預言者ヨナ物語 06
「視よ、新しくなりたり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章14-6章10
旧約聖書 ヨナ書3章1-3節
陰府の底から
 預言者ヨナは、「ニネベに行って御言葉を宣べ伝えよ」との神様の声を聞きました。しかし、ヨナはこれに従わず、ニネベとは正反対のタルシシュに向かう船に乗ってしまうのです。ところが海は大嵐となり、その船は沈みそうになってしまいました。

 この嵐が自分のせいであることを悟ったヨナは、乗組員たちに、「私を海に放り込んでください。そうすれば、神様の怒りはおさまり、嵐もやむでしょう」と言いました。乗組員たちはためらいつつも、嵐の海の中にヨナを放りこみました。果たして海は、ヨナの言ったとおりに静かになりました。命を拾った乗組員たちは、ヨナの神を恐れ、いけにえを捧げて礼拝を捧げたとあります。

 ところで、ヨナの運命はどうなったのでありましょうか。2章4-7節を読んでみますと、今更ながら自分の罪を後悔し、絶望していくヨナの心理が見事に描き出されています。

 「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。
  潮の流れがわたしを巻き込み
  波また波がわたしの上を越えて行く。
  わたしは思った
  あなたの御前から追放されたのだと。
  生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
  大水がわたしを襲って喉に達する。
  深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
  わたしは山々の基まで、地の底まで沈み
  地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。」
 
 激しい波が幾重にもヨナに襲いかかり、水を飲み込み、苦しみもがきながら暗い海の底に沈んでいく様子が生々しく語られています。そして、溺れて、次第に遠のいていく意識の彼方で、ヨナは「私は神様の御前から追放されたのだ。もはや二度と神様の御顔を仰ぐことはできなくなってしまったのだ」と、自分がしでかしたことの罪の大きさをはっきりと悟ったのでありました。

 しかし、あまりにも遅すぎるのです。ヨナはそのことに絶望しています。「生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうか」、「地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」とは、神様との交わりが永遠に閉ざされた世界、つまり死んで地獄に堕ちたのだということを、ヨナは告白しているのであります。

 みなさん、およそ罪というのは、このように最悪の結果を迎えるまでは、誰でも安直に考えてしまう傾向がありますから、気をつけなくてはなりません。先日、ニュース番組を見ておりましたら、何の罪意識も持たないで万引き行為に及んでしまう高校生が急増しているという実態について特集をしておりました。万引きをする理由で一番多いのは何かと言いますと、「友達に誘われた」ということだそうです。まるで遊びに誘うかのように万引きに誘われ、遊びの一環として万引き行為に及んでしまうというのだそうです。しかし、その罪が発覚し、親が呼び出され、警察に突き出される。学校を退学になる。決まっていた就職がふいになる。そうなって初めて、自分のしでかしたことの重大さに気づき、後悔をするわけです。罪というのは、このように油断しているうちに、私たちを取り返しのつかないような所へ連れて行ってしまう、非常に恐ろしいものなのであります。

 しかし、海の中に放り込まれたヨナの運命が物語っているのは、そんな常識的なことにとどまるものではありませんでした。ヨナは、光がまったく届かないような深い海の底から、神様に叫びます。自分はもう神様に追放されてしまったこと、どんな叫んでも神様は見向きもしてくれないだろうということを知りながら、それでもなお「神様、ごめんなさい。赦してください」と叫ばざるを得なかったのです。すると、神様は、そのヨナを叫びを聞き、大きな魚を遣わして、ヨナを呑み込ませたというのであります。

 魚の腹の中で意識を回復し、こんな自分を神様が憐れんでくださったということを知ったヨナは、このよう祈りを捧げました。2章3節、

 「苦難の中で、わたしが叫ぶと
  主は答えてくださった。
  陰府の底から、助けを求めると
  わたしの声を聞いてくださった。」(3節)

