ヨブ物語 55
「ベヘモットを見よ」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記40章6-24節
神の徹底さ
 ヨブは神様に問い続けてきました。そして、ついに神様がそれにお答えくださったのです。しかし、その神様のお声は、私達が期待するような苦難の説明でもなければ、慰めと励ましに満ちた優しいお言葉でもありませんでした。散々苦しみ抜いてきたヨブに、「お前はいったい何様のつもりか」と、たいへん厳しいことをおっしゃるのです。神様は天地万物の創造者であり、ヨブはその一つの被造物に過ぎません。そのことを、神様はヨブに突きつけて、分際をわきまえよといわれたのでした。

 これを聞いたヨブは次のように答えます。

 「わたしは軽々しくものを申しました。
  どうしてあなたに反論などできましょう。
  わたしはこの口に手を置きます。
  ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
  ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」(4-5節)

 前回は、このヨブの言葉を読んで、二つのことをお話ししました。ひとつは、神様のお言葉の中身が何であれ、ヨブは神様と出会うことによって満ち足りることができたのだということです。

 神様の応答の中には、ヨブが問い続けて来たことに対する説明や答えはありませんでした。それにも関わらず、ヨブは重ねて神様に問おうとはしません。逆に言うと、ヨブが苦しみの中で求めていたのは、苦難の説明ではなく、神の存在そのものだったということではありませんでしょうか。人はいくら苦難の説明を聞いたところで、その納得をして受け入れられるものではありません。しかし、この苦難の中に神様がおられるのだということが分かれば、それで満ち足りることができるのであります。

 もうひとつのことは、ヨブは神に敗北することによって、サタンに勝利したということです。神に敗北するとは、人間が自分は神ではないことを認め、神を神とすることです。そのようにヨブが謙って、神を神として認めた瞬間、サタンの敗北は決定的になったのでした。

 サタンの目的は、人間を神様から引き離すことであります。そのために、サタンは様々な手法を駆使します。たとえば貪欲を与え、人間が神以外のものを愛するようにします。また傲慢を与え、人間が神様を見下すようにします。あるいは失望を与え、神様に対する信頼を奪います。このようなサタンの誘惑に勝利するためには、謙って神を神とする信仰が私達の内に徹底的に貫かれていなければならないのです。

 そして、そのような徹底さは、私達が自分の力で用いうるものというよりも、神様が神様であろうとする徹底さによって私達に与えられるものだと言えます。40章4-5節に示されたヨブの遜りを見ても、なお神様がヨブにご自分をお示し続けられるのも、そのような神の徹底さの現れであろうと思うのです。

 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
  男らしく、腰に帯をせよ。
  お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。」(6-7)

 38章で、最初に神様がヨブにお答えになった時とほぼ同じ言葉で、二回目の神様のお言葉が始まります。腰に帯をせよ、というのは戦いの準備をせよということです。ヨブは「もう繰り返しません」と神様と争う気持ちがないことを表明しました。それでもなお、神様はヨブの心の中に存在するわだかまりを見逃さなかったのでありましょう。神様は、ヨブを完全にご自分のものとするために、徹底的にヨブを打ち砕こうとするのです。
神は正しい

 「お前はわたしが定めたことを否定し
  自分を無罪とするために
  わたしを有罪とさえするのか。」(8)

 今まで神様のお言葉は、神の栄光を一方的に物語るばかりで、ヨブが問い続けてきたこととまったく噛み合っていないようにも聞こえましたが、ここではじめてヨブの問いに直接答えるような神様の言葉がでてきます。

 「無罪」「有罪」とありますのは、正しさのことであります。私達はしばしば不当な仕打ちを受け、「わたしは正しい。間違っていない」ということを強く思うことがあります。多くの場合、それは神様に向けられるというよりも、人や世の中に向けられることが多いのですが、しかしそれとて行き着く先は「どうして神様はこんなことをゆるしておられるのか」ということであり、神様に対する自己の義の主張に陥ることを忘れてはなりません。私達はどんな時にも、自分の正しさではなく、神様の正しさを信じ、またそれを主張し続けなければならないのです。

 すべてのことにおいて神の正しさを信じるとは、この世に悪が存在しないということでは行っているのではありません。しかし、『ヨブ記』を読めばわかりますように、サタンですら神の僕であることに変わりがないのです。サタンは、神様に逆らいつつも、神様の許可のもとにヨブを誘惑しています。サタンをもう一人の神とするような善悪二元論とはまったく違うのです。

 神様がサタンのような存在を許しているのはなんとも不思議であります。その神様の御心を私達が完全に説き明かすことはできないでありましょう。ただ、こういうことは言えるのではないでしょうか。サタンがいない世界、神に従うこと以外に選択肢のない世界で人間が神様に従っているというのと、サタンが存在する中でなおも神を選び取り、神様に従う信仰を示すというのでは、ぜんぜん意味が違ってくるということです。神様は、サタンのいない世界というよりも、私達が信仰によってサタンに勝利し、サタンを無力化する世界を願っておられるのではないでしょうか。

