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日本人は一般に宗教意識が低いと言いますが、実際にはそう単純ではないと思います。確かに日頃から自覚的に関わりをもっている人は、非常に少ないのです。日本人の多くが仏教徒であると言いますが、お寺にしろ、神社にしろ、お参りを日課としている人はほとんどありません。
国学院の教授がまとめたアンケート調査の結果を参考にして申しますと、「ふだんから座禅、ヨガ、ミサ、修行、お勤め、布教などいずれかをしている」と答えた人は3.3パーセントに過ぎませんでした。また「信心や信仰心を持っていない」と答えた人は73パーセントという結果です。
ところが、初詣には70パーセントの人が神社にお参りに行くと答えています。また33パーセントの人がお祭りの時に神社にお参りに行くとも答えています。お盆やお彼岸にお寺をお参りする人は56.4パーセントでした。また別の調査ですが、神棚、仏壇がある家は約50パーセント、仏滅の結婚式や友引の葬式、厄年を気にする人は約42パーセントという結果もあります。
これは要するに日本人に宗教心がないというよりも、日本人の持っている宗教観の特徴なのではないかと言えるのではないでしょうか。どうも日本人には、神様の世界と人間の世界が密接なつながりをもちながら存在しているという考えがないように思えます。けれども、神様というのは何となく得体の知れない存在であり、あまり疎かにしておくのも恐い。適当にお祭りしておいて、神様は神様の世界に引っ込んでいて欲しいという気持ちがあるのではないでしょうか。
そこで縁起を担ぐことに一生懸命になる。初詣とか、地鎮祭とか、人間がこれから幸せになろうとする時には、「神様、この幸せを壊さないくださいね、あまり邪魔をしないでくださいよ」とお鎮めする。そんな風に考えられるのです。たとえば「しめ縄」というものがありますけれども、あれはここから神様の領域だから、神様を怒らせないように気をつけなさいという目印なのです。
こういう宗教観からは、キリスト教のような神様との親しい交わりのうちに人生を生きていこうとする、積極的な宗教的な生活というのは生まれににくいのは当然だろうと思うわけです。
さて、どうしてこのようなお話をしたかと言いますと、エリフもまた神様と人間との隔絶ということを、この35章で語っているからなのです。ヨブは、「どうして神様はわたしの正しさを認めてくれないのか?」、「こんなに一生懸命に祈っているのに、どうして私の問いかけに答えてくれないのか?」と言っているけれども、それに対してエリフは「神様という御方は全宇宙の主で、人間なんか及びもしない大いなる存在なのだから、君のような人間が苦しみ、祈ったところで、いちいち耳を傾けなくても当たり前だ」と、まぁ、ちょっと乱暴な要約かもしれませんが、そんなことを言っているわけです。 |
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では、初めから読んで参りましょう。
「エリフは更に言った。
『神はわたしを正しいとしてくださるはずだ』
とあなたは言っているが
あなたのこの考えは正当だろうか。」(1-2)
「神様は分かってくださるはずだ」なんて、親しげに言うけれども、君は神様を友達か何かと勘違いしているのではないか。神様というのは、君一人の友達であるかのような小さな御方だろうか? エリフは、そういう問いをヨブに投げかけるわけです。
「またあなたは言う。
『わたしが過ちを犯したとしても
あなたに何の利益があり
わたしにどれほどの得があるのか。』」(3)
「こんな苦しみにあうなら、神様に喜ばれるような生活をしても無意味じゃないか」と、君は文句を言うが、そもそも神様とは如何なる御方なのか、それに対して人間というのはどのような存在なのか、そこを弁えて話をしなくてはならない、その点についてこれから話すことを聞きなさいということです。
「あなたに、また傍らにいる友人たちに
わたしはひとこと言いたい。」(4)
エリフは、これはヨブだけではなく、ヨブの友人らにも聞いて欲しい話なのだ、と言います。ヨブの友人たちは、「因果応報」の論をもって、ヨブを黙らせようとしました。しかしヨブは、私は何も悪いことをしていないと言い張るだけで、友人らは因果応報をもってヨブを納得させることは出来なかったのです。そのヨブの友人たちも聞いて欲しいということは、彼らの因果応報の神観も間違っているのだということを、エリフは言いたいからなのです。
「天を仰ぎ、よく見よ。
頭上高く行く雲を眺めよ。」(5)
天や雲がいかに人間の手の届かない高いところにあるかということを述べて、神様はそれよりもはるかに高き御方であって、いかに人間の思いを超えた超越者でい給うのかということを述べているのです。これには反駁したいこともありますが、それは最後にお話しすることにして、もう少し彼の論の展開を見てまいりましょう。
