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ヨブと三人の友人らの議論の終わりに、突如として割り込んできたエリフでありますが、彼はいったい『ヨブ記』の中でいったいどのように位置づけられるのでしょうか。ある人は、『ヨブ記』の中で、このエリフこそヨブの問い、すなわち人生の不条理に説得力のある答えを与えている論者であると評価します。この立場は、私にもよく分かります。エリフの論は、確かに一つの答えを私たちに与えてくれていると思うのです。
しかし、ちょっと気にくわないものも感じるのです。それは、エリフがヨブに対する同情をまったく持っていないように思えるからです。エリフは、「ここにあなたの過ちがある」(8節)と、論をもってヨブを断罪しました。確かに、ヨブの論は荒々しく、時には行き過ぎの感も否めなせんが、決して机上の論ではありません。神様が投げかけられた問いを全身で受け止め、四苦八苦しながらも神様に向かって必死に答えようとしている姿がよく分かるのです。そのようなヨブに対する同情が、エリフにはまったく感じ取れないわけです。
別の言い方をすれば、エリフは人間でありながらあたかも神の代弁者として語っています。その点についてはヨブの三人の友人らと少しも変わることがありません。それに対して、ヨブはあくまでも人間として、しかも神に苦しめられ、神との隔絶を味わい知った人間として、しかもなお神に向かって関係を持ち続けようとして問い続けます。私は、どんな雄弁な言葉よりもこの愚直な姿勢、この生き方にこそ人間としてヨブの真実があるような気がしてならないのです。そしてそれを、つまり苦しめる人間の立場というものを見落としては、決してヨブの答えは出てこないと思うわけです。そのようなわけで、私は一方ではエリフの言葉を、一定の評価を与えながら、他方では疑問を挟むという仕方で読んで参りたいと思います。
さて、以上は前回お話ししたことの要約です。今日は、13節からエリフの論を見て参りましょう。
「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。
神はそのなさることを
いちいち説明されない。」(13節)
尼崎における福知山線の列車事故があった時のことでした。愛する家族を失って悲しみに暮れている方が、差し向けられたマイクにこう答えていました。「私は運転手よりも、JRよりも、神様を憎む」と。この人は、これまで何かしらの神様を信じきたというわけではないように思えました。普段は神様なんて言葉を口にすることも滅多になかったに違いありません。つまり、今まで神様を愛してきたのに、もう愛せなくなった、それどころか憎むようになった、そう意味の言葉ではないのです。
私は、ずいぶん身勝手な言いぐさだなあと思いました。しかし、自分がその身になって考えてみると、この人は単なる身勝手ではなく、とても本質を突いたことを言っているのでは言っているのではないかと思い直さざるを得ないのです。
この事故は死者107名、負傷者550名を出した大規模な列車事故です。私たちはその規模の大きさを見て、どうしてこんな事故が起こったのだろうと思います。これについてはいろいろなことが取りざたされましたが、この事故に巻き込まれた人々の感覚はちょっと違うのではないでしょうか。彼らにとって、「どうして?」という問いは、単に事故の原因だけに向けられているわけではないと思うのです。脱線してしまったのは列車だけではなく、彼らの人生でもあったからです。たとえ列車脱線の原因がわかったところで、今までの人生が突如として失われてしまった悲劇については何ら納得できる答えを見いだせるわけではないでしょう。
そうしますと、やはりこれは運転手のミスとか、JRの安全管理の不届きとか、そういう次元の問題としてではなく、神様に問うべき問題であるということに至のではないでしょうか。逆に言うと、日頃は神様ということを少しも考えないで生きてきた人であっても、神様ということを考えなければどうしても生きていけない問題、解決の糸口が見えてこない問題が起こったということなのです。
そのような人々に対して、エリフの言葉はどれだけの意味があるのでしょうか。
「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。
神はそのなさることを
いちいち説明されない。」(13節)
エリフは、人間が神様に向かって「どうしてですか」などと問うことは許されていないのだ、と言っているに等しいわけです。果たしてそうなのでしょうか? 神様に問うことが許されないのならば、私たちはどのように神様を知ることができるでしょうか。 |
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エリフは、さらに次のように言葉を継ぎます。
「神は一つのことによって語られ
また、二つのことによって語られるが
人はそれに気がつかない。」(14節)
