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「神は常に正しい」という命題は、果たして疑いようもない真理なのでしょうか? 信仰心があるならば、このように問うこと自体が不遜なことだと思えるに違いありません。そして、弁が立つ人ならば、顔を真っ赤にして、神の正しさを弁護しようと熱弁をふるい、信仰上の正論を論じることに躍起になるでありましょう。
実は、この『ヨブ記』という書は、まさしくそのような話が書かれているのです。ここで「神は常に正しいのか」と問うのは、正しい生活をしてきたに苦しみに遭い、何もかも失ってしまったヨブです。それに対して、「なんと愚かなことを言い出すのだ。神は正しいに決まっているじゃないか」と、躍起になって熱弁をふるうのがヨブの三人の親友たち、そしてエリフなのです。
さて、聖書というのは神への信仰の書なのですから、この議論は、当然、神の正しさを弁護する者たちの勝利に終わらなければならないはずです。ところが、『ヨブ記』はそうなりません。そこが『ヨブ記』の価値あるところなのですが、『ヨブ記』においては、信仰上の正論は、ヨブの現実に前にまったく通用しないのです。ヨブに何の答えも、何の力も与えません。『ヨブ記』が、私たちに与えるメッセージの一つは、力ある信仰の言葉というのは、決して教義の言葉ではないのだということです。
信仰の言葉は、むしろヨブにあったと言えましょう。ヨブの言葉というのは、確かに信仰上の正論をぶち壊すような乱暴な言葉であります。「自分なんか生まれてこない方がよかった」とも言うし、「神様を信じて正しく真面目に生きていても苦労ばかりだ」とも言うし、「自分に対する神様の仕打ちは不当だ」とも言います。しかし、このような言葉は決して不信仰から出てきた言葉ではありません。ヨブは誰よりも神様のことを思っているし、こんな苦しみに遭いながら、なおも神様と共にありたいと願っていたのです。しかし、ヨブの現実において、それは決してきれい事の言葉で表現できることはできませんでした。だから、乱暴でもなんでも真実の言葉で神に訴え、神の答えを求めたのでありました。それがヨブの言葉の真意なのです。信仰の言葉とは、信仰的な言葉を話すことではなく、神への深い信仰に根ざした真実の言葉を語ることなのです。
とはいえ、『ヨブ記』における議論の勝利者は、ヨブであるとも言えません。少し結論を先取りするような形になりますが、この議論を終わらすのは神様ご自身なのです。ヨブの真実の言葉は、友人たちの口先だけの言葉を黙らせました。しかし、ヨブは、神様に黙らせられることになります。要するに、『ヨブ記』は、神様というものを、人間の小さい頭脳で理解しようとすると、ヨブと友人たちの議論のようになってしまうということを言っているわけです。
人間の小さい頭脳で考えた神様というのは、結局人間サイズの小さな神様なのです。その人間サイズの神様を疑いもなく信じ、これこそ神様だというのが、ヨブの親友たちです。他方、本当にそれが神様ならば、おかしいことがいっぱいあるじゃないかと気づいて苦しむのがヨブです。それに決着をつけるのは、神様ご自身に登場願うしかないのです。そして、人間サイズの神様をぶち壊して、本当の神様の偉大さというものに出会うことが必要なのです。
それを果たしたのは、友人たちではなくヨブでありました。ヨブも人間サイズの神様しか知らなかったのですが、少なくとも「それではおかしい。それでは神様が間違っているとしか言えないようなことはいっぱいでてきてしまう」ということに気づき初めて、本当の神様との出会いを求め始めている、そこにヨブの勝るところがあったと言えましょう。
ところが、親友たち、そしてエリフも、そのところが理解できませんでした。人間サイズの神様に満足できないヨブを不信仰者として見なしてしまうわけです。あくまでもそれでどうしてもちぐはぐな論議になってしまうわけです。その辺のところをもう一度頭に入れながら、34章のエリフの言葉を学んで参りましょう。
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「エリフは更に言った。
知恵ある者はわたしの言葉を聞き
知識ある者はわたしに耳を傾けよ。
耳は言葉を聞き分け
口は食べ物を味わう。
わたしたちは何が正しいかを見分け
何が善いかを識別しよう。」