 また2章7b-8節、

 「しかし、わが神、主よ
  あなたは命を
  滅びの穴から引き上げてくださった。
  息絶えようとするとき
  わたしは主の御名を唱えた。
  わたしの祈りがあなたに届き
  聖なる神殿に達した。」

 ルターは、このヨナの祈りについての説教の中で、誰も決して「沈黙すべきではない。頭をもたげ、手をひろげ、祈り求めなさい」と、力をこめて語りかけています。地獄の中であっても、そこで人が祈るならば、必ずやその叫びは神様の居ますところ、天の聖所にまで達し、神様の憐れみの光がそこに射し込むということを、ヨナの運命は物語っているのです。

 ルターはさらにこう言います。「地獄にいる人が神に叫び求める時、地獄は地獄ではなく、地獄としてあり続けることもない」と。なんと、神様の憐れみの深さをもってすれば、地獄ですら地獄であり続けることはできないのだというのです。なんと遠大なる信仰でありましょうか。しかし、これぞヨナの物語であり、聖書の信仰なのであります。

 だから、私たちも決して沈黙すべきではありません。どんな時にも、頭をもたげ、手をひろげ、祈るべきなのです。それは簡単なことではありません。実は、人生をあきらめ、絶望する方がずっとたやすいのです。しかし私たちは、罪を犯さぬほど強い人間にはなれないとしても、せめてどんな時にも神様の憐れみを信じ、たとえ罪の果てに地獄に堕ちようとも、そこでなおも頭をもたげ、手をひろげ、祈る信仰の強さを持ちたいと願うのです。
主の言葉が再び
 さて、ヨナは神様に憐れみを受け、再び陸地に戻ることができました。2章11節、

 「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。」

 魚が溺れた人間を呑み込んで助け、それを陸地にはき出すなどということが、この世の現実としてあり得ることなのか。誰もがそのように思うに違いありません。しかし、先週お話ししたことでありますが、そのようなことを不思議に思ってはいけないのです。もし神様がいらっしゃるならば、どんなことでもおできになるはずです。それが信じられなければ、イエス様の処女降誕の物語も、復活の物語も嘘っぱちということになってしまう。それでは私たちの信仰は意味がないのです。

 むしろ、私たちがここで本当に驚かなければいけないことは、今お話ししましたような地獄でさえ、地獄であり続けることができなくなるような神様の憐れみの深さなのです。そして、今日お読みしましたように、神様に背いて、一度は地獄に堕ちたような人間を、地獄から引き上げてくださるばかりか、もう一度、彼を神様のご用のためにお遣わしくださるということです。

 3章1-2節をもう一度読んでみましょう。

 「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。』」(3:1-2)

 ここを読んで、私はパウロとバルナバの喧嘩の話を思い出しました。パウロとバルナバは、一緒に伝道旅行をするほど仲が良く、互いに信頼しあっていました。しかし、二度目の伝道旅行の時、あることで意見が分かれ、とうとう一緒に旅行することができなくなってしまったのです。

 その時、二人が争った問題とは、マルコという若い弟子の問題でした。後に『マルコによる福音書』を書くことになるマルコであります。まだ若かったマルコは、パウロとバルナバの最初の伝道旅行に一緒について行くのですが、途中で挫折をして帰ってしまったのです。そのことで、パウロは「途中で逃げ帰ってしまうような男は、伝道の意気を挫くだけだから、連れて行かない」と主張したのに対し、バルナバは「いや、彼はまだ若いのだし、もう一度チャンスをやるべきである」と主張したのです。結局、折り合うことができず、バルナバはマルコを連れて旅立ち、パウロは一人で旅立つことになったのでした。後に和解することになるのですが、パウロとバルナバの二人の性格の違いをよく表している有名な話です。

 こういうことは私たちの生活の中にもよくあるのではないでしょうか。いくら悔い改めたとして、一度信用を落とした人を、もう一度信用するというのは非常に難しいことなのです。バルナバという人は、パウロの活躍の陰に隠れてしまっていますが、その点では類い希なる賜物をもった人であったといえましょう。

