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32章からエリフの発言がはじまり35章まで読んできました。この長広舌に誰かが口を挟もうとしたのかもしれません。エリフはそれを素早く制止して、まだ話が終わっていない、もっと私にしゃべらせてくれと言って、36章がはじまるのです。
「エリフは更に言葉を続けた。
待て、もう少しわたしに話させてくれ。
神について言うべきことがまだある。」(1-2)
エリフを黙らせようとしたのはヨブではなく、ヨブの友人たちであったかもしれません。35章で、エリフは非難の矛先をヨブの友人たちにまで向けているからです。それを聞いたヨブの友人らは、これは聞き捨てならぬと、エリフに反論しようとしたのではないでしょうか。けれども、エリフは「待て、もう少しわたしに話させてくれ」と遮二無二話し続けるのです。
このエリフの姿に、何か異常な執念のようなものを感じます。ヨブと三人の友人たちの間でも、確かに一歩も譲らぬやりとりが行われました。しかし、お互いの主張にも耳を傾けているのです。それに対して、エリフは相手に一言もしゃべらせようとしないで、ひたすら自分の説を語り続けます。エリフにそうさせているのは、自信満々の言葉とは裏腹に言い知れぬ不安があるからではないかと思うのです。
その不安とは、ヨブに起因する不安です。エリフから見れば、ヨブの言動は神に対する冒涜であり、不信仰以外の何ものでもありません。そのようなことを平気で口にするヨブという人間は、神様の怒りに触れ、退けられてしかるべきでした。しかし、それにもかかわらず、ヨブの中にはエリフも否定しがたい神様との生きた交わりがあることを、エリフは感じていたのではないでしょうか。
「ケンカするほど仲がいい」と言われることがあります。ちょっとやそっとでは壊れない深い信頼があればこそ、思い切ったケンカもできるといえましょう。ヨブと神様の関係はそのようなものだったのです。しかし、エリフにはそれのような神様と人間との親しき関係というものは到底理解できないものでした。エリフにとって神様とは超越者、絶対者であり、人間の、ましてケンカの相手になるような御方ではないからです。
しかし、ヨブを見ていると、恐るべき苦難の中にあって神様に散々楯突いていながら、なお切っても切れない深い絆で神様と結ばれているような気にさせられてしまうのです。何事も理詰めに考えるエリフには理解できない神様とヨブとの関係・・・それがエリフの不安の原因でした。「弱い犬ほどよく吠える」ともいいますが、内になる不安が大きければ大きいほど、声高に自説を唱え、何とかその前にヨブを屈服させようと、エリフは力むのです。
「遠くまで及ぶわたしの考えを述べて
わたしの造り主が正しいということを示そう。
まことにわたしの言うことに偽りはない。
完全な知識を持つ方をあなたに示そう。」(3-4)
「遠くまで及ぶわたしの考え」と、エリフは言います。「遠く」というのは、手の届かないところを指す言葉です。つまり、私は、普通の人間ならとても知り得ないようなことにまで及ぶ広い知識、深い知識をもっているのだということです。
しかし、これまでの文脈からすると、エリフにとって人間から最も遠いのは神の存在であり、「遠く」というのは神の超越性を表しているとも読み取れます。そうすると、「遠くまで及ぶわたしの考え」というのは単に広い知識を持っているということではなく、私は神様のことについて手に取るようによく知っているのだという意味にも取れるのです。
だから、わたしが神様について正しい考えを教えてあげよう、私の言うことには間違いがないのだから、よく聞きなさい。そうすれば、あなたも神様の知恵がわかるだろう・・このようにかなり強気のことを言っているのです。この強気も、エリフの不安の反映であると考えると合点がいくのです。 |
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とはいえ、エリフはでたらめの演説をしているわけではありません。それなりに筋の通ったことを言っているのです。
「まことに神は力強く、たゆむことなく
力強く、知恵に満ちておられる。
神に逆らう者を生かしてはおかず
貧しい人に正しい裁きをしてくださる。」(5-6節)
「たゆむことなく」というのは、気を緩めないということです。神様は、どんな時にも、誰に対しても力強くいまし、片時も気を緩め給うことなく、正しい人には祝福を与え、悪者には鉄槌をくだされるということです。しかし、それならば因果応報と変わりないのですが、エリフの特徴は苦難の教育的な意義について語ることです。
