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ほぼ1ヶ月ぶりのヨブ記の学びになります。前回は36章1〜21節までに記されたエリフの主張を読みました。その要点は、神様が人に苦しみをお与えになるのは、人を反省に導き、御心を学び、悔い改めに到らせ、ついには神様の祝福に与らせるためであるということであります。たとえば8-11節で、こう言われています。
「捕われの身となって足枷をはめられ
苦悩の縄に縛られている人があれば
その行いを指摘し
その罪の重さを指し示される。
その耳を開いて戒め
悪い行いを改めるように諭される。
もし、これに耳を傾けて従うなら
彼らはその日々を幸いのうちに
年月を恵みのうちに全うすることができる。」(8-11節)
苦難の中にもこのような神様の慈愛に満ちたご計画があるのだから、ヨブよ、いつまでも「神様は間違っている」などとほざいていてはいけない。いい加減に自分の非を認め、苦難を通して神様の深い御心を学びなさいと、エリフは勧告しているのです。
さて、今日は22節からです。エリフはこれまで主張をまとめて、神は偉大な教師であると言います。
「まことに神は力に秀でている。
神のような教師があるだろうか。」(22節)
よく言われるのは、人間は自然から多くのことを学んできたということです。飛行機だって空を飛ぶ鳥を観察して作ったものですし、ハサミだって蟹やザリガニを見て思いついたものに違いありません。文明の利器といわれる物の大概は自然の模倣なのです。そこで忘れてはならないのは、そのような自然をお造りになったのは神様の知恵と御力です。
それゆえエリフは「まことに神は力に秀でている」と言います。そして、このような神妙な知恵と調和に満ちた驚くべき世界をお作りになった神様こそ私たちの偉大な教師であるというのです。
「誰が神の道を見張り
『あなたのすることは悪い』と言えようか。」(23節)
エリフは、ヨブが「神様は間違っている」と主張していることに対して 、このように忠告するのでありましょう。いったい、誰がこのような偉大な教師である神様に教えることができるのかと。
私は、エリフの主張はまったくその通りだと思うのです。世の中には、神様への不平不満でいっぱいの人がいます。「どうして、神様はわたしの人生にこんな酷いことをするのか」とか、「どうして、地震や津波で、罪もない多くの人の命を奪われるのか」とか、「神様は平等じゃない。どうしてある人は豊かで、才能があるのに、わたしには何もないのか。」とか、「どうして、人間を罪を犯す可能性のある者として作ったのか」とか、何でもかんでも神様のせいにして、神様は酷いじゃないか、神様は間違っているじゃないか、そもそも神様なんていないのではないかとか、キリスト教信仰や教会というものを批判する人もいるのです。
そして、このようなことを言う人に限って、そもそも神様など真剣に求めていない場合が多いのですから、人間というのは実に勝手な理屈を言うものだなあと思わざるを得ません。もっとも、私自身もそういう勝手な人間の一人に過ぎません。実は、今申し上げたような問いはすべて、私自身が通過してきた問いでもあるのです。
では、どのようにこれらの問いを通過して信仰に至ることができたのかと言えば、エリフのいうように、「神は偉大な教師なり」という単純明快な事実を悟ることによってでありました。世の中や人生には理不尽と思えることがたくさんあります。しかし、それは神様が間違っているのではなく、私たちの方が神様の深い御心を悟りきれないでいるだけではないか? それを神様のせいにしているだけではないか? 私たちが理不尽だと思うようなことの中にこそ、私たちが悟らなければならない神様の御心が隠されているのではないか? そのように考えるのであります。
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ところが、これがなかなか難しいのです。どうしてかというと、私たちには、自分は絶対に正しいという信念のようなものがあります。エリフが言うように、偉大な教師である神様に対してですら、「あなたは間違っている」と言ってしまうような強固な信念です。
エリフは、神様の御心を知るためには、必ずこれが崩されなければならないのだと言うのです。自分の至らなさ、自分の愚かさというのが分かって来て、はじめて神様の偉大さが見えてくるからです。それまでの神様というのは、あくまでも自分の頭の中に収まるほどの大きさの神様に過ぎません。しかし、実際の神様はもっともっと大きな御方で、私たちの経験も、想像力も凌駕しているのです。
「世の人は神の御業に賛美の歌をうたう。
あなたも心して、ほめたたえよ。
人は皆、御業を仰ぎ
はるかかなたから望み見ている。
まことに神は偉大、神を知ることはできず
その齢を数えることもできない。」(24-26節)
エリフは言います。ヨブよ、神様はあまりにも偉大で、人間の心には知ることができない時もあるのだ。しかし、世の人々は神様を賛美しているではないか。君も、「神様は間違っている」などと強情にならないで、素直な心で神を賛美すべきなのだ、と。
この中で、「人は皆、御業を仰ぎ、はるかかなたから望みみている」とあります。エリフにとって、神様は偉大であるがゆえに遠い存在で、決して人間に近しい存在ではありませんでした。この点がヨブの神観と大きく違うところです。
ヨブは神様に直接問いかけ、直接神様の答えを聞こうとします。ヨブにとっても神様は偉大な御方なのですが、決してかけはなれた存在ではなく、人間の近くにいます御方なのです。ヨブは決して苦難そのものをいやがっているのではありません。「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」という信仰を持っているのです。
ところが、ヨブは苦難の中から必死に神様に呼びかけますが、答えがありません。いつも近くにいてくださった神様が感じられなくなってしまった。まるで神様が自分を見捨て遠ざかってしまったように思える。それこそがヨブの問題なのです。
逆に、エリフはこのようなヨブの神観が理解できないのでありまして、神様に直接答えを求めるなどというのは不遜なことで、神様というのははるかかなたから望み見るものだというわけです。 |