 実は、パウロもこのバルナバの賜物の恩恵に浴した人物だったのです。パウロは、もともとはキリスト教の迫害の急先鋒にいたファリサイ派ユダヤ人でありました。そこから回心して伝道者になったのですが、当然、エルサレム教会の人たちは誰もパウロを信用しないのです。そういう時に、バルナバが真っ先にパウロを信用し、使徒たちへの仲介を果たしてくれたのでありました。ヨナに再びチャンスを与え給う神様の姿を見るときに、このバルナバのことを思います。そして、彼のこのような賜物は、神様ご自身のご性質からあふれてくる賜物であったのだということを改めて思わされるのであります。

 それから、もう一つ思いますのは、ペトロがイエス様に「何度まで人を赦すべきでしょうか。七度ですか」と尋ねた時の話です。同じ人を七回も赦すということは、それだけでもたいへんな愛だと思います。しかし、イエス様は、神様の愛を実現するためには、それだけでは足りない。七度を七十倍まで赦しなさいと言われたのでした。

 これは、イエス様は、四百九十回まで人を赦せと言われたという風に読めないことはありませんが、それよりも何回赦したと数えることをやめなさいという意味だと思うのです。私たちは人を赦しても、以前に犯した過ちを思い起こし、「あの時はこうだった。この時はこうだった」と数え上げてしまいます。一度犯した人の過ちは、決して忘れられることはなく、一生言われ続けることになるのです。そして、再び過ちを犯そう物ならば、「やっぱり、おまえはこういう人間だったのだ」と言われてしまうわけです。

 でも、神様の愛は違う。赦した罪を数え上げて、恩を着せたり、色眼鏡で人を見たりしない。赦した罪を再び問うようなことはなさらない。完全な赦しを与えてくださる。と、イエス様はおっしゃるのであります。ヨナの罪を赦し、地獄から引き上げてくださるばかりか、再び預言者としてお遣わしくださる神様の愛も、そのような愛なのであります。
視よ、新しくなりたり
 ヨナも、神様のそのような愛に応えて、こんどは直ちにニネベに行ったと言われています。3節

 「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。」

 ヨナはどうしてはじめからこのようにしなかったのかと、思います。しかし、ヨナのように一度死んで、生まれ変わらなければ、神様に従うことができないというのも本当ではないでしょうか。

 アンドリュー・マーレーという19世紀に活躍なさった南アフリカの牧師がいます。私は高校生の頃から、この人の書かれた本を何冊も読み、私の信仰の持ち方にも霊的な導きを受けてきました。数ある著作の中で、私がもっとも霊的感動を覚えたのは『謙遜』という書物です。謙遜というのは、究極的には神様にすべてを捧げて服従することでありますけれども、その書物の最初に私たちを謙遜にさせる三つの大きな動機ということが書かれています。

 「私たちを謙遜にさせる三つの大きな動機があります。謙遜は被造物であり、罪人であり、聖徒である私にふさわしいものです。第一の動機は、謙遜を、天の軍勢のうちに、堕落していない人間のうちに、人の子としてのイエスのうちに見ることです。第二の動機は、謙遜が、堕落した状態にある私たちに訴え、私たちが被造物としての正しい立場に帰ることのできる唯一の道を指し示すことです。第三の動機は、私たちの持っている恩寵の奥義が次のように教えていることです。すなわち、あながいの愛の圧倒的な偉大さのうちに、私たちが自分自身を失うとき、謙遜が、私たちにとって、永続する幸いと神への賛美を完成するものとなる、と教えていることです」(アンドリュー・マーレー、『謙遜』より)

