ヨブ物語 54
「口に手を置くヨブ」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記40章1-5節
肩すかし
 38-39章と、神様がヨブにお答えくださった言葉を読んできました。正直なところ、皆様はこれを読んで何と感じられたでしょうか。さすが、神のお言葉には説得力がある。これでさぞかしヨブの心も晴れたであろう。こんな風に感心し、納得なさいましたでしょうか。

 私は、はじめて『ヨブ記』を読んだ時、はっきり言って失望しました。なぜなら、三人の友人やエリフがどんなに言葉の限りを尽くしても説明できなかったことを、神様ならば見事に、すっきりと説明してくださるだろうという期待をしていたからです。ところが、神様は少しも説明なされずに、やれオリオン座がどうだとか、駝鳥がどうだとか、人間の苦難の問題や世の理不尽の問題とはまったく関係ないようなことばかりをヨブに聞かせます。これでは何の説明になっていないのです。

 ヨブは真剣勝負の直球を神様に投げました。このヨブは、われわれ人間の代表選手でもあります。だからこそ、ヨブが放った直球を、神様もしっかりと受け止めて欲しい。そして、神様の返事も、ストレートに投げ返して欲しい。ところが、神様はヨブに肩すかしを食らわたのです。

 確かに神と人間は格が違います。我々人間にはオリオン座をどうにかしたり、野生動物の神秘を知りつくしたりすることはできません。しかし、苦難の問題、理不尽の問題を神様が受け止めてくださらないならば、いったい誰が受け止めてくれるのでしょうか。

 それだけではありません。神様は我々人間に過ぎない者が決して受け取ることができないような豪球を投げ返してきたのです。

 「ヨブに答えて、主は仰せになった。
  全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
  神を責めたてる者よ、答えるがよい。」(1-2節)

 なぜ、神様はヨブにこのような仕方でしかお答えくださらないのでしょうか。
神との出会い
 もちろん、それは理由のないことではありません。内村鑑三はこう言っています。

 「神学者はその豊富なる神学をもっていよいよヨブを苦しめ、エリフは同情をもって少しく彼を慰むるを得しといえども、神は最後にご自身を示したまいて彼を満足せしめたもうた。もし説明ありとすれば、最初の一、二章にあるのである。これは天上にあった事にて、地上のわれらにはその由をうかがい知ることはできぬ。神は説明をもって人類の苦痛を除かんとはされない。説明はいかに光明をいかんともすることはできない。人生苦痛の解釈は、イエス・キリストによりて神に接することのただ一つあるのみである。」

 たしかに私達は説明を求めるけれども、説明さえ聞けば何でも納得するというわけでもありません。説明が、私達の頭脳を納得させたとしても、心が納得しないということはよくあるのです。心が納得しなければ、苦しみは消えません。しかし、肉体の苦痛があろうと、心の苦しみが消えるならば、その苦痛や艱難に感謝し、賛美することもできるようになるのです。

 では、どうしたら苦しみの中にあって心が納得するのでしょうか。それは説明ではなく、信頼から起こることではありませんでしょうか。説明があっても、神への信頼がなければ心は納まりません。逆に説明がなくても、揺るぎない神の愛への信頼があるならば心も動じないのです。

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(『ローマの信徒への手紙』5章3-5節)

 ここで、パウロは苦難の有益性を力説しているのではありません。神の愛が注がれているならば、そういうことが信じられるようになる。そして、苦難の中にあっても誇りとか、喜びというものを失わないで生きていけるということを言っているのです。

 別の言い方をしますと、説明というのは一種の情報であります。情報は知識にはなるかもしれませんが、信仰を生むわけではないのです。ヨブや苦難の中にある人間が求めているのは、決して情報ではありません。神の口から語られる言葉なのです。