神様は決して沈黙されているわけではないと、エリフは言います。すべてをつまびらかに語っておられるわけではないにしても、いくつかの方法をもって人間に御心を教えておられるのだと言います。しかし、人間が往々にしてそれを聞き逃しているのだとも、語っているのです。
エリフは、間違ったことを言っているわけではありません。神様という御方は、人間の脳ミソの中に入ってしまうような小さな御方ではないでしょう。その存在も、その御業も、人間の叡智を遙かに超えているに違いありません。ですから、人間の思いつくところにだけに従って、神様は正しいとか、間違っているということは言えないと思うのです。
大切なことは、神様からのメッセージに気づくことだと、エリフは言います。先ほどは列車事故の話をしましたが、誰の人生にも「思わぬこと」というものが起こりえるのです。悪いことばかりじゃなく、良いこともあるかもしれません。要するに「思わぬこと」というのは、自分で考えたり、願ったり、望んだりしたものではないことです。では、だれがそれを私に与えたのか。そこに神様の御手があるとするならば、同時に何らかのメッセージが込められているかもしれません。それに気づき、神様の御心を受け取ることが大切だというわけです。
荒川教会にもコンサートに来てくださったことがある山口博子さんが歌う「時を忘れて」という歌があります。
目を閉じなければ 見えない世界がある
口を閉じなければ 言えない言葉がある
耳をふさがなければ 聞こえない声がある
歩み止めなければ 会えない人がいる
少しぐらい 遅れたとしても
大切なものを 見つけたいから
道であり、真理であり、いのちである主に
尋ね求める 時を忘れて
これは、自ら自分の目を閉じたり、歩みを止めたりということもあるでしょうが、否応なしにそういう状況に追い込まれてしまうことがある、そういうことも言っていると思います。そういう時に、実は大切なことが見えてきたり、気づいたりすることがあるのです。だから焦らないで、そういう時にはそういう時の大切さがあるのですから、そこで神様の声をちゃんと聞くことが大切だということを言っているわけです。
一方、エリフは夢を通して、神様が私たちに御心を示される時があると言います。
「人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると
夢の中で、夜の幻の中で
神は人の耳を開き
懲らしめの言葉を封じ込められる。
人が行いを改め、誇りを抑え
こうして、その魂が滅亡を免れ
命が死の川を渡らずに済むようにされる。」(15-18節)
確かに、聖書には、夢が神様の啓示の手段として用いられたという話がずいぶんあります。すべての夢が、神様の啓示だというわけではないと思います。しかし、夢には、神様が啓示の手段として用いるのに都合のいいことがあるのかもしれません。
たとえば夢を見る時というのは、人間は眠っているのです。それは見方によっては、先ほどの山口さんの歌でいう目を閉じ、口を閉じ、耳をふさぎ、歩みを止めた状態だとも言えないでしょうか。順調で自分のことに夢中になっている時や、必死に自分を守ろうとしている時というのは、なかなか他人の声は耳に入りません。まして忠告などはそうです。神様の声も、そういう時ではなく、私たちは活動をやめた時に、はじめて聞くことができるものなのではないでしょうか。それは、神様がわざわざ安息日というものをお定めになって、すべての仕事を休みなさいと言われたことにも通じることだと思います。
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さて、エリフは語調を改め、一人の苦難の中にいる人を描き出します。
「苦痛に責められて横たわる人があるとする。
骨のうずきは絶えることなく
命はパンをいとい
魂は好みの食べ物をすらいとう。
肉は消耗して見えなくなり
見えなかった骨は姿を現し
魂は滅亡に
命はそれを奪うものに近づいてゆく。」(19-22節)
「命はパンをいとい・・・それを奪う者に近づいていく」 生きることを拒絶したくなるほど苦しみを味わっている人の姿です。そして、その人は、今、エリフの目の前にいるのです。エリフはヨブの姿をそのまま映し描いているのでありましょう。私はエリフのこのような無神経さに腹立たしさを覚えます。どんな正しき弁も、これでは耳を傾ける気がなくなってしまう、そんな気がするのです。
それはともかくとして、エリフが言おうとしているのは、このような過酷な苦しみ遭っている人間の救いの希望がどこにあるかということについてです。先ほど申しましたように、エリフは、ヨブが苦しみに遭っているのは、神様のご計画があってのことで、それに気づくことが大事だと考えています。言ってみれば、神様は苦難を通してヨブに何かを教え、悟らせようとしている、それがエリフの考えです。
