ヨブ物語 44
「 エリフは預言者か?」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記33章1-13節
愛がなければ、やかましい銅鑼
 ヨブは神様の前に誰よりも清く正しく生きていたにも関わらず、一夜にして無一物となり、恐ろしい病気に倒れて、不幸のどん底に落とされました。このヨブの惨状を聞きつけてはるばる見舞いに来た三人の親友たちも、最初はヨブの姿のあまりの酷さに言葉を失い、ただ沈黙するばかりでありました。

 ところが、やがてヨブが「わたしなんか生まれない方が良かった」と嘆き始めると、彼らは心のうちに芽生えてきた猜疑心を言葉にして表し始めます。すなわち、「君は何か、大罪を犯して、神様を怒らせたのではないか。神様に過ちを認め、悔い改めて、ゆるしていただきなさい」と。ヨブは、友人らが自分を慰めてくれるどころか罪人扱いをすることに驚き、反論します。「とんでもない。わたしはこんな生き地獄に落とされるような罪を何も犯していない」。三人の友人たちは、ヨブの言葉を傲慢だと受け取り、だんだん非難の度合いが増してきます。それに乗じて、ヨブの方も言葉が過激になり、激しい論争が繰り広げられてきたのです。

 そこに突然、エリフという謎の若者が登場しました。エリフはいつからこの論争の現場にいたのか分かりませんが、「ずっと話を聞いてきた」と自分では言っています。しかし、自分は若者だから黙っていたのだというのです。そのエリフが、ついに口火を開きます。まずは、ヨブの三人の親友らに対して、「あなたがたは、ヨブの暴言を聞きながら、返す言葉を失ってしまった。あなたがたの知恵は行き詰まってしまった。いい年をしてなんと情けないことよ。私は若者だと思って黙ってきたが、もう我慢がならない。私にも発言させてくれ。私にはいいたいことがたくさんある。それが私を駆り立て、張り裂けんばかりなのだ」と言うのです。

 おおざっぱに言えば、これが32章までの話です。33章になって、エリフはここでやっとヨブに向かって話しかけます。

 「さてヨブよ、わたしの言葉を聞き
  わたしの言うことによく耳を傾けよ。」(1)

 エリフは、自分は若者だと言いながら、ずいぶん上段に構えた物の言い方をしているように思います。それは、エリフの中に、自分は神の霊によって語るのだ、という自負があるからでしょう。つまり、預言者を気取っているわけです。

 「見よ、わたしは口を開き
  舌は口の中で動き始める。」(2)

 まるで、自分が話しているのではなく、舌が勝手に動き出して語っているのだと言わんばかりです。

 「わたしの言葉はわたしの心を率直に表し
  唇は知っていることをはっきりと語る。
  神の霊がわたしを造り
  全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。」(3-4)

 つまり、これは私の言葉ではなく、わたしの内に宿っている「全能者の息吹」、すなわち神の霊が私に語らせているのだということなのです。そのような自信に満ちあふれて、エリフはヨブに挑んでいるのです。

 はたしてエリフは本当に神の預言者なのでしょうか。それとも単に預言者気取りなのでしょうか。これについては学者や説教者たちの間でも意見が分かれているところです。

 たとえばエレミヤという預言者がいます。彼もエリフ同様に若者に過ぎない者でありました(エレミヤ書1章6節)。しかし、神の霊に満たされ、大いなる知恵の言葉を語り、神の御業のために用いられたのです。また、エレミヤもまた、心の中に神の言葉が満ちあふれ、黙っていると疲れ果てて耐えられなくなると言っています(エレミヤ書20章9節)。このような点を見ると、エリフとエレミヤは非常によく似ているのです。

 また、肝腎の発言内容においても、エリフは因果応報を越えた新しい苦難の意義をヨブに差し示しているところから、学者の中にも「この書の与える唯一の解決は、エリフの演説の中に含まれている」(ゼリン・ロスト、『旧約聖書著論』)と積極的な評価をしている人がいるほどです。

 しかし、その一方で、どうも素直にエリフを預言者としては認められないという気持ちも残ります。それは、エリフの言葉の中に理屈や正しさはあっても、愛情がみられないからです。その点が、エリフとエレミヤとの違いでもあります。

 エレミヤは愛国者でありました。たとえば、厳しい神の裁きの言葉を民に語りつつ、その厳しさに自分自身がそれで苦しむのです。なぜなら、エレミヤもまた民の一員であるからです。だから、心の底では、神の言葉を語るというのは本当に辛い仕事だと、エレミヤは思っています。しかし、神の言葉があふれてきて、それを語らざるを得ないのだというわけです。

 しかし、エリフは、神と一体化し、神の言葉を語ることに小気味良さを感じている観があります。エリフは決して間違ったことを語るわけではありませんが、正しい言葉も愛がなければ何の役にも立たないのだということは、使徒パウロが教えているところです。