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そこで、エリフは神そのものではなく、神様の偉大さの表れである自然について語ります。
「神は水滴を御もとに集め
霧のような雨を降らす。
雲は雨となって滴り
多くの人の上に降り注ぐ。
どのように雨雲が広がり
神の仮庵が雷鳴をとどろかせるかを
悟りうる者があろうか。
神はその上に光を放ち
海の根を覆われる。」(27-30節)
エリフは自然界における水の循環について語っています。地上の水滴が天に集められ、雲となり、雨雲となって広がり、雷をとどろかせながら雨を地上に降り注ぐ。雨が上がると太陽が顔を出し、その光が世界に、海の底にまで降り注ぐ。エリフは、本当によく自然の仕組みを観察していました。それだけではなく、このような自然界の水の循環が人間の営みに重大な影響を与えていることをも理解しています。
「それによって諸国の民を治め
豊かに食べ物を与えられる。
神は御手に稲妻の光をまとい
的を定め、それに指令し
御自分の思いを表される。
悪に対する激しい怒りを。」(32-33節)
つまり、神様は直接手を下して人間を支配しているのではありませんが、このような自然を造り、それによって時には恵みを与え、時には怒りを表され、間接的に支配をしているのだというわけです
私はこのエリフの言葉から、『マタイによる福音書』5章45節の御言葉を思い起こしました。そこでイエス様はこう教えておられます。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
雨が降ったり、お天気になったりする、そういう自然の秩序の中に、神様の恵みの働きを学びなさいという教えです。あるいは、イエス様は空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、そこから神様の愛を学びなさいということも教えられました。
こうして見ますと、私たちは神様が分からないと言いますが、実は神様を分かろうとしていないだけなのではないかと思えるのです。霧のようにやさしく降る雨、雷と共に激しく降る雨、ぽかぽかと暖かい春のお日さま、じりじりと射し焦がすような夏の太陽、そのようなお天気ひとつを見ても、あるいは空の鳥、野の花を見ても、神様は実に様々な形でご自分を表してくださっているのです。
よく自然科学の知識と宗教というのは対立する知識だと誤解されますが、決してそのようなことはないのです。実は近代科学を生み出したのは、宇宙は神様がお造りになったものだから、これを読み解けば神様の栄光を知ることができるという信仰があってのことだったのです。ガリレオの『偽金鑑識官』にはしばしば引用される次のような一節があります。
「哲学は、宇宙という壮大な書物の中に書かれてある。この書物は、いつもわれわれの眼の前に開かれている。けれども、まずその言葉を学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することはできない。それは数学の言葉で書かれているのであって、その文字は三角形、円、そのほかの幾何学的図形である。これらなしには、人間はその一語たりとも理解することはできない。これらなしには、人は暗い迷宮の中をさまようばかりである」
「哲学は宇宙という壮大な書物の中に書かれている」とあります。宇宙を研究すれば何か意味のあることを読み取ることができるのだというガリレオの信念がここに示されているのです。ところで、ここで注意しなくてはならないのは、ガリレオが宇宙を「書物」になぞらえたことです。この書物は、ただの書物ではなく、聖書を意味していました。当時は、今日のように書物が氾濫している時代とは違い、「ザ・ブック」といえば「ザ・バイブル」を意味する、そういう時代だったのです。
「この書物は、いつもわれわれの眼の前に開かれている。」という部分も、「書物」が「聖書」であることを伺わせます。教会に行くと私たちの前に大きな聖書が開かれています。それと同じように、宇宙という神の書物が、私たちの目の前に開かれているということを言いたいのです。
また当時の聖書は一般に使われている言語ではなく、ラテン語で書かれていました。いくら聖書が開かれていても、ラテン語を勉強しなければ、聖書を読むことができなかったのです。ガリレオは宇宙という第二の聖書も、私たちの目の前に開かれているけれども、それは数学という言葉で書かれているために、数学を勉強しなければ読むことができないと言っているわけです。
さて、エリフはいいます。
「それゆえ、わたしの心は
破れんばかりに激しく打つ。
聞け、神の御声のとどろきを
その口から出る響きを。
閃光は天の四方に放たれ
稲妻は地の果てに及ぶ。
雷鳴がそれを追い
厳かな声が響きわたる。
御声は聞こえるが、稲妻の跡はない。
神は驚くべき御声をとどろかせ
わたしたちの知りえない
大きな業を成し遂げられる。」(37:1-5)
「聞け、神の御声のとどろきを」と言われています。ここでは雷鳴のことが言われているのですが、もっと広く一般的に、自然のうちに表される神の声に耳を傾けよという意味にとって良いと思います。確かに、神様の声を聞くということは、聖書を読んだり、お祈りするだけではなく、「第二の聖書」すなわち、神の栄光を物語るこの世界の様々なことに眼を向け、その中に表されている御心を分かろうとするということが大切なのだと思います。
しかし、それはヨブが期待したような神との直接的な交わりはあり得ないということでしょうか。そうではありません。神様のもっとも驚くべき御業は何か。神様は、この世界をお造りになった以上のことをしてくださいました。それはイエス・キリストによる神と人間の和解と、聖霊との交わりをお与えくださったことです。それはまさしく神と人間との直接的な交わりを実現するためであったのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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