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いよいよ『ヨブ記』も最終章となりました。この最後の章は、ヨブの悔い改めとヨブの人生の回復について語られています。今日はこのうちヨブの悔い改めについてご一緒に学びたいと思います。
これまで、ヨブは決して悔い改めようとはしませんでした。友人たちが何度その必要を説いても、「自分は間違ったことはしていない」の一点張りで通してきたのです。ヨブは神様にまで噛みつきました。自分の運命を呪い、このような目に遭わせた神様に激しく抗議したのです。それが、神様の声を聞くやたちまち豹変し、「わたしが間違っていました」と告白をしたわけです。いったい、どうしてヨブの態度はこのように一変したのでしょうか。そして、ヨブは何を悔い改めたのでしょうか。
そのことを知るには、もう一度、38-41章にかけて神様がヨブにお語りになったことは何かということを考えてみる必要があります。全部で4章にわたる神様の言葉ですが、そのポイントは40章8節にあると思います。
「お前はわたしが定めたことを否定し
自分を無罪とするために
わたしを有罪とさえするのか。」(40:8)
神様は、ヨブの苦難を「わたしが定めたこと」と言われています。確かに、ヨブを試みることをサタンに許したのは神ご自身でありました。神の自由な裁量によって、それが行われたのであります。それならば、そのことに対する責任は神様ご自身が負っておられるということになりましょう。
これは人の運命を左右する重要な責任であります。だからこそ、ヨブも自分の運命に対する神の責任を追及してきたのだと言えます。どうして、神様は私をこんな目に遭わせるのか。どんな正当な理由があってのことなのか。どうか、そのことを説明し、納得させて欲しいと、詰め寄るのです。これは、誰でも苦難を背負わされた人間が必ず神様に問いたいと思うことでありましょう。だからこそ、ヨブの言葉が、私たちの胸に響くのです。
ところが神様は、このようなヨブの当然とも思える求めや問いに対して、直接的な回答を与えてくれませんでした。「全部わたしがしたことだ。しかし、それにはこれこれこういう理由があったのだ。君に辛い思いをさせて悪かったな」とは言ってくれれば、私のように意気地がない人間でも、「それならば頑張ります」と言えるかもしれないと思ってしまいます。けれども、実際の神様はそんな優しい言葉をかけてはくださらないのです。逆に、「全能者と言い争う者よ」、「神を責め立てる者よ」と、ヨブに厳しい態度で臨まれます。そして、「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか」と、ヨブの姿勢を厳しく問い糾したのでした。
これは、「わたしのやることに文句があるのか」という非常に高圧的な言葉に聞こえます。では、ヨブの悔い改めというのは、神様に力でねじ伏せられた結果だったということなのでしょうか。もちろん、悔い改めるヨブの心に神様への恐れがあったことは否定しません。しかし、恐れで縮み上がってしまったというのとは違うと思います。少なくとも、ヨブの悔い改めの言葉からは、そのような消極的な感じがしないのです。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。」(42:5-6)
ここには、神様を仰ぎ見たことによって、本当に満ち足りたヨブの姿が見られます。その満足をもって、これからは神様のなさるすべてのことに心からアーメンという信仰をもって生きていこうという、ヨブの積極的な、新たな目覚めというものさえ見受けられるのです。ヨブの悔い改めは、決して不承不承の悔い改めではないのです。
そうすると、いよいよ「何故、ヨブは悔い改めたのか」ということが気になります。それは苦難の問題に対して、何かしら積極的な解答を見いだしたからに違いないのです。
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それは、運命の神に対する信頼を回復したということです。ヨブの苦難は、神様が自由な主権をもってお定めになったこと、つまり運命でした。神様がそのようにヨブにお答えくださったのです。これはヨブにとって重要な意味を持ちました。つまり、自分が悪いことをしたから、こんな目に遭っているのではないということがはっきりしたのです。
しかし、人間は運命だからと言って何でも素直に受け入れられるわけではありません。愛する人との出会いのように、自分に都合の良い運命は諸手を挙げて歓迎しますが、苦難や災難のような不幸な運命については、どうしても納得できないのです。ヨブが神様に抗議したのも、そのことであります。ヨブはこんなことまで言いました。
「それならば、知れ。
神がわたしに非道なふるまいをし
わたしの周囲に砦を巡らしていることを。
だから、不法だと叫んでも答えはなく
救いを求めても、裁いてもらえないのだ。」(19:6-7)
このように神様を非道呼ばわりして憚らないヨブに対して、「お前は、わたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」と、神様は問われます。これによって、ヨブが気づかされたことのもう一つは、自分を是とすることに拘り続けることが、いつまでも神様を受け入れられなくしている原因なのだということであります。
ある本に、ヴィクトール・フランクルの次のような言葉が紹介されていました。孫引きですが、ご紹介させていただきます。