 ちょっと難しい文章ですが、謙遜という言葉を、神様への服従と読み替えても良いと思います。どうしたら、人間は神様に服従する者になれるのか。一つは、天使やイエス様の御姿を見て、謙遜の麗しさを知り、謙遜こそ罪なき人間の真の姿を示していると憧憬の念を抱くことであります。もう一つは、自分の罪、醜さ、愚かさに気づき、自分が少しも誇るべきものもっていない人間であることを知り、否が応でも謙遜にさせられることであります。

 しかし、マーレーがもっとも重要だとするのは、第三の動機です。それは、神の恩寵をあまりの大きさ、深さを知ることによって、人間は神様の前に謙らせられるのだと言うのです。

 そこには、実はこういう警告もこめられています。多くの場合、謙遜というと、第二の動機ばかりが強調されるというのです。つまり自分は罪人であるとか、心の貧しい人間であるとか、愚かな人間であるとか、そういうことが謙遜の、あるいは神様への服従の一番の理由になりやすいのだというのです。しかし、そのような謙遜からは敗北者の惨めな思いがまとわりついているのです。ですから、喜びのない、感謝のない、賛美のない謙遜になってしまう。そうではなく、喜びで、賛美をもって、神様の前にへりくだり、従う者となるためには、第三の動機、つまり神様のあふれるばかりの恩寵によって謙らされることが必要だというのであります。

 なるほど、ヨナが経験したことは、まさに神の恩寵でありました。罪を知り、罪の裁きを知り、その上で、それを超えてあまりある神様の恩寵を経験したのであります。地獄をも地獄であり続けることを赦さない神様の憐れみの深さ、愛の偉大さを経験したのであります。パウロの言葉で言えば、「罪の増すところ、恵みもいや増せり」という、神様の愛の不思議を経験することでありましょう。

 そのような神の恩寵が、ヨナを新しい人間に生まれ変わらせたのであります。もう一度、魚の腹の中で祈ったヨナの祈りを見てみたいと思いますが、2章10節にこういわれています。

 「わたしは感謝の声をあげ
  いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
  救いは、主にこそある。」

 ヨナがここで「いけにえをささげて」と言っているのは、何か動物を捧げるということよりも、自分自身を神様に生きた供え物として捧げるということでありましょう。自分の身も心も、神様の御心のためにお捧げするということであります。救われた喜びが、ヨナをそのような人間として生まれ変わらせるのです。

再びニネベに
 新しく生まれ変わったヨナに対して、神様は逆に少しも変わることないお方でいてくださいます。罪の果てより帰還したヨナに与えられた神様の言葉、それはやはりニネベに行けということでありました。神様に背く前のヨナにも、背いて新しく生まれ変わったヨナにも、神様は同じことをお語りになるのです。それは、ヨナに対する神様の願いが少しも変わることがなかったということです。

 そのことを思いますと、ああ、すべては神様の御業であったのだと思わされるのです。つまり、逆らうヨナに、嵐を送り、海の沈め、魚に呑み込ませ、救い出される、そういうことを通して、神様はヨナを神様の御心を果たす人間へと造り替え、結局は神様の御心を果たされたのだなと思うのです。

 人間の愚かさ、貧しさ、罪深さですから、神様の御業を妨げることはできないのです。神様は、そのような人間を、強制する力をもってではなく、偉大な恩寵をもって、御心を行う人間に造り替えてまで、必ず御心を成し遂げられるのです。

 私たちは今どのような状態にあるのでしょうか。背く前のヨナでしょうか。御顔を避けて逃亡するヨナでしょうか。船底で眠りこけるヨナでしょうか。海に葬りこまれ地獄をみるヨナでしょうか。それとも、神の恩寵を受けて、感謝をもって従おうとするヨナでしょうか。

 実は、皆同じなのです。私たちは誰も、はじめから神様の御心に従える人間であるのではなく、このような神様の恩寵によって新しい人間として生まれ変わることが、必ず必要だからです。今、私たちがどのような状態にあるとしても、私たちを新しくしてくださる神様の御業によって、神様に従う者とされたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp