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2年10ヶ月に及んで学んできました『ヨブ記』も、とうとう今日が最終回となります。ヨブは見事に神様の試みに耐え抜き、以前にもまさる繁栄を与えられ、終わりの日まで穏やかに幸せの日々を生きたというのであります。
「主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。」(10節)
「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。」(12節)
「ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」(16-17)
しかし、このハッピーエンドは、『ヨブ記』の蛇足だと主張する聖書学者たちがおります。『ヨブ記』は42章6節で終わっているべきで、こんな結語は必要ない。きっと後世の人が余計な加筆をしてしまったのだというわけです。
確かに、7節以下にある「結語」は、とってつけたような気がしないではありません。特に10節以下は試練の後に享受したヨブの完全なる幸福を一生懸命に説明しようとしていますが、私たち読者には小骨が喉にひっかかったような違和感を覚えざるを得ません。なぜなら、最初に失った息子たち、娘たちのことはもうどうでもいいのか、そのことを忘れて「めでたし、めでたし」と喜んでいて良いのか、という気持ちがどうしても拭えないからです。
それに加えて次のような疑問も起こってきます。よく『ヨブ記』の結末を示して、今はどんなに辛くても信仰深くあれば神様はきっと幸せを回復してくださると説明する人もいるのですが、はたしてそれは現実に即した話だろうかということです。実際にはどんなに信仰深い人であっても、病が癒されなかったり、失った財産を回復できなかったり、苦難のうちに生涯を閉じるということが多いのです。
さらにまた、もし苦難を耐え忍んだ信仰者にはこのような物質的繁栄が約束されているという話であるならば、そもそもの『ヨブ記』の主題が非常に曖昧なものになってしまいます。それは「人は利益もないのに神を敬うでしょうか」というサタンが提起した問題です。
最後に、文章構造としても、6節と7節のつながりの悪さは否めません。ヨブの「自分を退け、悔い改めます」という言葉に対して、7節は「主はこのようにヨブに語ってから」と続くのはおかしいと思うのです。6節と7節との間に、何か神様の言葉があるならいいのですが、そうでないとしたら、7節以下はとってつけたような感が否めないのではないでしょうか。エリフの問題もあります。32-37章にわたって大演説を繰り広げたエリフが、7節以下の結語に登場しないのにも違和感があります。
そう考えますと、なるほど『ヨブ記』は42章6節で終わっていてもいいのではないかと思えてくるのです。すべてを奪われる苦難の中で、なをも神を仰ぎ、それ以外のなにものも求めずして満ち足りるヨブ、そこで終わっていた方が『ヨブ記』の迫真性を失わないで澄んだのではないでしょうか。
ところが、聖書には7節以下の結語がついています。私たちの聖書信仰からしますと、聖書に余計なこと、ない方がいいものなど書いてあるはずがないわけですから、この結語にも何らかの必然性があるに違いないのです。それは何か? そんなことを考えながら、この最後の段落を読んで参りたいと思います。
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『ヨブ記』の大半は、ヨブと三人の友人たちの議論に費やされてきました。結語では、まずその議論に対する決着が神様によって与えられています。
「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。『わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。』」(7節)
「お前とお前の二人の友人」と言われているのは、エリファズ、ビルダド、ツォファルのことです。神様は、この三人が「わたしの僕ヨブのように正しく語らなかった」ということを怒っているというのです。
この神様の怒りは、みなさん、納得できるでしょうか。確かに、三人の友人たちの主張はヨブと対立関係にありました。けれども、ヨブが正しくて、彼らが間違っていたと断言できるほど、その違いが明確だったとは言えません。ヨブも、三人の友人らも、同じ因果応報論に立って議論していました。しかし、ヨブが「わたしはこんな目に遭うような悪いことはしていない」と主張したのに対し、三人の友人らは「君がそんな目に遭うからには、何か悪いことをしたに違いない」と言ったのです。
それに、ヨブは神様に対してずいぶん酷い、攻撃なことを語り続けました。三人の友人らは、そのようなヨブに対して、神様を弁護する立場にいたのです。そうしますと、ヨブが正しくて、彼らが間違っているというのはいったいどういうことなのか、ちょっと首をかしげたくなるのです。
これについて浅野順一氏はこのように説明しています。