「神に従う人から目を離すことなく
王者と共に座につかせ
とこしえに、彼らを高められる。
捕われの身となって足枷をはめられ
苦悩の縄に縛られている人があれば
その行いを指摘し
その罪の重さを指し示される。
その耳を開いて戒め
悪い行いを改めるように諭される。」(7-10)
神に従う人が受ける祝福と、神に逆らう者の受ける苦難について語られています。特に、苦難については、それは罪の重さを示すためであり、神様はそうすることによって「悪い行いを改めるように諭される」のだと、エリフは言うのです。
確かに、苦しみを通して、自分の過ちに気づき、悔い改めて神様に立ち帰るということは、私たちの信仰生活でも経験されることだろうと思います。苦難は、しばしば神の教育であり、試練であることがあるのです。
ですから、苦難を苦難に終わらせてはいけません。苦難を経ることによって、今までの生き方を反省し、新しい生き方を学び、それを身につけることが必要なのだと、エリフは説教するのです。
「もし、これに耳を傾けて従うなら
彼らはその日々を幸いのうちに
年月を恵みのうちに全うすることができる。
しかし、これに耳を傾けなければ
死の川を渡り、愚か者のまま息絶える。」(11-12)
この11-12節などは、私はとても大切なことが言われていると思います。私たちの人生には、苦難ばかりではなく、人との出会いとか、チャンスとか、様々な巡り合わせがあります。その一つ一つに神様の私たちに対する御心があるということが、ここで言われているのではないでしょうか。ですから、運が良かったとか、悪かったとか、そういうことで終わらせるのではなく、神様はいったいどんな目的をもって私の人生にこれを与え給うのかと祈りつつ問うて、神の声(御旨)を聴きなさいと教えるのです。
それを聴かなければ、どんなに喜ばしきものに思えてもつまらない結果になってしまうし、もしそれをちゃんと聴くことができるならば、どんなに辛く悲しいことであっても、必ずそれを通して神様の恵みをいただくことができるのだということなのです。
しかし、エリフには、ヨブが苦難を拒絶するばかりで、その中にある神様の御心を受け取ろうとしていないように見えます。ですから、ヨブよ、神を無視する者にならないで、苦難の中で神の声を聴き、神の諭しを受けいれなさい、と呼びかけるのです。 |
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エリフは間違ったことを言っているわけではありません。しかし、ヨブにはどうしても受け入れがたいものでした。それはどうしてなのでしょうか。
「神を無視する心を持つ者は
鎖につながれていても
怒りに燃え、助けを求めようとしない。
彼らの魂は若いうちに死を迎え
命は神殿男娼のように短い。」(13-14)
神を無視する者は早死にすると、エリフは言います。これを単純に考えると短命=神に逆らう者、長寿=神に従う者という図式ができることになります。エリフにしろ、三人の友人にしろ、どうしても苦難の問題を罪と結びつけて考えてしまうところに、彼らの限界があると言ってもよいでありましょう。
つまり、彼らの信仰の中には「義人の苦しみ」という考え方がないのです。ヨブ自身にも、そのような考え方がなかったと言えましょう。しかし、ヨブの場合は、自分自身の体験として正しい者の苦難ということが実際に起こっているのです。そのことについて、ヨブは神様にどうしてですかと問い続けてきたのでした。
他方、エリフにしても、他の友人たちにしても、最初から「義人の苦しみ」などあり得ないことだと決めつけています。正しい者でも罪に陥ることがある、その際は悔い改めて立ち帰るようにというのが基本的な考えです。ところが、ヨブが自分の正しさを主張するものですから、君は傲慢だ、もっと謙れという話になってしまうわけです。 |
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「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し
苦悩の中で耳を開いてくださる。」(15)
人に苦難を与え給う神は、苦難を通して救いに至ることを願っておられるのだ、ということです。
「神はあなたにも
苦難の中から出ようとする気持を与え
苦難に代えて広い所でくつろがせ
あなたのために食卓を整え
豊かな食べ物を備えてくださるのだ。」(16)