 しかし、私達がサタンに勝利するというのは、まるで神のようになって、あるいは神に成り代わって、サタンを打ち負かすということではないのです。先ほどお話ししましたように、むしろ力を棄て、神様の前に謙るということが必要なわけです。

 「お前は神に劣らぬ腕をもち
  神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。
  威厳と誇りで身を飾り
  栄えと輝きで身を装うがよい。
  怒って猛威を振るい
  すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし
  すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き
  神に逆らう者を打ち倒し
  ひとり残らず塵に葬り去り
  顔を包んで墓穴に置くがよい。
  そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。
  お前が自分の右の手で
  勝利を得たことになるのだから。」(9-14)

 お前は神なのか? と神様はヨブを問いつめておられます。あなたの腕は神のごとき力をもっているのか? そうであるならば、自分の右の手で勝利してみよと、神様は言葉を重ねます。

 右手というのは利き手で、力と支配の象徴です。昔、詩編の詩人はこのように歌いました。

 「主はあなたを守る者
  主はあなたの右の手を覆う陰である」(詩編121:5)

 神様があなたの右手を覆ってくださるとは、神様が私達の力となり戦ってくださるという意味であります。このように神様の御力のもとに自分を低くしていることこそが私達の「安全」なのです。

 「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロ1 5章6-7節)

 神様は、ヨブが被造物のひとつに過ぎず、決して神ではないことを徹底的に知らしめようとされます。それはヨブをまことの人間とし、神様の庇護のもとでサタンから守り、サタンに対する勝利を与えるためなのです。
ベヘモットを見よ

 「見よ、ベヘモットを。
  お前を造ったわたしはこの獣をも造った。
  これは牛のように草を食べる。」(15節)

 ベヘモットとは何でしょうか? 

 「お前を造ったわたしはこの獣をも造った。
  これは牛のように草を食べる。」

 ベヘモットは、神の被造物のひとつで、牛のように草を食べる獣だと言われています。

 「見よ、腰の力と腹筋の勢いを。」(16)

 当時、獣の力の座は腰にあると考えられていました。ですから、これはベヘモットが驚くべき力をもった獣であるということです。

 「尾は杉の枝のようにたわみ
  腿の筋は固く絡み合っている。」

 ベヘモットは、「河馬」であると言われてきました。しかし、「尾は杉の枝ようにたわみ」という記述は河馬の姿と合っていません。

 「骨は青銅の管
  骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。」

 骨は体を支える部分です。やはりベヘモットの並々ならぬ力の持ち主であることを描写しているのです。

 「これこそ神の傑作
  造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。」

 ベヘモットは、神様の傑作であると言われています。では、他の動物はどうなのかと言いたくなるのですが、もちろん他の動物も決して手を抜いて造ったというわけではありません。しかし、ベヘモットというのは「造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない」と言われていますように、神様しかベヘモットを征服することができるものはいないというのです。そういう意味で、ベヘモットの存在は神の支配の力強さを表していたのでした。

 「山々は彼に食べ物を与える。
  野のすべての獣は彼に戯れる。
  彼がそてつの木の下や
  浅瀬の葦の茂みに伏せると
  そてつの影は彼を覆い
  川辺の柳は彼を包む。」

 ベヘモットは驚異的な力を持つ存在ですが、決してその力をもって自然の秩序を乱すようなものでははなく、祝福された存在であることが言われています。

 「川が押し流そうとしても、彼は動じない。
  ヨルダンが口に流れ込んでも、ひるまない。」

 ベヘモットはヨルダン川に住んでいたのでしょうか? 学者の説によると、ヨルダンというのは固有名詞としてではなく、一般的な意味で「川」を意味する言葉としても用いられたらしいといいます。そうすると必ずしもヨルダン川に限定する必要はないということになります。

 さて、ベヘモットとはいったい何者なのか? 河馬のようであり、河馬ではない謎の怪獣だと言われています。実存するのかどうか疑う学者もいますが、「わたしが造った」と神様が言われているのですから実在することは間違いありません。

 神様は、このベヘモットをヨブに示し、最後にこういわれました。

 「まともに捕えたり
  罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか。」

 ベヘモットは、この世には決して人間の自由にならない存在があるのだ、そういうものをも神様がお造りになったのだということを言うために、ここに登場してくるのです。

 私達の人生にも、ベヘモットのように思い通りにならない存在が出てきます。征服できない問題がでてきます。神様はそのような存在をこの世界に、また私達の人生にお造りになりました。それは、私達の思い上がりを打ち砕き、神を認めさせるためなのです。
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