ヨブ物語 53
「鳥獣戯画」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記38章39-39章
鳥獣戯画
 嵐の中から轟いた神の声は、ヨブにこの地球の海と空と大地の広がり、深み、またそこにおいて繰り広げられている気象のダイナミックな動きについてお語り、お前は神と同じ事ができるか? と、問い質されました。もちろん、そんなことが出来るはずもありません。私達は神様が支えてくださる大地、神様が降り注いでくださる陽の光や季節の雨の中で守られ、生かされているのです。そんなことも忘れて、あたかも神様が自分に敵対しているかのように自分の不幸をかこつ事の愚かしさを、神様はヨブに教えておられるのでありましょう。

 今日はその延長線でありますけれども、38章の終わりから39章にわたって、様々な動物たちの不思議な世界が描かれているのを読みました。

 38:39-41  獅子とカラスの子に食物を与える神
 39: 1- 4  山羊の牝鹿の出産と子育て
   5- 8  野生のろばの自由さ
   9-12  手に負えない野牛
   13-18  駝鳥の無知
   19-25  馬の勇ましさ
   26-30  鷹と鷲の生態

 さしずめ聖書版「鳥獣戯画」と言ったところでしょうか。鳥羽僧正は猿や兎や蛙で世の中を描き、社会を風刺しましたが、聖書は人間に不思議や奇異に見える動物たちの世界を描き、人間中心の世界観を批判しているのです。 
獅子とカラスの子

「お前は雌獅子のために獲物を備え
 その子の食欲を満たしてやることができるか。
 雌獅子は茂みに待ち伏せ
 その子は隠れがにうずくまっている。
 誰が烏のために餌を置いてやるのか
 その雛が神に向かって鳴き
 食べ物を求めて迷い出るとき。」(38:39-41)

 ライオンとカラスの雛、面白い取り合わせです。ライオンは強いものの代表であり、カラスの雛は弱いものの代表でありましょう。しかし、どちらも自分の種を蒔くこともせず、刈り入れることもなく、倉に蓄えることもしません。そうです。イエス様のあのお言葉と同じ事がここで言われているのです。

 「鴉(からす)を思ひ見よ。播かず、刈らず、納屋も倉もなし。然るに神は之を養ひたまふ」(文語訳『ルカ傳』12章24節)

 神様は強き獅子の食欲を満たすと共に、弱き鴉の雛の命も養われます。神様は人間の天の父でもありますが、それだけではありません。地球上のすべての生命を御心に留め給う天の父なのです。大いなるもの、小さきもの、そのすべてに神様は天の父としての慈愛の眼差しを向けてくださっているのです。

 私達の人生にも色々と厳しい試練というものがありますけれども、イエス様は「あなたがたは空の鳥にまさり、野の花にまさる」と仰ってくださいました。「それゆえ思い煩うな、恐れるな、信仰を持て。御国をくださるのは天の父の御心である」と、仰ってくださったのであります。 
岩間の山羊

 「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。
  雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。
  月が満ちるのを数え
  産むべき時を知ることができるか。
  雌鹿はうずくまって産み
  子を送り出す。
  その子らは強くなり、野で育ち
  出ていくと、もう帰ってこない。」(39:1-4)

 岩場に住む山羊や牝鹿の出産また子育てについて描かれています。一つは、岩場、断崖のような厳しい所で平気で暮らし子を産み育てる不思議。もう一つは、誰から教えてもらうわけでもないのに、きちんと子を産み、育て、乳離れ、親離れさせていくことの不思議。

 人間などは至れり尽くせりの温々とした環境があっても、幼児虐待、育児ノイローゼ、過保護、子離れできない親、親離れできない子と、子どもを生み育てるというのは本当に大きな悩みであります。しかし、動物にはそういう悩みがありません。出産の苦しみの動物の母親も同じでしょうが、それに対する恐れもありません。

 いったい何が違うのでしょうか。それは動物には神への疑いというものがないのです。そして、大自然の生命の親である天の父なる神様への絶対的信頼の中で、その生を営んでいるからです。
野生のろば
 「誰が野生のろばに自由を与え
  野ろばを解き放ってやったのか。
  その住みかとして荒れ地を与え
  ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。
  彼らは町の雑踏を笑い
  追い使う者の呼び声に従うことなく
  餌を求めて山々を駆け巡り
  緑の草はないかと探す。」(39:5-8)

 野生のろばについて描かれています。野生のろばは家畜のろばとは違い、まったく自由奔放で御しがたい動物とされています。彼らは、人間なら一日とて住めそうもない荒れ地、不毛の地をわが家として、いななき駆け回ります。また荒涼とした地にありながら、ちゃんと青草を探し出して暮らしています。