「あなたが過ちを犯したとしても
神にとってどれほどのことだろうか。
繰り返し背いたとしても
神にとってそれが何であろう。
あなたが正しくあっても
それで神に何かを与えることになり
神があなたの手から
何かを受け取ることになるだろうか。
あなたが逆らっても、
それはあなたと同じ人間に
あなたが正しくても
それは人の子にかかわるだけなのだ。」(6-8)
神様から見れば小さな小さな人間が罪を犯したところで、神様には痛くもかゆくもないのだと、エリフは言います。それは、人間の善行も同じで、人間の為す善など、天地万物をお作りになった神様からすれば無きに等しい業だとも言うのです。
善悪というのは人間のあり方、生き方を問う問題です。これは人間同士、社会においてはたいへん重要な問題に違いありませんが、神様の偉大な存在は人間の在り方、生き方、つまり善悪で左右されることはないと言うことなのであります。
ずいぶん乱暴な主張にも聞こえますが、いったい、エリフは何をいいたのでありましょうか。一つは、ヨブに対して、君は全財産を失い、子を失い、健康を失い、妻にも疎まれるような苦難を味わったことをもって、まるで天下の一大事、いや宇宙の大事件のごとく騒ぎ、神様は間違っているだの、私の祈りに答えてくれないなどと言うけれども、君という存在はこの世界において、宇宙において、そんなに偉大なのかということです。
たとえば、子どもがカエルを殺して遊ぶとか、犬猫が人間の自動車にひかれて死ぬということは日常茶飯事のことです。カエルや犬猫の身にしてみれば何とも酷い事件でありますが、そんなことは人間の世界を揺るがす大事件とは言えません。神様と人間の関係もそうで、分際が違うのだと、エリフは言うわけです。
もう一つは、人間の善悪(在り方)が神様に影響を与えるわけではないということは、当然、ヨブの友人らが一生懸命に唱えていた因果応報論の否定ということにもつながってきます。因果応報というのは、人間が善いことをすれば神様も善をもって報いてくださり、人間が罪を犯せば神様も罰をもって報いられるということです。しかし、これでは神様が人間の在り方に左右されるばかりになってしまいます。エリフは、神様というのはそんな小さな存在ではない。もっと大いなる方で、自由なる御方だというわけです。
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要するに、エリフは、分際を弁えて、人間の問題をまるで神様の責任のように問い詰めるのはやめなさい、と言っているのです。
「抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ
権力者の腕にひしがれて、助けを求める。」
人間というのは何か不幸があると、急に「神様はどうして、こんな酷いことをするのか」と訴えます。同じように、何か一つでも善なることをすると、神様からご褒美をいただけて当然であると期待する。実に勝手な存在ですが、果たして神様の側の事情や問題というものを、どれだけ真剣に尋ね求めているだろうかと、エリフは問いかけるのです。
「しかし、だれも言わない
『どこにいますのか、わたしの造り主なる神
夜、歌を与える方
地の獣によって教え
空の鳥によって知恵を授ける方は』」と。(10-11)
自分はここにいる、ここにいる、どうして目をとめてくれないのかと、自分の苦しみや痛みを神に向かって叫ぶわりに、神様が如何なる御方で、いずこにらっしゃるのかということを弁えようとする者がいるだろうか。神様は、夜の間にもほめ歌を与えようとしておられるし、地の獣、空の鳥によっても、私たちに知恵を授けようとしておられるというのに、その神様の御声を聞こうと、へりくだり、静まって耳を傾ける者はいないのだ、ということです。
なるほど人間同士でもそういうことがあります。自分の不平不満については必死に訴えるのに、人の言うことには耳を貸そうとしない、人の気持ちについてはまったく無関心であるということが。
「だから、叫んでも答えてくださらないのだ。
悪者が高慢にふるまうからだ。
神は偽りを聞かれず
全能者はそれを顧みられない。」(12-13)
そのような人間の勝手な祈りに、神様がお答えになるはずがないじゃないかと、エリフは言うのです
「あなたは神を見ることができないと言うが
あなたの訴えは御前にある。
あなたは神を待つべきなのだ。」
