預言者ヨナ物語 07
「主、主、憐憫あり、恩恵あり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ペトロの手紙二 3章8-9節
旧約聖書 ヨナ書3章3-10節
「再び」の恵み
 預言者でありながら神様に背いたヨナは、永遠に神の御前から追放される運命にありました。彼は嵐に猛る海の中に放り込まれ、まったく光の届かない滅びの深淵の中に沈んでいったのでありました。

 これを見て、神様を鬼のようなお方だと勘違いしてはいけません。これはいってみれば自業自得なのであります。神様がヨナを捨てたのでしょうか。否、ヨナが神様から逃げようとし、神様から隠れようとしたのでありました。神様はヨナを捨てません。しかし、ヨナは捨てたのでありました。その当然の結果として、ヨナは神なき深淵の中に転落してしまったのです。

 けれども、そこでヨナははたと気づきます。神様を失うということは、なんと恐ろしいことであるか。それはどこまでも限りない絶望、絶望、絶望でありました。人はよく人生に絶望したから死にたいと申しますけれども、死んだらその絶望の苦しみから逃れられると、いったい誰が教えたのでしょうか。神を失うということは、死んでもなお神なき絶望の中にあるということなのです。

 遅まきながら、ヨナはようやくそのことを悟ります。そして、陰府の底から、届くことがあろうはずもない声をあげ、「助けてください」と神様に泣訴するのです。すると、その届くことがあろうはずもないと思っていたヨナの祈りが、ちゃんと神様の耳に届きます。そして、神様は大きな魚をヨナのもとに遣わしたのでした。魚はヨナをパクリと飲み込み、三日三晩、海の中を泳ぎ回った後、陸地へぽいとヨナを吐き出したというのですから、愉快ではありませんか。

 そんなのはおとぎ話だ、まるで信じられない、と言う人ももちろんいるでしょうが、これがないというなら、マリアの処女降誕もなかったでありましょう。キリストの復活もなかったでありましょう。天使ガブリエルは、疑い惑うマリアにはっきりとこう告げました。「神にはできないことはひとつもない」。イエス様も、疑い惑う弟子たちに「人にはできないが、神にはできないことは一つもない」と保証されました。神の能力は無限です。だからこそ、神は神であるといってもいいでしょう。

 むしろ、私が驚くのは、神様から逃げ出し、神様を捨てたヨナ、そんな男の祈りがちゃんと神様のお耳に届いていたということ。そればかりか、そんなヨナを憐れんで、神様が救いの手を差し伸べてくださったこと。その神様の憐れみの限りない深さこそ驚きに思うのです。

 さて、こうして救い出されたヨナは、九死に一生を得ただけではありません。起死回生のチャンスをも与えてくださったのでした。

 「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。』ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。」(3章1-3節)

 「ヨナは主の命令通り、直ちにニネベに行った」と、あります。神の愛は、人を新しく生まれ変わらせるのです。傲慢な人間は謙遜にされ、卑屈な人間は誇りある人間にされます。信じない者は信じる者にされ、不従順な者は忠実に従う人間へと生まれ変わらされます。ヨナも然り。かつては逃げ出したけれども、今度は直ちに赴いたというのでありました。

 しかし私は、ヨナの変貌もさることながら、ヨナにもう一度人生をやり直すチャンスを与えてくださった、神様の恵みの有り難さというものを思わざるを得ません。「主の言葉が再びヨナに臨んだ」とあります。「再び」とあります。この「再び」があるということは、なんと大きな救いでありましょうか。ヨナは、この「再び」の恵みをいただくことによって、神様から起死回生のチャンスをもらったのです。

 一度しくじったら、もうおしまい。一度罪を犯したら、もう二度とやり直せない。これが世の中であり、人生だと思っている人は多いでしょう。そういう人は、人を赦すこともできないし、自分を赦すこともできなくなってしまいます。けれども、聖書は、この世界についても、人の人生についても、そのようには語りません。たとえどんなどん底を経験しても、必ず神に立ち返ることができる。そして、そこからもう一度、新しく生き直すことができる、というのです。

