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前回は河馬の姿を彷彿させるベヘモットという怪物の話をしました。今日は引き続いて、レビヤタンという怪物について書かれている所を学びます。レビヤタンは鰐ではないかとも言われています。たとえば、次のような箇所を読めば鰐そのものだとも言えましょう。
「誰がその顔の扉を開くことができようか。
歯の周りには殺気がある。
背中は盾の列
封印され、固く閉ざされている。
その盾は次々と連なって
風の吹き込む透き間もない。
一つの盾はその仲間に結びつき
つながりあって、決して離れない。」(41:6-9)
まさに扉という言い方がぴったりの大きく開く口、その中に並ぶとがった歯、背中のある立ヒレ・・・このような描写は鰐を物語っていると言えましょう。しかし、また鰐以上の怪物であると思わせるような描写もあります。
「口からは火炎が噴き出し
火の粉が飛び散る。
煮えたぎる鍋の勢いで
鼻からは煙が吹き出る。
喉は燃える炭火
口からは炎が吹き出る」(41:11-12)
口から火を吐き、鼻から煙りを吐く。鰐というよりも龍を思い起こさせる描写です。しかし、ベヘモットにしても同じですが、もしこれが単に神話上の空想怪物であるというならば、「わたしはこの獣をも造った」(40:15)という神様の御言葉が空しくなってしまうのです。実在するとするならば、現代人が未確認のそういう怪物が、ヨブの時代に存在していたということも考えられます。あるいは人間界の存在ではなく、天上界の存在であると理解することも可能です。しかし、いくら詮索してみても、結局は何も確かなことは言えないという結論に達することでしょう。私も、レビヤタンが何者かということについては、皆さんの想像力に任せることにいたします。 |
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レビヤタンが何者であるにしろ、一種の怪物であることには間違いありません。怪物というのは空想上の怪物ではなく、実在する怪物です。しかし、それは必ずしも化け物ではありません。たとえば「政界の怪物」なんて言い方をしますように、怪物の条件は、@人間に測りがたい存在であること、A人並みはずれた力を持っていること、です。レビヤタンは何者であるにしろ、人間には測りがたい存在であり、人には御しがたい力を持っていたということです。
「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ
その舌を縄で捕えて
屈服させることができるか。
お前はその鼻に綱をつけ
顎を貫いてくつわをかけることができるか。」(25-26)
鰐ならば人間が捕らえることができるでしょう。しかし、レビヤタンは、人間が捕らえたり、屈服させたりすることができないものだと言われています。
「彼がお前に繰り返し憐れみを乞い
丁重に話したりするだろうか。
彼がお前と契約を結び
永久にお前の僕となったりするだろうか。」(27-28)
「契約」という言葉があります。16-17世紀、イギリスのホッブスという政治学者が、この怪物の名前を冠した『リヴァイアサン』という本を書き、社会契約論を展開したことは有名です。私も、中学生の頃になったぐらいの知識しか持ち合わせないのですが、人間というのは自分の権利を振り回すと互い争い合うことになってしまうから、それを社会契約によって王様にあずけ、強大な権力絶対王政を敷けば世の中が平和になり、安定するのだという理論だったと思います。つまり、ホッブスのいうリヴァイアサン(=レビヤタン)とは、絶対的権力をもった君主制国家ということになります。しかし、聖書には、レビヤタンという怪物は、そんな風にとても人間とまともな契約を結ぶことはできないのだと言っているのです。そういう意味では、絶対君主制国家も、民がまともな契約を結ぶことができない独裁国家になるのがオチで、確かにレビヤタンだということができるのかもしれません。
「お前は彼を小鳥のようにもてあそび
娘たちのためにつないでおくことができるか。」(29)
レビヤタンは決してペットにすることはできません。鰐などは、ときどきペットとして飼っている人がいるようですが、同時に持て余して無責任に川や沼に放す人もいると言います。犬や猫、小鳥など動人間と仲良く暮らすことができる動物もいますが、すべての生き物がそういうわけではないのです。
「お前の仲間は彼を取り引きにかけ
商人たちに切り売りすることができるか。
お前はもりで彼の皮を
やすで頭を傷だらけにすることができるか。」(29-31)
鰐などは肉を食べることもあるようですし、ワニ革のバックや靴というのは高級品です。しかし、レビヤタンはそのように人間に利益を与えることはできません。
「彼の上に手を置いてみよ。
戦うなどとは二度と言わぬがよい。」(32)
この地上には、レビヤタンのように、人間の力では征服できないものがいくつもあります。たとえば台風とか、地震とかもそうでしょう。また、いくつかの病気もそうだと言えましょう。そういうものを克服しようとする人間の努力は非常に尊いものです。それを否定することは危険です。しかし、すべてのものを人間が屈服させることができるのだという幻想を持つこともまた危険なのではないでしょうか。レビヤタンというのは、そのように決して人間が退治することができない怪物なのです。
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「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。
見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。」
レビヤタンは人間が打ち負かすことができないもの、人間の手に負えないもの、人間が征服できないものです。それゆえ、レビヤタンは人間を圧倒し、人間の希望を打ち砕く存在です。これがレビヤタンという怪物の本質だと言ってもいいのではないでしょうか。
そうしますと、ヨブが直面した「理不尽な人生の苦難」もまた、一種の怪物レビヤタンだと言えるかも知れません。神様は、そのような苦難という怪物をもこの世界に創造し、またご支配なさっている御方なのです。そして、
ヨブに誇らしげにこのように語ります。
「彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。
いるなら、わたしの前に立て。
あえてわたしの前に立つ者があれば
その者には褒美を与えよう。
天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」(41:1-3)