 そのような言葉には、たとえどんなに厳しい言葉であっても、その奥に隠されている神様の御心というものが感じられてくるものでありましょう。たとえば「馬鹿野郎!」という言葉にしても、それが情報として伝わってくるならば、それはただただ口汚い罵りとしか受け取れないのです。けれども、あなたを愛する人の口から「馬鹿野郎!」という言葉を聞くならば、罵りながらも実は励ましているのだとか、諭しているのだとか、その人の隠された気持ちを受け取ることができるわけです。それが言葉と情報の違いです。情報ではなく言葉には、人格のふれあいを与える力があり、それによって人の心に信頼や安心、また後悔や奮起といった力を与えることができるのです。

 ヨブが求めているのは、表面的には「どうしてですか」と説明情報のようですが、実は苦難によって見えなくなっていた神様と再会することなのです。それさえ果たせば、苦難がそのままであっても、ヨブは納得できたはずなのです。そういうことが神様にはちゃんと分かっていますから、苦難の意味とか、不条理の意味とか、そんなことではなくて、ご自身をヨブにお示しくださった。それがこの38章以下にあるヨブへの神様のお答えなのです。
口に手を置くヨブ
 ヨブが、急に神様の前におとなしくなってしまったのは、そういう理由によります。

 「ヨブは主に答えて言った。
  わたしは軽々しくものを申しました。
  どうしてあなたに反論などできましょう。
  わたしはこの口に手を置きます。」 (3-4節)

 ヨブは説明を聞くことはありませんでしたが、神様の声を聞き、ああ、神様はわたしの言葉を聞いていてくださったのだ。そして、わたしに御顔を向けてくださっているのだ。そういうことが、神の声を聞くことによって分かって、もう一度「主が与え、主が取り給う。主の御名はほむべきかな」という心が戻ってきたわけです。

 わたしが面白いなあ、聖書っていうのは人間というものを実にリアルに示しているなあと思うのは、ヨブが口に手をあてたという部分です。ヨブは、神様の御声を聞いて、神と言い争うなんてとんでもないことをしてしまったと気づき、もう二度とそんなことは言いませんと、そのことをこのような子どもっぽい所作で示ししているわけです。

 けれども、これはただの子供っぽさでしょうか。想いますに、やはりヨブの中にはくすぶっているものが相当残っていたのだろうと思います。けれども、そういうことを神様に言うことができる立場にいないのだ、ということがヨブに分かったのです。ですから、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。」と言います。けれども、うっかりすると「しかし」とか「でも」という言葉が出てしまいそうになったのではないでしょうか。

 私達も、自分が悪いということが分かっても、つい言い訳であるとか、「しかし」「でも」という余計な一言が出てきてしまうことがあります。「ごめんなさい、しかし・・・」「わかりました、でも・・・」そんな経験はありませんでしょうか。ヨブは、そういうことを神様にしないようにするために、慌てて口を手で押さえて、「神様、もういいません」と言ったのだと思うのです。

 すると、神様は再度、ヨブを厳しく問いつめ、そのようなヨブの中にくすぶっているもののすべてを打ち砕かれようとします。こうして始まるのが、40章6節から41章にかけての神様の言葉なのです。それについては、次回以降に学びたいと思います。
神に敗北するヨブ
 今日は、もう少しヨブの神に対する応答にこだわってみたいと思います。

 「ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
  ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」(5)
 
 「もう主張しません」とは、何を主張しないということでしょうか。これまで「自分の苦しみは神様のせいだ。神様は間違っている」と言ってきたことをもう言わないということですが、それは「やっぱり、神様のせいではなく自分自身の問題だったのだ」ということではないわけです。実際、ヨブは義人であるが故に試みを受けているのですから、自分が悪かったということを認めさせるのが神様の目的であろうはずがないのです。

 では、ヨブが「もう主張しない」と言ったのは、どういう意味でしょうか。それは、自分の義をもって神様と争おうとした態度を放棄するという意味に違いありません。そのようなことをするのは、被造物としての分を超えたことだと認めるという意味です。 

 ヨブは「わたしは軽々しくものを申しました」と言っています。果たして、ヨブはそんなに軽々しくものを言ってきたのでしょうか。決して、そんなことはありません。最初に申しましたように、ヨブは真剣勝負の直球を投げてきたのです。ヨブの言葉は確かに乱暴な時もありましたが、その中にはどんな理不尽、苦しみの中にあっても義なる神様を見いだそうとする必死な姿勢があったのです。そこに私達も励まされてきました。