 これは、その後に続く物語、すなわち今日の本題でありますニネベの民衆に対する神の憐れみという話にも深く関わるところです。神様はニネベを滅ぼすと言われました。しかし、ニネベの民衆が心を入れ替えると、その考えを思い直されて、ニネベの町に災いを下すのをおやめになったと言うのです。

 ここには二つのことが描かれています。一つは、ニネベの王と民衆が真摯になって悔い改めたということです。そして、もう一つは、そのニネベの民衆に、神様がもう一度やり直すチャンスを与えてくださったということです。しかし、どちらが先にあると考えるのかによって、今日のお話の内容はまったく違ったものになってしまうのです。

 ニネベの人々が悔い改めから、神様は憐れまれたということになりますと、悔い改めるという人間の心とか行いが、神様の救いを受けるための条件であるということになりましょう。けれども、神様は憐れみがニネベの人々を悔い改めを可能ならしめたと考えるば、人の心や行いがなお悪いときにあっても、神様は憐れみをもって人々を見ておられるのだということになるのです。

 果たして、行いあるところに救いが訪れるのでありましょうか? そうではなく、神の憐れみあるところに悔い改めが生じ、救いが訪れるのであるということを、今日は皆さんにお話をしたいと思っているのです。 
「かもしれない」の信仰
 急に話は変わりますが、皆さんは聖書に「十戒」という戒律があることをご存じでありましょう。これは、「モーセの十戒」とも言われることがありますように、モーセを通して、神様がイスラエルに与えてくださった大切な戒めであります。紀元前1400年頃の話ですが、モーセは神の命によってエジプトのファラオと交渉を重ね、当時、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を解放し、約束の地(パレスチナ)にまで導き上りました。十戒は、そのモーセを通して、神様がイスラエルに与えてくださった戒めであります。

 @ あなたには、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 A あなたは、自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
 B あなたの神、主の名を、みだりにとなえてはならない。
 C 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
 D あなたの父と母を敬え。
 E あなたは、殺してはならない。
 F あなたは、姦淫してはならない。
 G あなたは、盗んではならない。
 H あなたは、隣人について、偽証してはならない。
 I あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。

 この十戒が与えられる時、神様はまずイスラエルの民にこのようにおっしゃるのです。「わたしはあなたがたをエジプトから救い出した者である。今もし、私の教えを守り、導きに従うと約束するならば、私もあなたがたに、今後ともあなたがたを私の民として愛し、祝福の基とすると約束しよう」と。すると、イスラエルの民は声を張り上げて、「もちろん、私たちは神様が語られたことをすべて守り、行います」と自信満々に答えます。それで、モーセが民の自信に満ちあふれた答えをもって、神様にお会いするために山に登りますと、神様は手ずから十戒を二枚の石の板に書き記してくださったのでありました。

 ところが、です。モーセが、十戒の書かれた石の板を大事に抱えながら山を下ってみますと、あきれ果てたことに、イスラエルの民は、金の子牛を作って、それを神として拝んでいたのでありました。

 モーセはあまりのことに怒りに震え、神様から戴いたばかりの十戒の書かれた石を投げつけて、粉々に割ってしまいます。さらに、金の子牛をも粉々に砕き、それを水の上にまき散らした上で、その水をイスラエルの人々に飲ませたと言うのです。モーセのこのような激しい怒りは、民衆に対する深い絶望の意味するものであったことは言うまでもありません。

 しかし、翌日になると、モーセは「あなたがたの罪が赦されるように、もう一度、神様のところに行ってお願いをしてくる」と、民に言います。大事なところなので、聖書をそのまま読んでみます。

 「翌日になって、モーセは民に言った。『お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。』」(『出エジプト記』32章30節)

 「あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない」とあります。この言葉は、ヨナの宣教を聞いて、悔い改めたニネベの王の言葉によく似ていると思いませんか。

 「王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。『人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。』」(3章6-9節)

 モーセも、ニネベの王も、「かもしれない」と、ちょっと自信なさげに言っています。犯した罪が、あまりにも大きいので、「必ず救ってくださる」と自信をもっていえないのであります。