 一方、家畜のろばは人間に小屋を与えられ、干し草を与えられ、暑さ寒さに悩むことなく、飢えることもなく、人間の家族のように大切に世話をされています。その代わり、綱につながれ、自由に野山を駆け回ることはできず、人間のあらゆる使役に耐えなければなりません。

 どちらが幸せなのでしょうか? どちらとも言えません。野生のろばを綱につないで家畜にしようとすればストレスで病気になるかもしれません。家畜のろばを荒れ野に放して自由にしたら飢え死にしてしまうからもしれません。それぞれ住む世界が違うのです。そこが大切です。神様はそれぞれに違う世界と違う生き方をお与えになりました。どちらもありなのです。幸せというのは、神様が与えてくださった人生を、与えてくださった場所で、野生のろばは野生のろばらしく、家畜のろばは家畜のろばらしく生きることなのです。

 それを、人間は何もかも自分の人生観で測ろうとすることがないでしょうか。野生のろばは家がないから可哀想だと言ってみたり、家畜のろばは自由がないから可哀想だと言ってみたり・・・しかし、それは人間の見方にすぎないのです。

 自分自身の幸せについても同じです。自分の人生に何が与えられているか、何が与えられていないかは問題ではありません。神様が与えてくださったものを「アーメン」と言って受け取ることができる人は、人から見てそれがどんなに試練の多い人生であろうと幸福感をもって生きることができます。しかし、人がうらやむばかりの人生であっても、こんなのは嫌だと自分の人生を拒否をしながら生きる人はいつも不幸感の中に生きることになるのです。
手に負えない野牛
 「野牛が喜んでお前の僕となり
  お前の小屋で夜を過ごすことがあろうか。
  お前は野牛に綱をつけて畝を行かせ
  お前に従わせて谷間の畑を
  掘り起こさせることができるか。
  力が強いといって、頼りにし
  仕事を任せることができるか。
  野牛が穀物をもたらし
  実りを集めてくれると期待するのか。」(39:9-12)

 野牛は、野生のロバ同様に奔放で、しかもそれ以上に荒々しく、決して人間が飼い慣らすことはできない動物です。人間の手に負えない動物も、神様はこの地上にお造りになったのです。

 最近は、いろいろな生き物がペットとして飼われるようですが、結局は人間の手に負えなくなって無責任に捨てられるという事が問題となっています。鎌倉あたりでは本来日本にいるはずのないアライグマが野生化して住み着いていると言います。ブラジル産のヌートリアなんていう巨大なネズミのような生き物を日本各地で見られるといいます。先日は琵琶湖でピラニアが発見されたというニュースを聞きました。何でも人間の思い通りにしようとするエゴの結果です。 
駝鳥は愚かなのか?
 「駝鳥は勢いよく羽ばたくが
  こうのとりのような羽毛を持っているだろうか。
  駝鳥は卵を地面に置き去りにし
  砂の上で暖まるにまかせ
  獣の足がこれを踏みつけ
  野の獣が踏みにじることも忘れている。
  その雛を
  自分のものではないかのようにあしらい
  自分の産んだものが無に帰しても
  平然としている。
  神が知恵を貸し与えず
  分別を分け与えなかったからだ。」

 どうも駝鳥は嫌われ者のようです。卵を地面に産みっ放しにして抱き温めようとせず、野の獣が踏みにじったり、場合によっては自分で踏みつぶしてしまうことがあるので、粗雑で無慈悲な鳥だと考えられていたようです。アラブ人は駝鳥を「馬鹿者」と呼び、「お前は駝鳥より馬鹿だ」という諺さえあると言います。

 しかし、それでちゃんと子孫を残しているのですから、実は駝鳥には駝鳥の知恵があってのことなのです。それを人間から見ると知恵がないように見える、慈悲がないように見るということに過ぎません。

 駝鳥が砂の上に卵を産んだまま顧みないというのは、実は熱帯では地面が熱いので親鳥が抱きかかえてやる必要がないからなのです。さらに、駝鳥は、何もしないどころか強すぎる直射日光から保護するために、あるいは夜間の冷え込みから守るために、卵を抱くことがあります。人間から見て、気まぐれや無慈悲に見えたとしても、それは駝鳥なりの知恵があってのことなのです。

 「神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。」と神様が仰ったのは、人間への皮肉でありましょう。人間の知恵からすれば無知、無分別であるかもしれないけれども、それが神様が駝鳥に与えた知恵であり、分別なのだということなのです。