「『正しいこと』というのは確かなことであり、確かなこととは『ありのまま』と解するのが最も妥当であると思われる。何が最も確かなことであるか、それはありのままということではないか。如何ほど言葉を飾り、容姿を美しく見せようとしてもそれがありのままでなければ直ちに真相が暴露されてしまう。たとえもしありのままであれば、よし言葉は拙くとも、容姿は醜くとも、それは真実であり、確実である」(浅野順一、『ヨブ記 ―その今日への意義―』、岩波新書)
つまり「正しい」とは、苦難に問題に対して正解を答えたという意味ではなく、苦難というものをありのままに語ったということであるというのです。分かりもしないことを分かったとは言わなかった、ということです。神様に対してであろうと、友人たちに対してであろうと、ヨブは自分の心を偽らないで訴えた。それがヨブの正しさなのです。
それに対して、友人たちはヨブの苦難など少しも分からないにもかかわらず、分かった風な口をききました。神様について何も知らないにも関わらず、神の代弁者のごとく語りました。そこにどんなに理屈があろうと、教理的な正しさがあろうと、それは真実のない偽りの言葉なのだというのです。
人間というのは、どんなに勉強しても、経験を積んでも、神のような無謬さを持つことはできません。神様もそのような正しさを人間に求め給うことはありません。議論においても、祈りにおいても、神様が求められるのは心の姿勢です。そこに誠実さ、真実さがあることを神様は求めておいでなのです。
イエス様の喩え話の中に、「ファリサイ派の人と徴税人の祈り」というのがあります。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(『ルカによる福音書』18章9-14節)
正しい生活をしても、心が神様を畏れ敬っていないファリサイ派の人と、罪深い生活をしてながら心では神を畏れ敬っている人の祈りは、どちらが神様に届くのかという問題です。この場合でも、神様は心の真実さをご覧になるのだというのです。
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「『しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。』テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。」
神様は、真実を語らなかったヨブの三人の友人らに怒りをもたれましたが、彼らを厳しく罰するという思いはなかったようです。彼らとて、それなりにヨブの苦難をめぐって真剣に祈り、考え、議論しあったということを、神様は認めてくださっているのでありましょう。そこで、神様は、雄牛と雄羊を七頭ずつヨブのところに引いていき、それをもってヨブと共にわたしを礼拝しなさいということを、エリファズに命じられたのでありました。つまり、神様が、ヨブと三人の友人らの和解を取りなしてくださっているのです。
ヨブもまた、その神様の御心を悟り、三人の友人らと共に犠牲を献げて、神様を礼拝し、また三人のための執り成しの祈りをいたしました。こうして、ヨブと三人の友人らが和解をなし、共に神を礼拝することをもって、『ヨブ記』の議論は本当の意味で終結します。なんと素晴らしい結語ではありませんか。この結語は、決して蛇足とは言えない理由の一つがここにあるのです。
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これらのことがあった後、ようやくヨブの境遇が回復されたと、聖書は語っています。
「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。」
「ヨブが友人たちのために祈ったとき」というのは、ヨブが彼らを赦した時という風に読んでもよかろうと思います。この友人たちの赦しは、ヨブの悔い改めの実りであり、証しなのです。
ここを読みますと、山上の説教の中で、イエス様が兄弟との和解を勧めているくだりを思い起こします。
「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」(『マタイによる福音書』5章23-25節)
神様を礼拝するということは、神様への謙遜さを示すことでありましょう。それが真実の謙遜には、必ずその実りとして愛が伴います。なぜなら、愛とは自分を低くし、仕える者となって、自分を神様や人に与えることだからです。逆に、謙遜を装っていても、それが真の謙遜でない場合には、なかなか人を赦したり、人と和解するということができません。ですから、イエス様は礼拝する者は兄弟と和解するということを、礼拝との関係でお語りになったのです。
神様は、ヨブが友人たちと和解するのをご覧になって、ヨブの境遇を元に戻し、さらに財産を二倍にされたというのであります。すると・・・
「兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。」
ヨブが再び栄えだしたとき聞くと、どこからともなく親戚や旧友たちがヨブのもとに集まってきたというのは、何とも現金な話ではありませんか。ヨブは、このような苦難を経験して、人間の打算的な心というものがすっかり見えてきたに違いありません。それはそれでヨブには辛いことだったのではありませんでしょうか。