エリフは、ヨブに分別を求めます。口で味を見分けるように、耳で何が正しいのか言葉を聞き分けよ、というのです。なかなかの名言です。
しかし、エリフの言う分別は、人間サイズの分別です。ヨブは、神様の御心は、その人間サイズの分別では測りきれないということに気づきはじめています。エリフは、そのようなヨブを無分別だと裁いてしまうのです。次に来る5-6節は、無分別だとエリフを怒らせた、ヨブの言葉の要約です。
「ヨブはこう言っている。
『わたしは正しい。
だが神は、この主張を退けられる。
わたしは正しいのに、うそつきとされ
罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた。』」(5-6)
ヨブが、神様に対して「わたしは正しい」と主張してきたのは、一つの罪も犯していないという意味ではなく、いつも神様に対して誠心誠意を尽くしてきたというという、神様との関係における真実さを言っているわけです。しかし、エリフはそれを理解しません。それを神への冒涜だと受け取るのです。
「ヨブのような男がいるだろうか。
水に代えて嘲りで喉をうるおし
悪を行う者にくみし
神に逆らう者と共に歩む。
『神に喜ばれようとしても
何の益もない』と彼は言っている。」(5-9)
ずいぶん酷い言い様だと思いますが、これはエリフの信仰熱心さから出てくる言葉なのです。「神様は絶対に正しい。神様が間違うはずがない」と、エリフは堅く信じ切っています。その心が熱ければ熱いほど、それに楯突く人間は許せないという気持ちになるのは、同じ信仰者としてよく分かるのです。
しかし、エリフとて人間であって神ではありません。あくまでも人間の立場で、ヨブの言葉を聞くならば、少しはヨブへの理解や同情心も湧いたと思います。けれども、エリフは人間の立場ではなく、神の立場にたってヨブの言葉を聞き、またヨブを裁こうとしています。ここにエリフの大きな誤りがあるのです。
これはエリフに限らず、信仰者が陥りやすい過ちですから、私たちも本当の気をつけなくてはなりません。信仰者として少しばかり神様を知っているからと言って、神を知らない人や神への信仰が足りない人を裁きたくなるのです。信仰者になるとは、決してそのような神のように偉い人間になることではありません。弱き人間として神様の前に謙って、あくまでも人間の立場を弁えることなのです。
「さて、分別ある者は、わたしの言葉を聞け。
神には過ちなど、決してない。
全能者には不正など、決してない。」(10)
エリフが、神の弁護者になろうとしていることがよく分かります。神を思うがゆえの熱心でありましょうが、実はこういう熱心ほど危険なのです。宗教戦争なるものは、すべて「神のために」という熱心によってなされてきたと言えましょう。
果たして、神様はそのような人間の奉仕を必要とされるのでありましょうか。人間の奉仕を必要とするのは、自分では何も出来ない偶像でありまして、生けるまことの神はそのようなものは必要としないのです。人間が神を支えるのではなく、神が人間を支えておられる。それを忘れてはならないのです。
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「神は人間の行いに従って報い
おのおのの歩みに従って与えられるのだ。
神が罪を犯すことは決してない。
全能者は正義を曲げられない。」(11-12)
神の正義が主張されています。正義とは、正しい分配と、正しい裁きです。たとえば一山のパンを何人かで分配しなければならない時に、どうやって分けたら、みんなが納得できるような公平さが保たれるかということが、正義の第一の問題なのです。
それは、同じ大きさに分ければいいという単純なことではありません。老人もいれば、赤ちゃんもいる。健康な人もいれば、病気の人もいる。そのパンを手に入れるために功績のあった人もあれば、落ち度のあった人もいる。いろいろな要素を鑑みて、それを分配しなければなりません。力のある人や、ずるい賢い人が独り占めしてしまうようなことがあると、必ず不満が出てきます。それは正義が行われていないということになるのです。
もう一つの問題が、正しい裁きです。公正な分配がされても、それで満足しない人は他人のものを盗んだり、あるいは悪意がなくても不注意によって人のパンを損なってしまうようなことがあるかもしれません。そういう人に対する懲罰や、保障ということがなければ、正義は保たれないのです。