 しかし、ヨブはそんな自分の姿まで否定して、私は軽率でしたというのです。ヨブは自分が正しのだから、神様が間違っていると言ってきました。しかし、たとえ自分が正しくても、神様のなさることはやはり神様のなさることとして認めるべきなのだということを、ヨブは認めたのです。もう神様を否定するような主張しませんというのです。これは神様に対する敗北宣言であり、同時にサタンに対する勝利宣言なのです。ヨブが神を神として認めた瞬間であるからです。

 普通、負けを認めるということは惨めなことであり、希望を失うことであります。しかし、神様に対しては違います。人間が神を神としないこと、自分が神にようになろうとすること、自分が神よりも上位に立とうとすること、これこそサタンの思うつぼであり、サタンに勝利を与えることなのです。エデンの園でアダムとエバを誘惑した蛇もそうです。

 「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」(『創世記』3章4-5節)

 自分を神と等しきもの、並ぶものにしようとする時、人間は神の掟を離れ、サタンの虜になるのです。神の保護を離れ、サタンの餌食になるのです。神に勝利しようとすることによって、サタンに敗北するのです。

 しかし、ヨブはこのようなサタンの誘惑に勝利します。いや、神様からこの勝利を与えられます。それは何か。神に負けを認めるということなのです。

 こうして考えてみますと。『ヨブ記』というのは、旧約聖書におけるゲッセマネの祈りだということができるかもしれません。ゲッセマネの祈りというのは、イエス様が「できるなら、この杯を過ぎ去らせてください」と、まさに苦しみの中でのたうち回るようにして祈るのです。しかし、最後に「もしこの杯を飲み干さない限り、御心が全うされないというのならば、御心に従います」といって、十字架の道を歩まれたわけです。

 イエス様も、神への敗北宣言をしたのでした。それは、神を神として認めるということです。そして、子として分際を超えないということです。そうすることによって、イエス様はサタンに打ち勝たれたのです。

神を知る
 ギリシャのソフィストの教えの中に「人間万物尺度論」というものがあったそうです。たとえば人間に害を及ぼす虫は害虫と言ったりしますが、それは人間を中心の考え方で、その虫を絶対的に害ある存在とするわけではありません。しかし、「人間万物尺度論」というのは、人間の尺度こそ真理であるというわけです。それに対して、ソクラテスは「汝自身を知れ」と教えました。自分を絶対化したり、神のように振る舞うのは、自分というものを知らないからだというわけです。

 さらに進めて言いますと、宗教改革者カルヴァンの『キリスト教綱要』の中で「神を知る知識とわれわれ自身を知る知識とは結びあったことがらである」と言っています。つまり、自分自身を知るためには、神を知ることが必須であるということを言うわけです。

 神を知らなくても、自分のことぐらい自分で知ることができるというのは大きな間違いです。本当の神様を知らなければ、人間は本当の自分の姿を見ることはできないのです。たとえば「私は何も悪いことはしていない」とか、「私は絶対に正しい」とか、「助けなんていらない」とか、そういうことをよく言う人がいますけれども、本当の神様を知った人間には決して言えないことなのです。

 では、神を知るとはどういうことでしょうか。「わたしは神を見た」とか、「神の声が聞こえる」とか、そういう霊能力を宣伝する人がいますが、そういう人たちは神も自分も知らない人たちに違いありません。神を知るということは、神ではない自分を知るということ、罪深く、神から遠く離れた存在である自分を知るということなのです。

 ですから、神を知る人間は、神の前に打ち砕かれた人間になります。神を畏れる人間になります。そして、謙遜にさせられるのです。まさしく、ヨブはそのような体験、神を知り、自分を知る体験をしたといえましょう。

 「わたしは軽々しくものを申しました。
  どうしてあなたに反論などできましょう。
  わたしはこの口に手を置きます。
  ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
  ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」

 このヨブの敗北宣言は、神の発見の言葉であり、同時に新しい自己の発見を言い表した言葉であり、またサタンに対する勝利の言葉なのです。
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