 しかし、「かもしれない」という言葉が意味するのは、自信のなさだけでありましょうか。モーセは、「こんなあからさまに罪を犯したからには、もうどんなことをしても駄目だ」という絶望の気持ちでいっぱいだったでありましょう。ニネベの王にしても、「『滅びる』とあからさまに宣言されているからには、もうおしまいだ」と思ったに違いありません。けれども、そういう絶体絶命のピンチにありながら、なおも神の恵みを見ようとする信仰、それが「かもしれない」という言葉だともいえると思うのです。

 たとえば、ヨナが乗っていたタルシシュ行きの船の船長も、嵐で船が沈みそうになっているとき、船底で眠っていたヨナを起こして、このように言いました。

 「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」

 やはり、ここに「かもしれない」の信仰が表されているのです。それは、もう無理だ、おしまいだ、人間的には何の望みもないという時にも、なお神の恵みに一縷の望みを持つことをやめない信仰であります。

 逆に言えば、人間の望みというのはこんなに細くて心許ないものでしかないということなのです。あまり考えもしないで、自分を信じ、非常に楽観的なことや、強気なことを言う人もいるかもしれません。けれども、それは自分の中にも厳然と存在している絶望を見ていないだけの話です。今はそれを見ないで済んでいても、必ずそれを見せられる時がきます。神様の救いさえも、決して安易に期待できないような時であります。そんな時にもなお強気でいられる人間など一人もいないということなのです。

 しかし、モーセにしても、ニネベの王にしても、神様から見放されるという誰よりも深い絶望の最中で、なお神様の恵みを見つめ続けることができました。どうしてでしょうか。それは、神様が憐れみ深いお方であるということを知り、それを拠り所としていたからなのです。神様は憐れみ深いお方であるから、絶対に赦されないような状況の中にあっても、あるいは赦されるかもしれない。それが「かもしれない」の信仰なのです。

 イエス様の「放蕩息子の譬え」を思い起こすと分かりやすいでありましょう。ある息子が、畑仕事をいやがって、お父さんに遺産の生前分与を申し出ます。そして、受け取った畑や家畜を全部売り払って、お金を手にすると、今こそ自分の力を試す時と期待に胸をふくらませて都会に出て行きます。しかし、結局、遊蕩三昧の生活を送り、財産を無駄遣いしてしまうのです。そこに、追い打ちかけるように大飢饉が起こります。彼はホームレスとなり、食べるにも窮するようになってしまいました。「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、何かも失った者を親切に助けてくれる者もなく、彼は孤独と絶望を味わいます。

 そのどん底の苦しみの中で、彼は父親の家にいた時のことを懐かしく思い起こすのです。しかし、すぐに彼は、頭(かぶり)を振りながら、「いや、こんな親不孝な人間には、帰る家はない。自分で、家を捨ててしまったのだ。どうして、今更、『お父さん、あなたの息子です』などと言えようか」と思い至ります。

 そういう絶望の中にあることをすべて自覚しながら、彼はさらになお父の愛を見つめて、こう思うのです。「私は息子と呼ばれる資格のない者であるから、もちろん父の愛を期待することもできない。家に帰っても追い返されるのが関の山かもしれない。しかし、もしかしたら、お父さんなのだから、こんな私も奴隷として雇い、ご飯ぐらいは食べさせてくれるかもしれない」。そして、彼は疑いと恐れを抱きながら、家に帰ります。真実の悔い改めというのはこういうものではないでしょうか。

 ニネベの王にしても、同じです。自分の罪を絶望的なまでに知るからこそ、恐れと恐怖を感じざるをえない。その絶望の中で、さらになお神様の愛を見つめる。そして、「かもしれない」の信仰を持つ。真実の悔い改めとは、こういうものだと思うのです。
憐憫あり、恩恵あり
 さて、またモーセの話に戻ります。モーセもやはり恐れと絶望を感じながら、なおも一縷の望みをかけて、神様と会うために山に登ります。何をどうしたら神様の赦しをいただけるのかわかりません。モーセは策もなく、ただ体当たりで、自分の命を捨てる覚悟で、神様の憐れみだけに寄りすがり、「かもしれない」の信仰をもって、民のために執り成しようとするのです。