エリフは、神様は人間の行い、歩みによって正しい分配と裁きを行われるのであって、それを曲げるような御方ではないと、断言しているのです。本当にその通りであるならば何も問題はありません。ヨブも、かつてはそう信じてきたに違いありませんし、今もそうあって欲しいと願っているのです。
けれども、彼は不条理な現実を体験してしまったのです。正しく歩んできたのに、なぜこのような苦しみを負わせられるのか。自分よりもっと悪い人たちが、どうして安楽を楽しんでいるのか。神が正義ならば、どうしてこのような不公平を許しておられるのか。このように問わざるを得ないのです。
エリフは、ヨブの体験した現実を、現実として認めない、そこに問題があります。神は正しいのだ。それが理解できず、納得できないのは、あなたの方が自分の罪に気づいていないか、あるいは神の御心を理解していないからだと、あくまでも神の正義を疑わないのです。
「誰が神に全地をゆだね
全世界を負わせたというのか。」(13)
誰かが、神様にそれを負わせたのではなく、神ご自身がこの世界を創造され、支配者であるということです。そして、神様は命の源でもあります。
「もし神が御自分にのみ、御心を留め
その霊と息吹を御自分に集められるなら
生きとし生けるものは直ちに息絶え
人間も塵に返るだろう。」(14-15)
つまり、この世界も、人間も、神様の御心一つで支えられているのだ、というわけです。それはまったくその通りです。
「理解しようとして、これを聞け。
わたしの語る声に耳を傾けよ。
正義を憎む者が統治できようか。
正しく、また、力強いお方を
あなたは罪に定めるのか。」
神様がこの世界を、また生命を支えられる時、正義を行わないはずがあるだろうか。そのような方を、あなたは罪に定めようとしているのだと、エリフはヨブに言っているわけです。
「王者に向かって『ならず者』と言い
貴い方に向かって『逆らう者』と言うのか。
身分の高い者をひいきすることも
貴族を貧者より尊重することもないお方
御手によってすべての人は造られた。
これらの人も瞬く間に
しかも真夜中に、死んでいく。
権力ある者は身を震わせて消え去り
力ある者は人の手によらず、退けられる。」(18-20)
神様は、身分などでえこひいきはしない。どんな人にも死は平等に訪れるではないか。これは、神の正義、すなわち公平な分配の動かぬ証拠だというのです。
次にエリフは、正義のもう一つの側面、正しい裁きについて語ります。
「神は人の歩む道に目を注ぎ
その一歩一歩を見ておられる。
悪を行う者が身を隠そうとしても
暗黒もなければ、死の闇もない。」(21-22)
悪を行う者が、神の目から隠れようとしても、神の目には暗黒もなければ、死の闇もない、つまり死で神の目を逃れることはできないということです。
「人は神の前に出て裁きを受けるのだが
神はその時を定めてはおられない。」
たとえ悪を行う者たちが世に憚るように見えたとしても、必ず裁きを受けるのだと、エリフは言います。それは、その通りでありましょう。
「数知れない権力者を打ち倒し
彼らに代えて他の人々を立てられる。
彼らの行いを知っておられるので
夜の間にそれを覆し、彼らを砕き
神に逆らう者として
見せしめに、彼らを打たれる。
彼らが神に従わず
その道を何ひとつ受け入れなかったからだ。」(24-27)
権力者というのは、この社会に正義を行う立場の人ですが、そんな権力者はめったにいません。大抵は、自分の都合のいいように正義を曲げて、弱い人々を食い物にしてしまうのです。神様は、このような権力者をお許しになることはないと言います。
「その時、弱い者の叫びは神に届き
貧しい者の叫びは聞かれる。」(28)
そして、神様は弱い者たちの叫びを決して聞き漏らしたりはしない。こうして、世の中を調整して、必ず正義を実現してくださるのだと、エリフは言うのです。たしかに、この世の様相がそんな風に推移しているのであれば、神を信じるということはもっと容易になったはずです。ところが、現実には、「神はどうしてあのような悪人をお裁きにならないのか」、「神はどうしてあのような善人を顧みられないのか」と、世の不条理を問わざるを得ないことがたくさんあるのではないでしょうか。
それに対してエリフは言います。
「神が黙っておられるのに
罪に定めうる者があろうか。
神が顔を背けられるのに
目を注ぐ者があろうか