「苦難の中から出ようとする気持ち」とあります。エリフがヨブに対してこのような気持ちを求めるのは、私にもよく分かるのです。確かに、苦難の中にある人の中には、あらゆる助言や救いの手を拒絶し、自分の痛み、苦しみばかりを見つめて、それにこだわり続け、絶望感や、自己憐憫や、恨みを増幅させることばかりに心のエネルギーを費やし続ける人がいます。助けて欲しいといいながらも、結局は自分の苦しみに執着し、その中に留まり続けようとしているとしか思えない、そんなに人に出会うことがあるのです。おそらく、深い絶望感がそうさせるのでありましょう。
イエス様が、ベトザタの池のほとりで38年間も病気で苦しんでいる人に出会った時に、「良くなりたいのか」とお聞きになったという話があります。ところが、この男は「良くなりたい」とは答えず、どうして自分が38年間も苦しみ続けることになったかということについて一生懸命に話し出すのです。このような人に必要なことは、自分にもこの苦しみを脱して新しい命を生きることができるのだという力強い希望を持つことでありましょう。「苦難の中から出ようとする気持を与え」というのは、神が希望を与えてくださるということなのです。
エリフは、ヨブが自分の義に拘り、それゆえに苦しみの中に留まり続けているのは、そのような希望がないのだと見えたのでありましょう。
「あなたが罪人の受ける刑に服するなら
裁きの正しさが保たれるだろう。」(17)
自分の言い分に固執するのはもうよして、神様の正しさを受け入れなさいということです。
「だから注意せよ
富の力に惑わされないように。
身代金が十分あるからといって
道を誤らないように。」(18)
ヨブは財産を失ったのですから「富の力に惑わされないように」という忠告は奇妙に思えます。「身代金」という言葉がありますから、これは「神のゆるし」という意味ではないでしょうか。すると、「神様の赦しがどれほど多いからといって、それに甘えて、駄々をこねるのはよしなさい」という風に読むことができます。
「苦難を経なければ、どんなに叫んでも
力を尽くしても、それは役に立たない。」(19)
これもなかなか味わい深い言葉だと思います。「どんなに叫んでも、力を尽くしても」、神様が与え給う苦難というのは飲み干さなければ過ぎてゆかないのだということなのです。しかし、エリフにとって苦難は苦難で終わるものではありません。苦難の次に用意されている神の救い、恵みがあるのです。ですから、希望をもって苦難を受けよということなのです。
「夜をあえぎ求めるな。
人々がその場で消え去らねばならない夜を。」(20)
「夜をあえぎ求める」とはどういうことを意味しているのでしょうか。「人が消え去らねばならない夜」という言い方から推測すると、これは死の誘惑に対する警告だと思えます。自分の主張に固執し、神の教えも、人々の助言も、一切を拒絶して、死に安息を求める誘惑に負けてはいけないということです。「死んだら楽になる」というのは安易な考えで、死んだ後の苦しみがあることを忘れているのです。
「警戒せよ
悪い行いに顔を向けないように。
苦悩によって試されているのは
まさにこのためなのだ。」(21)
苦しみのあまり、死をあえぎ求めるようなことがあってはならないと言ったエリフは、やけを起こして悪しき行いに傾いてもいけないと忠告します。確かに人間は自分の不幸に耐えられなくなると、死を願ったり、やけを起こして悪いことをしようとしたりすることがあるのです。しかし、エリフは「苦難によって試されているのは、まさにこのためなのだ」と言います。苦難に耐えることによって、より清められた人間になることを神様は願っておられるのだというわけです。
以上、21節までのエリフの言葉を見てきましたが、エリフはなかなか筋の通ったことも言っているのです。苦難の教育的な意義とか、苦難に拘り続けるために救いを受け取れない人間であるとか、また苦難になる人が陥りやすい死や悪への誘惑など、私も読みながら納得させられるが多いのです。けれども、それがヨブに通じないのは、ヨブの受けていた苦しみが、「義人の苦しみ」であったからです。これがエリフの想定外のことなのでした。
では、ヨブの苦しみは、誰にも知り得ないことだったのでしょうか。そうは思いません。もし、エリフや友人たちが、知識や知恵ではなく、愛をもって神を信じ、愛をもってヨブと対話をしたならば、きっとヨブの力になる言葉をかけることができたのではないかと思うのです。しかし、彼らはあまりにも教条主義すぎました。そして、ヨブを理解する者ではなく、ヨブを裁く者になってしまったのです。私たちも、その点はよくよく気をつけたいと思うのです。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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