 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(『コリントの信徒への手紙一』13章1節)

 エリフは、まさにこのような愛なき危険に落ちっているのではないでしょうか。

 「答えられるなら、答えてみよ。
  備えをして、わたしの前に立て。」

 この上段に構えたものの言い方・・・。

 「神の前では、わたしもあなたと同じように
  土から取られたひとかけらのものにすぎない。
  見よ、わたしには脅かすような威力はない。
  あなたを押さえつけようとしているのではない。」(5-7)

 口先では、「わたしもあなたと同じ人間だ。あなたを脅かすつもりはないし、押さえつけるつもりでもない」とは言うものの、実際はヨブを一方的に断罪しようとしているのは明らかです。その点が、どうしてもエリフを預言者と認められないと感じる点なのです。

切り捨てられた心

 「あなたが話すのはわたしの耳に入り
  声も言葉もわたしは聞いた。」(8)

 エリフは、ヨブの話すのをずっと聞いていたということです。が、それだけではありません。エリフは、それでヨブに対する一つの理解をもったのです。

 「『わたしは潔白で、罪を犯していない。
  わたしは清く、とがめられる理由はない。
  それでも神はわたしに対する不満を見いだし
  わたしを敵視される。
  わたしに足枷をはめ
  行く道を見張っておられる。』
  ここにあなたの過ちがある、と言おう。」

 エリフは、自分なりにヨブの言葉を要約して、二つの点について、あなたの間違いがここにあると言います。一つは自分には罪がないと言い張る点、もう一つは、神様を自分に敵対する者だと言っている点です。確かに、ヨブはこのような主張を繰り返してきたと言えましょう。しかし、ヨブはそれだけを言ってきたのではありません。7章20-21節で、ヨブはこう言っています。

 「人を見張っている方よ
  わたしが過ちを犯したとしても
  あなたにとってそれが何だというのでしょう。
  なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
  なぜ、わたしを負担とされるのですか。
  なぜ、わたしの罪を赦さず
  悪を取り除いてくださらないのですか。」

 ヨブは、自分にはどんな小さな罪もないと言い張っているのではありません。私も過ちを犯したことはある。しかし、それはこんなに大きな天罰を受けなければならないほどのことだったでしょうか? 神様のお心が分からないということで、ヨブは悩み、苦しみ、また激しく神様に向かって叫んでいるのです。

 エリフは、確かに、ヨブの話をよく聞いていたかもしれませんが、その行間にあるヨブの気持ちをまったく切り捨ててしまっています。しかし、人の真実の気持ちというのは、言葉そのものではなく、そのような行間にこそ表れるものなのです。その行間を読む力の欠如、それがエリフの冷たさとなっているわけです。
エリフの神観
 
 「神は人間よりも強くいます。
  なぜ、あなたは神と争おうとするのか。」(12-13)

 そんなことはヨブは百も承知です。いや、神の大いなる御手に打たれているヨブこそ、そのことを誰よりも知っていると言ってもよいでありましょう。エリフはそれを教義として語っていますが、ヨブはそれを体験として知っているのです。しかし、ヨブは、その大いなる抗いがたい神様に対して、自分の心からの思いを正直に訴え、呼びかけます。そこに、ヨブと神様の関係の深さが表れているのではないでしょうか。エリフには教義はあっても、このような生きた神との交わりがないのです。

 「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。
  神はそのなさることを
  いちいち説明されない。
  神は一つのことによって語られ
  また、二つのことによって語られるが
  人はそれに気がつかない。」(13-14)

 ヨブのように、神様が答えてくださると信じて、神様に呼びかけるなどというのは間違っている。人間に許されているのは、ただ神様が一つ、二つの方法によって啓示されたことを受け取って悟ることだけだというわけです。

 確かに、人間は神様の御心やご計画のすべてを知ることはできません。人間が知る得ることは、神様が啓示してくださったことに限ります。そして、エリフの言うように、神様はその深い御心のほんの一端をお教えくださるに過ぎないのです。またエリフは、しばしば人間は神様のお示しくださっていることすらも気づかないで、御心が分からないと言っていることがあるといいます。それも事実でありましょう。エリフは正しいことを言っているのです。

 しかし、それでは「神は愛なり」という点についてはどうでしょうか。「神は愛なり」とは、神様が人間との交わりを求めておられるということです。それならば、神様がご自分を啓示なさるのは、神様がご自分のことを人間に分かってもらいたいからに違いありません。それならば、神様はご自分を知ろうとして呼び求める人間を嫌いになることがあるでしょうか。とても、そうとは思えないのです。
 
 エリフはそのことを知らず、ヨブは知っています。そこがエリフとヨブの大きな違いなのです。
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