国に対してであれ人間に対してであれ。
神は、神を無視する者が王となり
民を罠にかけることがないようにされる。」
つまり、神が黙っているということは、神がそれを是としたまうことなのだ、というのです。また、神が顔を背けられたということも、神がそれを是としたまうことなのだ、というのです。たとえ、それが人間の目に奇異に映ったとしても、「神が罪を犯すことはない。全能者は正義を曲げられない」(12)のだから、神が為し給うことに、人間が文句を言ってはならないということなのです。
しかし、何でもかんでも神の是としたまうものだと受け取ることが、本当に信仰的な考えなのでしょうか。それならば、苦しんだり、悩んだり、悲しんだりすることは皆、人間の不信仰ということになるでありましょう。しかし、私は、そのような苦しみ、悩み、悲しみというものを経験して、「どうしてですか」と祈り始めることが不信仰だとは思えません。むしろ、そこから「御国を来たらせたまえ」「御心を為し給え」という祈りが始まるのではないでしょうか。そして、その祈りから、人間の世の中の悪やいびつさを少しでも取り除こう、苦しんでいる人を哀れんで助けようとする善き業が生まれてくるのでありましょう。キング牧師の解放運動であれ、マザーテレサの愛の業であれ、「これではいけない」という、強い気持ちがあればこそ、なのです。
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エリフは、姿勢はそうではありません。神の正義と世の現実が矛盾していることを決して認めないのです。そんなことを言うのは、人間の不遜であるというわけです。
「人が神に対してこう言ったとする。
『わたしは罰を受けました。
もう悪いことはいたしません。
わたしには見えないことを、示してください。
わたしは不正を行いましたが
もういたしません。』
この言葉にどう報いるかを決めるのはあなたか。
あなたは神を軽んじているではないか。」(31-33a)
「人は神に対してこう言ったとする」とありますが、「人」とはヨブのことでありましょう。すると、ヨブがたとえ悔い改めたとしても、その悔い改めを受け入れるかどうかは、神ご自身が決めることだという意味になります。つまり、ヨブは、「わたしは神様に謝ったではないか。罪の贖いの捧げ物をいつもしてきたではないか。それなのに、どうして、私の罪を責めるのか」などいう立場にないのだと、言っているわけです。
「態度を決めるのは、わたしではなくあなただ。
よく考えて話しなさい。」(33b)
「態度を決めるのは、あなただ」というのは、信仰的な決断を求める言葉です。もう少し優しく穏やかにですが、実は私もよくこのような言い方をします。私たちは、神様、イエス様を伝えることはできます。その愛と恵みを証しすることもできます。そのような知識を与えることはできますが、信仰を与えることはできません。信仰とは、その人自身が、神様に対して決めなければならない態度だからです。
とはいえ、エリフは自信たっぷりに、知恵のある人は、みんな私の言うことを分かってくれるに違いない、というのです。
「理解ある人はわたしに言うだろう。
知恵ある人はわたしに同意するだろう。
『ヨブはよく分かって話しているのではない。
その言葉は思慮に欠けている。
悪人のような答え方をヨブはする。
彼を徹底的に試すべきだ。
まことに彼は過ちに加えて罪を犯し
わたしたちに疑惑の念を起こさせ
神に向かってまくしたてている。」
ヨブへの容赦ない非難です。信仰を決意させるときに、このような非難や脅かしを用いるのは、新興宗教のやる手法です。ここでは「疑惑の念」を起こさせることも、非難されています。これもまた、新興宗教の手段です。エリフの言葉が、そのような新興宗教の言葉に似てくるのは、愛の欠如によるものではないでしょうか。
愛というのは、同じ場所に立とうとすることです。御子なるイエス様も人間を愛し給う結果として、人間の姿となって世に宿られました。罪人と同じ者となって十字架にかかられました。ここに愛があるのです。そして、この愛こそ、人間に信仰的な決断を迫るものなのです。エリフには、このような愛の言葉がありません。あくまでも神の立場で、罪人ヨブを教え、諭し、裁くというスタンスでいるのです。 |
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