら、御業のためにお用いになったということになるのです。「神は悪魔の所業を踏み越えて進み行く」ということの意味が、だんだんおわかりになっていただけると思います。  
神の備え
 その後、23-28節を読んでみましょう。

 ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、ふと目を上げると、イシュマエル人の隊商がギレアドの方からやって来るのが見えた。らくだに樹脂、乳香、没薬を積んで、エジプトに下って行こうとしているところであった。ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた。ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。

 「その穴は空で水はなかった」とあります。これも神さまの備えでありましょう。またエジプトに向かうイシュマエル人がとおりかかったこと、ミディアン人がヨセフを穴の中に見つけたこと、こういうことも神さまのご計画の中で備えられたことだったと思うのです。

 このようにして37章をお読みしますならば、これらの出来事が人間の愚かさ、悪魔的な本性に満ちており、ヤコブの果てしない悲しみを見れば分かりますように、実に神なき望みなき結果で終わっているにもかかわらず、この物語を描いているのはサタンではなく、神さまであることが分かると思います。ここには、本当に多くの隠れた神さまの御業がちりばめられています。そして、神のご計画、それを成し遂げようとする隠れた御業こそが、この物語を描き、推し進めているのです。このように、神様はこの世界の歴史の中で、私たちの人生の中で、あらゆる悪魔の所業を踏み越えて進み行かれるのです。

 今、私が読み解いたように、私たちの人生の物語をひとつひとつ読み解いて、神さまの御業を見ることは難しいと思います。神さまの御業は隠されているからです。しかし、私たちはそれを知らなくても、信じることができます。私たちの人生に起こるあらゆる出来事、それが罪の結果であろうとも、弱さの結果であろうとも、怠慢の結果であろうとも、その中に隠れた神さまがおられるということを信じるのです。そして、私たちの人生に、神さまの愛なるご計画があり、御業があるということを信じるのです。それができるならば、私たちは人生に起こるすべてのことを、信じて、ゆだねて、希望を持つことができるのです。後悔する人生ではなく、信じる人生を生きようではありませんか。
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