馬の勇ましさ
 「お前は馬に力を与え
  その首をたてがみで装うことができるか。
  馬をいなごのように跳ねさせることができるか。
  そのいななきには恐るべき威力があり
  谷間で砂をけって喜び勇み
  武器に怖じることなく進む。
  恐れを笑い、ひるむことなく
  剣に背を向けて逃げることもない。
  その上に箙が音をたて
  槍と投げ槍がきらめくとき
  身を震わせ、興奮して地をかき
  角笛の音に、じっとしてはいられない。
  角笛の合図があればいななき
  戦いも、隊長の怒号も、鬨の声も
  遠くにいながら、かぎつけている。」(19-25)

 馬の勇ましさについて語られています。ここでいう馬は野生の馬ではなく、軍馬でありましょう。馬は、たいへん古くから飼い慣らされてきた人間にもっとも身近な動物の一つです。そんな卑近な馬ですら、人知では及ばないものを持っています。たてがみの美しさ。巨体をもってイナゴのような飛び跳ねる跳躍力。いとも従順でありながら、戦場を疾走し、槍、鉄砲に向かって突っ込む勇ましさ。
鷹と鷲
 「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは
  お前が分別を与えたからなのか。」(26)

 鷹は渡り鳥の一種で、冬になると南に移動します。

 「鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは
  お前が命令したからなのか
  鷲は岩場に住み
  牙のような岩や砦の上で夜を過ごす。
  その上から餌を探して
  はるかかなたまで目を光らせている。
  その雛は血を飲むことを求め
  死骸の傍らには必ずいる。」(27-30)

 鷲は体も大きいし、嘴や爪も鋭く、人間にとっても恐ろしい猛禽です。「その雛は血を飲むことを求め」とありますが、血の滴る肉を食べ口の周りを真っ赤にしているのを見て、そういう風に見えたのでありましょう。人間は何でも自分を中心に物事を判断し、良いとか悪いということを言うのです。
不毛の地を与えたのは私だ
 さて、39章に展開された聖書の鳥獣戯画を見て参りました。神様がお造りになった生き物の世界というのはもっと多種多様で摩訶不思議でありますが、たったこれだけを見てもそのことが十分に伝わってきます。では、神様は、この鳥獣戯画をもって、ヨブに、そして私たち人間に、いったい何を仰りたいのでありましょうか。

 今日の聖書の中で、私がもっとも心に残ったのは次の御言葉です。

 「誰が野生のろばに自由を与え
  野ろばを解き放ってやったのか。
  その住みかとして荒れ地を与え
  ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。」

 人間に住みやすい場所が、ある動物にとっては必ずしも生きやすいとは限りません。野生の山羊は岩場に一生を過ごし、野生のろばは不毛の地に逞しく生きます。駝鳥は砂漠に、鷹は断崖絶壁に暮らします。それぞれに神様が与えてくださった生きる場所があるのです。

 そこには、もちろん試練もあるでしょう。動物の世界にも、強いものに命を奪われる危険、家族を失う悲しみ、群れを追い出される惨めさ、日照りや飢え渇き、災害、事故、怪我、病気、・・・人間とまったく変わらぬ生きる難しさがあるのです。しかし、神様が与えてくださった場所で、文句一つ言わず、一生懸命に生きる姿が動物たちにはあります。
3
 8章39-41節の御言葉は、そのような動物の姿でもありましょう。

 「お前は雌獅子のために獲物を備え
  その子の食欲を満たしてやることができるか。
  雌獅子は茂みに待ち伏せ
  その子は隠れがにうずくまっている。
  誰が烏のために餌を置いてやるのか
  その雛が神に向かって鳴き
  食べ物を求めて迷い出るとき。」(38:39-41)

 百獣の王と言われるライオンも、実は何日もエサにありつけず、お腹を空かせているといいます。神様はライオンに力を与える一方で、ライオンに狙われるような動物には逃げる力を与えておられるからです。そういう緊張感の中で、それぞれが一生懸命に生きているのです。しかし、子供たちを養うためにじっと茂みに身を潜ませ、狩りのチャンスを待ち続ける母ライオンの健気さ。親鳥が運んでくるエサを待って、口を大きく開けてギャーギャーと鳴きいているカラスの雛の健気さ。彼らは神に向かって泣いているのだと言います。

 ここに大切なことがあります。それは、動物たちは、人間中心に生きているのではなく、神を中心に生きているということです。人間とは大違いです。不幸をかこつこともなく、人をうらやんだりすることもなく、神様が与えてくださった場所で、神様が与えてくださった生をひたすらに生きているのです。

 人間だけが、神様が与え給う生を拒絶して、「神様はどうして、わたしをこんな目に遭わせるのか」、「神様は間違っているのではないか」などと言うのです。果たして、それは正しいことなのでしょうか?
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