これはなかなか味わいのある言葉です。私たちは、神様を見ることができないとか、神様の声が聞こえないとか、自分の存在が神様に顧みられていないのではないかと不安に思うことがありますが、神様はぜんぶ聴いていてくださるし、見ていてくださるのだというのです。ただ、神様には神様のやり方がある。神様の時がある。人間が大声で泣いたり、わめいたりしたら、それで神様が動くというものではない。あなたに出来るのは、神様のやり方を信じ、神様の時を待つことだけなのだというわけです。
「今はまだ、怒りの時ではなく
神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので
ヨブは空しく口数を増し
愚かにも言葉を重ねている。」
確かに、私たちは待てないことが多い。それ故に、神様は祈りを聞いてくれないとか、何を考えているのかわからないと、早急に結論を出しすぎる。そんな勝手な言い種は、神様にしてみれば無駄口、空しい言葉、愚かな言葉で、神様は無視なさるしかないではないかというのです。神の主権を思い、自分を弁え、黙して待つことの大切さ、この点については、まったくエリフの言うとおりでありましょう。 |
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しかし、それにしましてもエリフの描き出す神と人との関係は味気ないのです。神様は、希望を失ったアブラハムを星空の下に連れ出して、こう仰いました。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
この神様の言葉は、「高き天にいます神が私と共にいる」という希望を、アラブハムに与え、その心をもう一度、神様に向かわせる言葉になりました。一方、エリフも、希望を失ったヨブに、「天を仰ぎ、よく見よ。頭上高く行く雲を眺めよ」と言いました。しかし、それは「神様というのはそんなに遠く、高い存在なのだ」と神との隔絶を語り、神を求めるヨブの心をさらなる絶望に落とすのです。
また、エリフは、「あなたが過ちを犯したとしても、神にとってどれほどのことだろうか」と語ります。実は、ヨブも同様のことを言っているのです。
「人を見張っている方よ
わたしが過ちを犯したとしても
あなたにとってそれが何だというのでしょう。」(7章20節)
しかし、ヨブの言葉には続きがあります。
「なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
なぜ、わたしを負担とされるのですか。」
エリフが、「神様にとって人間の罪など痛くもかゆくもないのだ」と、神と人間の隔絶を語るのに対し、ヨブは「神様のような御方がどうしてこの小さな人間の罪をそこまでお責めになるのか」と、神様の人間に対する異常なまでの関心の深さを問題にしているのです。
聖書の神様は、確かにエリフの言うように人間の思い出は測り知ることの出来ない超越者であります。しかし、神様は同時に愛なる神です。愛とは、共にあろうとすることです。私たちも愛する人間については、どんな小さなことでも知りたいと願うし、そのことによって一喜一憂するのです。
私たちはヨブ記の発端を忘れてはなりません。神様は地上を巡り歩いてきたサタンに対して、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1章8節)と、鼻高々に自慢なさいます。これだけ見ても、神様はエリフの言うように、人間の善悪に関心を持たないような御方ではなく、その愛のゆえに人間のどんな小さな善にも、悪にも、関心を持ち、喜んだり、悲しんだりなさる御方なのです。
ちょっと難しい言葉で言えば、神の内在性と言ってもいいかもしれません。神様は超越して存在するだけではなく、人間のうちに内在する御方なのです。それゆえに、人間の罪を怒り、悲しみ、人間に語りかけ、人間の信仰をお求めになります。
神の内在性を示す最たる出来事が、イエス・キリストの誕生でありましょう。『ヨハネによる福音書』はそのことを次のように描きます。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1章1-4節,14節)
神の内在性ということが感じられる時、神の存在が私たちの命、人生、日々の生活、心の奥底での深い関わりを持ち、信仰生活がそこから始まるのであります。
ヨブは苦難を通して、超越者なる神の内在性に出会ったとは言えないでしょうか。どうして、神様はこのちっぽけな私に対して、こんなにも深く、強く、とても無視できないような仕方で関わってくるのか・・・ヨブの苦悩は、そのような神の内在性にあるのです。そして、その内在する神を、ヨブが心から受け入れた時、ヨブの心に神我らと共にいますとの真の心の平和が訪れるのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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