この怪物を屈服させ、征服することができるのは、ただ神だけであると言われています。それによって、神様がすべてのものの上にいます御方であることが示されるのです。人間は決して神になることはできません。レビヤタンにしろ、苦難にしろ、そのことを人間に示し、主こそ神であるという神の栄光を表しているのです。
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レビヤタンの描写はさらに続きます。
「彼のからだの各部について
わたしは黙ってはいられない。
力のこもった背と見事な体格について。
誰が彼の身ごしらえを正面から解き
上下の顎の間に押し入ることができようか。
誰がその顔の扉を開くことができようか。
歯の周りには殺気がある。
背中は盾の列
封印され、固く閉ざされている。
その盾は次々と連なって
風の吹き込む透き間もない。
一つの盾はその仲間に結びつき
つながりあって、決して離れない。」(4-9)
最初にも申しましたが、鰐を彷彿させる描写です。しかし、レビヤタンは鰐以上の姿を持っていることが次に示されています。
「彼がくしゃみをすれば、両眼は
曙のまばたきのように、光を放ち始める。
口からは火炎が噴き出し
火の粉が飛び散る。
煮えたぎる鍋の勢いで
鼻からは煙が吹き出る。
喉は燃える炭火
口からは炎が吹き出る。」(10-13)
レビヤタンのくしゃみというのはユーモラスな表現ですが、そんなくしゃみ一つでも人間どもを震え上がらせるに十分な脅威を備えているということでありましょう。
「首には猛威が宿り
顔には威嚇がみなぎっている。
筋肉は幾重にも重なり合い
しっかり彼を包んでびくともしない。
心臓は石のように硬く
石臼のように硬い。」(14-16)
心臓は石のように硬い、というのは生命力の強さを言っているのでしょう。
「彼が立ち上がれば神々もおののき
取り乱して、逃げ惑う。」(17)
「神々」とは、人間が作り出して祭っている偶像の神々です。人間がこのような偶像を作り出してきた背景には、レビヤタンの存在があったであろうと思います。つまり、人間の手に負えない怪物を何とかして欲しいという祈りが、様々な神々を作り出すきっかけになったに違いないのです。しかし、それは人間の願望を偶像化したものに過ぎません。そのような神々は、レビヤタンに前にはまったく無力であるということがここで語られているのです。
「剣も槍も、矢も投げ槍も
彼を突き刺すことはできない。
鉄の武器も麦藁となり
青銅も腐った木となる。
弓を射ても彼を追うことはできず
石投げ紐の石ももみ殻に変わる。
彼はこん棒を藁と見なし
投げ槍のうなりを笑う。」(18-21)
人間のいなかなる攻撃も、レビヤタンには通用しません。恐らく核ミサイルをもってしても、人類の最高の叡智を結集しても、なお人間には打ち負かすことができない問題があるに違い在りません。人間が決して退治できないのがレビヤタンという怪物なのです。
「彼の腹は鋭い陶器の破片を並べたよう。
打穀機のように土の塊を砕き散らす。
彼は深い淵を煮えたぎる鍋のように沸き上がらせ
海をるつぼにする。
彼の進んだ跡には光が輝き
深淵は白髪をなびかせる。」
レビヤタンが地上を歩く様、また水中を泳ぐ様が記されています。彼の腹は鋭い陶器を並べたようで、その腹を地面にこすりながら通ると、まるで打穀機で土を掘り返したような後がつきます。また、水中で泳ぐと、波が荒々しく沸き立ち、白波がまるで老人の白髪のようであるというのです。
白髪というのは、老人に対する敬意を示す言葉です。たとえば、『箴言』には「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」(箴言20:29)という言葉があります。つまり、レビヤタンというのは単に力持ちというだけではありません。老練さをもった王者の風格をさえ漂わせているということがここで言われているのです。
「この地上に、彼を支配する者はいない。
彼はおののきを知らぬものとして造られている。
驕り高ぶるものすべてを見下し
誇り高い獣すべての上に君臨している。」(25-26)
この地上で彼にまさる存在はないと、レビヤタンへの偉大な賛辞をもって神の言葉は終わります。それは何を意味しているのでしょうか。ご自分の偉大さを誇示し、ヨブの無力さを思い知らせようとしているだけなのでしょうか。
確かに、神様はそのようにヨブを突き放します。どんな苦しみに遭っても、決して神様から目をそらさず、神様にしがみついて救われようとしてきたヨブを、「お前は何者だ」と繰り返し問い、突き放すのです。しかし、そのことによって、神様はヨブに何か大切なことを悟らせようとしているに違い在りません。
『ヨブ記』の最初で、神様がヨブについてサタンに語った言葉を思い起こしてください。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1:8)
神様は「地上で彼ほどの者はいまい」と、ヨブを誇っています。しかし、それはヨブがレビヤタンのようなこの地上で偉大な力を持っているからではありません。神様がヨブを誇るのは、ヨブが己を空しくし、神に従う者であったからなのです。すべてのものを失っても、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と、神様を讃美するヨブ。「いつまで無垢でいるのですか。神を呪って死んだ方がましでしょう」と言う妻に対して、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と諭すヨブ。たとえ無力であっても、何も持たぬ者であっても、このような信仰を持つヨブを、神様はレビヤタンにまさって愛し、誇りとなさっていたのです。
しかし、サタンの厳しい試みによって、さすがにヨブのその信仰もぶれてきたことは否めないでありましょう。ヨブは、神様と争う者になってしまったのです。
人間が神様と争って勝つことはできません。神様は、そのようなヨブを厳しく突き放すことによって、もう一度、ヨブに正しい位置を与えるのです。つまり、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と言っていた時に、ヨブが持っていた神様に対する位置です。神を神とし、自らを人間に過ぎない者としてわきまえる位置だと言ってもよいでありましょう。
神が神の位置におり、人が人の位置にいるということが大切なのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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