「わたしが犬になにかを指示するとき、指でなにかを示すと、犬は指の示す方向を注視しないで、指そのものを見る。犬が興奮しているときには、犬は指にパクリと咬みつく。要するに犬は指示のもつ記号作用を知らないであり、犬の世界では理解できないのである。では人間はどうか。超世界の側から発すると思われる記号を判断することが、人間の世界の側からは不可能なのである。苦悩の指し示す意味の理解や、人間にとって存在する指さしの理解ができない。さらにはその指にパクリと咬みつく。すなわち、人間は運命を恨むのである」
「超世界」というのは、神様の世界のことだと理解できます。そちら側から私たちの世界に発せられる「記号」とは、神の御業のことであります。なぜなら、神の御業には何らかの意味が込められているからです。けれども、人間はそれを理解できないと、フランクルは言います。だから、神様が与え給う運命にパクリと咬みついてしまうと言うわけです。
なるほど、と思わされる話です。それなら人間はどうすれば良いのでしょうか。たとえば、犬が人間の指示に従うようになるためには、人間が主人であることを徹底的に教えこませることだと言われます。そうすると、犬は人間の言葉を理解しなくても、だんだんその意味を学ぶようになり、それに従うようになります。ヨブもそうなのです。
「わたしは軽々しくものを申しました。
どうしてあなたに反論などできましょう。
わたしはこの口に手を置きます。
ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」(40:4-5)
ヨブは、知りがたい神の深い御心を知るためには、まず「自分を是とする」主張を止め、すなわち「神を非とする」ことを止め、沈黙することが必要だということを知ったのでした。自分の運命に対して、「どうして、どうして」と騒ぎ続けるかぎり、それは見えてこないのだということです。
そのようにしてやっと見えてきたのが、人知を超えた神様の経綸ということであります。経綸とは、神のご支配とその施策のことです。神様は38-41章にわたって、地の基、星、海、雲、高波、曙、光、闇、雪、風、雨、露、氷、霜、星座、獅子、烏、山羊、野ろば、野牛、駝鳥、馬、鷹、鷲、果てはベヘモット、レビヤタンと怪物に至るまで、神の創造の知恵と見事さを誇らしげに語り続けます。私たち一人一人は、そのような測りがたい神の御業の中に、しかも良き御業の中に生かされているのだということなのです。 |
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さて、このような神様の御言葉を受け止めて、ヨブはついに自らの思い上がりを悔い改めます。
「ヨブは主に答えて言った。
あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」(42:1-2)
「神の全能」が告白されています。しかし、より重要なことは「御旨の成就を妨げることはできない」という告白でありましょう。それは、神様は「わたしが定めた」と言われることを、責任をもって最後までになってくださる御方だと、信じるということです。
このような運命の神について、『イザヤ書』には、次のような御言葉があります。
「わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:4)
神様は私たちの「運命を支える御方」(詩編16:5)であり、私たちの人生を終わりの日まで責任をもって背負ってくださる御方なのです。
実は、ヨブは未だに、苦難の意味が分からないと告白しています。
「『これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。』
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。」(42:3)
ヨブは、神様が私に与え給う運命は私には理解できないということを、理解したのです。そして、それに関わらず、神様のなさることは讃美すべき御業であるということが、分かったのです。
「『聞け、わたしが話す。
お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」(40:4-5)
ヨブは、謙遜に「あなたのことを、耳にしてはおりました」と言います。しかし、実際は、ヨブは誰よりも神様のことをよく知っている人間だったに違いありません。しかし、そんなヨブですら、神様を目の当たりする時、「ああ、わたしはあなたのことを何も知りませんでした」と言わせるほど、神様は偉大な御方だということが分かったということです。
「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。」(40:6)
「塵と灰の上に伏す」とは、自分を塵から造られ塵に帰る存在であるということを受け入れることです。「自分を退ける」とは、神を非とし、自分を是とするような高ぶった自分を退け、自分を無きに等しい者にするということです。
しかし、それはいじけた卑屈さとは違います。仏教的な諦念とも違います。むしろ、本当の自分のあるべき姿を発見し、そこから新たに歩み出そうとする希望さえ感じるのです。自分の造り主なる神の本当の偉大さを知った者の喜び、自分の運命を受容し、神への応答としてそれを担っていこうとする勇気、このような希望をヨブにもたらしたのが、ヨブの悔い改めだったのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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