しかし、そういうことはおくびにも出さず、ヨブは彼らを歓迎し、食事を振る舞ってもてなしたようです。三人の友人たちとの和解同様、ここにもヨブの謙遜と愛とを見る思いがいたします。
「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。」(12)
『ヨブ記』1章3節には、「羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、」とありますから、財産はちょうど二倍になったということが分かります。
「彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」(13-17)
ヨブには最初、七人の息子と三人の娘がいましたが、すべて災難になって命を落としました。それがここで新たに七人の息子と三人の娘をもうけたと言われているのです。
けれども、最初にも申しましたように子供というのは一人一人が掛け買いのない存在です。十人死んだけれども、また十人生まれたから同じだというわけにはいきません。ところが、この『ヨブ記』の結語には先に亡くなった子供たちのこと、そのことでヨブが抱えている悲しみということに何も触れていないのです。
恐らくヨブは繁栄を回復した後も、過去を忘れなかったでありましょう。人間ならば、当然、失った子供のこと、雇い人のこと、自分を去っていった多くの人々のことなど、心に深く食い込んだものを到底忘れることはできないはずです。財産が二倍になろうが、健康が回復しようが、新たに十人の可愛い子たちが生まれようが、何かも忘れて喜ぶことができたのではないのです。
しかし、ヨブは別のことを喜んでいたと思います。それは42章5節に言われています。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」
ヨブに与えられた最大の幸福は、神を見ることにあったのです。たとえヨブの財産が失われたままであろうと、病が癒えぬままであろうと、神を見たということによって、ヨブの心はまったくの平和で満たされたのでありました。ですから、ヨブはそれ以上のものを願ったのではありません。たとえば、パウロが似たようなことを言っています。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(『フィリピの信徒への手紙』3章8-9節)
神を見たヨブもまた、自分が失ったすべてのものにまさるものを得たと思ったに違いないのです。神を見るならば、自分から奪われた子供らを神様がどのように取り扱ってくださっているかということも分かるからです。自分の肉体が病のうちに朽ち果てようとも、その後、自分が神様にどのように取り扱われるかが分かるからです。神様を見るならば、神のうちに慰めも、希望も、すべてのものを見いだすのです。
ですから、この点を間違ってはなりません。ヨブの救いは、繁栄が回復されることにあったのではなく、神を見ることあったのだということであります。
それならば7節以下はやはり蛇足かといえば、決してそうではありません。ここには復活の希望、天国の祝福というメッセージが隠されているのではないでしょうか。繰り返しますが、ヨブは神を見ることにおいて幸福の絶頂を経験しました。この地上の生涯はどんなに苦難に満ちていても、その中で、私たちは信仰を持って「神を見る」という幸福を戴くことができる、これが『ヨブ記』が告げる第一のメッセージでありましょう。そのように神を見る者が、必然的に経験する次のことが天国の祝福です。
確かに、私たちの地上の生は、苦しみや悲しみの連続かもしれません。そこには完全な平安というものはないと言ってもよいでありましょう。ヨブとて失った子供らの悲しみを忘れることが出来なかったように、です。しかし、『ヨブ記』の結語は、敢えてそのような悲しみについては触れず、あたかも完全であるかのような幸福を描きます。それによって、神は、最後には、つまりご自分の御許に私たちを引き寄せ給う時には、まことに苦しみも、悲しみもない完全なる祝福を用意してくださっているのだということを教えようとしているのではないか、それがヨブ記の第二のメッセージではないかと思うのです。神様という御方は、人間に徹底した信仰を求めるだけではなく、そのようものを心から愛し、慈しみ、祝福しようとしておられる御方なのです。
最後に、津田治子というハンセン病の歌人の歌を二首、ご紹介したいと思います
命終(みょうじゅう)のまぼろしに主よ顕(た)ち給え
病みし一生をよろこばむため
現身(うつせみ)にヨブの終わりの倖(しあわせ)は
あらずともよししぬびてゆかな
孫引きによる引用ですが、有名な歌だそうです。「ヨブのような幸せはなくても・・・」と歌っているところが胸にズシリと来ます。しかし、この津田さんにしても、『ヨブ記』を読んで、この結語のうちに天国の祝福を信じて生きられたのでありましょう。そのような力をすべての苦しめる者に与えんとして与えられているのが、この『ヨブ記』なのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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