そうすると、苦難の目的は人を滅ぼすことにあるのではありません。それによって、人を教育し、成長させることが目的なのです。それなら、どんな厳しい苦難であっても、希望があるはずです。それを、エリフは語るのです。
「千人に一人でもこの人のために執り成し
その正しさを示すために
遣わされる御使いがあり
彼を憐れんで
『この人を免除し、
滅亡に落とさないでください。
代償を見つけて来ました』
と言ってくれるなら
彼の肉は新しくされて
若者よりも健やかになり
再び若いときのようになるであろう。
彼は神に祈って受け入れられ
歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ
再び神はこの人を正しいと認められるであろう。
彼は人々の前でたたえて歌うであろう。
『わたしは罪を犯し
正しいことを曲げた。
それはわたしのなすべきことではなかった。
しかし神はわたしの魂を
滅亡から救い出された。
わたしは命を得て光を仰ぐ』と。」
エリフは、ヨブをこの苦難から救うのは、ひとりの御使いであり、「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれる仲保者であると言っています。この仲保者に出会い、その助けを受けるならば、肉体も心も新しい力にあふれ、再び神様を喜び讃えることができるようになるであろうと言っているのです。
これはイエス・キリストが誕生するずっと前のことですが、まさにイエス様を彷彿とさせるような話です。はたして、エリフはどういうつもりで、このようなことを言ったのでありましょうか。イエス様の来臨を預言しているのでしょうか。そこまで自覚があったかどうか分かりませんが、実は『ヨブ記』には、救い主イエス様を待ち望むような言葉があちらこちらから聞こえてくるのです。
「このような時にも、見よ
天にはわたしのために証人があり
高い天には
わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友
神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(16:19-20)
「わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。」(19:25-26)
人間の不条理、苦難を主題とした『ヨブ記』の中に、このように神と人間の間に立って「執り成す方」、「贖う方」の存在への希望、あるいは確信が語られているのは、とても興味深いことです。逆に言えば、そのような方なしに、神様と人間が共に住む、生きるということはきわめて難しい現実があるという認識があるのではないでしょうか。
清く正しく生きている人は神様に愛され、悪いことをしている人は神様に憎まれる・・・そういう図式ではないのです。行いの善悪にかかわらず、神様と人間の間には簡単には修復できない溝があり、そこを橋渡ししてくださるような存在を必要としているということなのです。
「まことに神はこのようになさる。
人間のために、二度でも三度でも。
その魂を滅亡から呼び戻し
命の光に輝かせてくださる。」
私は、エリフの短所をずいぶん厳しく指摘しましたが、実はエリフはしばしば私たちの魂を奮い立たせるような力強い希望の言葉を語るのです。その点を、私は高く評価しますし、実際、私自身も慰めを受けてきました。この御言葉もそうです。特に「二度でも、三度でも!」という言葉が気に入っています。「まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。」何と頼もしい希望でしょうか。こういう言葉には、余計な解説はいらないでありましょう。御言葉そのものの力強さを味わうべきであります。
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さて、33章の最後の部分を読んでみましょう。
「ヨブよ、耳を傾けて
わたしの言うことを聞け。
沈黙せよ、わたしに語らせよ。
わたしに答えて言うことがあるなら、語れ。
正しい主張を聞くのがわたしの望みだ。
言うことがなければ、耳を傾けよ。
沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。」
エリフのこういうところが鼻につくのです。今日は、ほめたり、けなしたりで忙しいのですが、エリフに決定的に欠けているのは、ヨブのいる位置にまで自分が下り、ヨブの立場に立って、ヨブの言うことに心の耳を澄ますことです。ヨブの乱れた言葉の奥に潜む苦悩の叫びを、愛をもって聞き取ろうとすることです。愛とは、聞くことはでないでしょうか。エリフは、自分の言葉に耳を傾けよと言いますが、自分が耳を傾ける者にならなければならないことに気づいていないのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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