 「モーセは主のもとに戻って言った。『ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。』」(『出エジプト記』32章31-32節)

 しかし、神様の答えはきびしいものでした。

 「主はモーセに言われた。『わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。』」(『出エジプト記』32章33-34節)

 神様は、「もう私は、イスラエルの民と一緒に歩まない。代わりに天使を遣わすから、それに助けてもらえ。しかし、たとえ約束の地に入れたとしても、裁きの日には厳しい裁きがあるからそのつもりでいなさい」と言ったのです。

 モーセは、もとより命を捨てて神様に体当たりの交渉をする覚悟ですから、これですごすごと引き下がりません。「あなたが、わたしを選び、民を約束の地に導き上れとおっしゃったのではないですか。あなたが一緒に来てくださるのでなければ、できません。」と執拗に食い下がります。このモーセの熱意に負けて、神様はイスラエルを赦してくださるのです。

 すると、そこで最初にお話ししました「再び」の恵みが与えられます。つまり、モーセが砕いてしまった十戒を、もう一度授けてくださるというのです。

 「主はモーセに言われた。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。』モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。』」(『出エジプト記』34章1-7節)

 イスラエルの罪を許し、再度十戒を授けてくださる神様は、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」、これが私の名であると、モーセに宣言されたとあります。「父祖の罪を三代、四代までも問う者」というのですから、実に恐ろしい神だとも言えます。これを聞いただけで、私たちは自分が不幸なのはご先祖の罪の故だろうかと絶望したり、子や孫が不幸せなのは自分のせいだろうかと絶望してしまいます。けれども、神様は「慈しみは幾千代にも及ぶ」と言っておられることを見落としてはなりません。罪の罰が三代、四代と言われているの対して、慈しみは幾千代と言われているのです。罪の罰など消し去ってしまうほどの大きな大きな慈しみが、神様のうちにはあるのです。

 「主、主、憐憫あり、恩恵あり」という説教題は、この文語訳からとりました。「主、主、憐憫(あわれみ)あり、恩恵(めぐみ)あり、怒ることの遅く、恩恵と真実(まこと)の大いなる神」とあります。これは、神様は全知全能でありますが、決してコンピュータではないということなのです。コンピュータは、たいへん複雑な計算も正確にこなしますが、実は何でも二進法で、言い換えれば白と黒で判断するのです。迷うことがない代わりに、それ以上のことはできないわけです。もし、神様がそのようなお方であるならば、人間も白と黒にわけ、天国に行く人間と、地獄に行く人間が、その行いによって自動的に分けられてしまうことになるでしょう。

 けれども、神様はコンピュータではありません。「憐憫あり、恩恵あり、怒ること遅く、恩恵と真実の大いなる神」なのです。生ける人格的な神であると言ってもいいかもしれません。だからこそ、はじめは黒だから滅ぼすと言っておられても、ニネベの人々が罪を自覚し、それを後悔し、遅まきながら行いを改め、必死になって赦しを祈り願い求める様をごらんになって、かわいそうになり、考えを思い直されるのです。

 「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」

 また、放蕩息子の父にたとえられた神様も同じです。

 「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(『ルカによる福音書』20章20-24節)

 「主、主、憐憫(あわれみ)あり、恩恵(めぐみ)あり、怒ることの遅く、恩恵と真実(まこと)の大いなる神」

 このような神様のどこまでも限りない憐れみがあることをはじめに信じることができたからこそ。モーセは明らかに免れようもない神の裁きを知りながら、なお「赦してくれるかもしれない」と体当たりで神様に執り成しをする信仰が持ち得たし、ニネベの王にしても滅びの宣告を受けながら、なおも「滅びを免れるかもしれない」と神様に泣訴する信仰が持ち得たのです。

 私たちも、このような信仰を持ちたいと願います。そして、どんな罪の中、絶望の中にありましても、神様の憐れみ、恵み、真実をより頼んで、神様に立ち返る救いを得る者でありたいと願うのです。  
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