ヨブ物語 43
「年の功にまさる知恵」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記32章6-22節
亀の甲より年の功
 前回は、突然のエリフ登場を受けて、エリフと如何なる人物なのか、エリフがここに登場するのはどうしてなのかということをお話ししました。今日は、さっそくエリフの発言を読んでまいりましょう。

 「ブズ人バラクエルの子、エリフは言った。
  わたしは若く
  あなたたちは年をとっておられる。
  だからわたしは遠慮し
  わたしの意見をあえて言わなかった。」(6)

 エリフがいつからこの場にいたのかは明らかでありませんが、エリフとヨブの出身地を比べますと、二人ともアブラハムの兄弟ナホルの子孫ということになります。定かなことではありませんが、彼はヨブの友というより近親者としてはじめからヨブの側にいたのかもしれません。そして、ヨブと三人の友のやりとりを見守っていたのです。

 しかし、「遠慮し、わたしの意見をあえて言わなかった」と、彼は言っています。黙っている人が、必ずしも意見がないとは限りません。黙っていても、人間なのですからいろいろなことを感じたり、思ったりしているのは当然です。それにも関わらず、エリフが敢えて黙っていたのは、年長者への敬意を払ったからでした。

 「日数がものを言い
  年数が知恵を授けると思っていた。」

 「亀の甲より年の功」と言うように、年長者には人生経験という豊かな知恵があります。もちろん、そこには成功ばかりではなく、挫折や苦難もあったことでしょう。しかし、だからこそ年長者の知恵が尊いのでありまして、そのような多くの困難を乗り越えてきたからこそ語ることが出来る生き抜くための知恵や力があるのです。「先生」という言葉も「先に生まれた」という意味ですが、知恵の豊かさは経験の豊かさだと言ってもいいかもしれません。 
年の功にまさる知恵
 しかし、それなら年長者に向かって物を言うということは身のほどを知らぬ若者のすることなのでしょうか。そうとは限りません。言うまでもありませんが、年長者だからと言って、必ずしも若者よりも真理があり、分別があるとは限らないのです。

 エリフは年長者の人生経験というものに敬意を持ちながら、しかし、本当の知恵というのは人生を生き抜くことにあるのではなく、神様を知ることにあるのだと、次のように言います。

 「しかし、人の中には霊があり
  悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。」(8)

 この言葉からは、創世記2章7節の御言葉を思い起こすことができます。

 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

 「人間とは何か」ということに対する聖書の答えが、ここにあります。人間の本姓は、「土の塵」と「神の息」にあるのです。私たちが「土の塵」で造られたということは、自然界の中の一員として有限な存在であるということを意味しています。

 同時に、私たちは「神の息」を吹き込まれて、神の息を内に持つことによって、人間として生きる者となったと言われています。神の息吹が、人間を単なる動物ではなく人間としたと言うことなのです。「息」には「霊」という意味があります。神の霊によって生かされることによって、私たちは真の人間とされるのです。

 神の霊に生かされるとは、どういうことでありましょうか。神の霊とは、神の知恵であり、神の愛であり、神の力であります。そのような神の霊の働きこそが、自分を人間として生きていくための根源なのだということを知り、また信じて、神様をわが主と仰ぎ、その働きに身を委ねる者となることが、神の霊に生かされるということであります。少し別の言い方をすれば、神様との交わりに生きることだと言ってもいいでしょう。

 そのような神様との交わりを大切にすることなしに、いくら長生きをして人生経験を積んでも、それは本当の知恵にならない。逆に、たとえ年若くても神様との生き生きとした交わりの中に生かされているならば、人間として真の知恵を神様の霊の働きによって持つことができるのだと、エリフは言いたいのでありましょう。

 そして、だから私にも発言がゆるされるはずだと言うのです。

 「日を重ねれば賢くなるというのではなく
  老人になれば
  ふさわしい分別ができるのでもない。
  それゆえ、わたしの言うことも聞いてほしい。
  わたしの意見を述べてみたいと思う。」(8-10)

 挑発的な言い方にも受け取れますけれども、エリフはこれまで年長者を重んじて沈黙を守ってきたのですから、基本的には礼節を弁えた若者だったのだろうと思います。
負け惜しみを言うな
 しかし、前回お話ししましたように、エリフは抑えられない怒りによって発言をはじめました。その怒りとは、神を冒涜し続けるヨブに対する怒りであり、またそれを止められないことへの三人のヨブの友らに対する怒りであります。

 「わたしはあなたたちの言葉を待ち
  その考えに耳を傾け
  言葉を尽くして論じるのを聞き
  その論拠を理解しようとした。
  だが、あなたたちの中にはヨブを言い伏せ
  彼の言葉に反論しうる者がない。」(11-12)

 エリフは、年長者の考えに一生懸命に耳を傾け、理解しようとしてきました。しかし、ついに彼らはヨブに言い負かされ、反論できなくなってしまったのです。その上、「我々は正しいことを言ってきたのだが、ヨブの頑固さを打ち砕けるのは神様しかない」というような負け惜しみまでいっていたようです。

 「『いい知恵がある。
  彼を負かすのは神であって人ではない
  と言おう』
  などと考えるべきではない。」(13)

 「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではない」というのは、言葉だけを取れば、信仰的な言葉に受け取ることも可能です。「神様にお任せしよう。それが最高の知恵だ」ということだからです。しかし、いかに信仰者らしく装っても、本当のところは負け惜しみなのです。お手上げになってしまったことに対する悔し紛れの言葉なのです。自分の敗北を隠すためのきれい事なのです。若きエリフは、そのような彼らの狡さを見抜いて余計に憤りを激しくしているのかもしれません。

 「神のみぞ知る」とか、「神様でもなければできっこない」とか、こういう言葉は、しばしばこのように負け惜しみの言葉として使われます。もし、本当に信仰の言葉として、このような言葉を使うならば、そこには神様に対する期待が込められ、確信と希望に満ちた言葉になるに違いありません。私たちは負け惜しみではなく、信仰をもって神への希望を語りたいものです。
理屈じゃない
 エリフは、「神様にお任せしよう。それこそが知恵だ」などと負け惜しみをいう前に、私の話を聞いて欲しい。あなたがたの知恵は行き詰まってしまったが、私には別の知恵がある、別の言葉があると言います。

 「ヨブはわたしに対して議論したのではないが
  わたしはあなたたちのような論法で
  答えようとは思わない。
  彼らは気を挫かれて、答えようとせず
  言うべき言葉を失っている。
  わたしは待ったが、彼らは語らず
  行き詰まり、もう答えようとしない。
  それならわたしが
  自分の言い分を述べさせてもらおう。
  わたしの意見を言わせてもらおう。」(14-17)

 「論法」という言葉が使われているのが気になります。これは論法の問題なのでしょうか。確かに、自分の意見をきちんと伝えるためには、話すための技術も必要でありましょう。しかし、言葉というは論法だけでは伝わらないものなのです。

 かつて、私はある仏教系の新興宗教に入っている友人から折伏を受けたことがあります。折伏というのは間違った考えにとりつかれた人を、仏法で説き伏せることです。その宗教では、他宗教の人間を説き伏せるために教本のようなものがあって、キリスト教の矛盾や歴史的な過ちなどを徹底的に問いつめられました。これが友人ではなかったらケンカになるところだったでしょう。

 幸い、そんな風にはならず、最後は相手もあきらめて友人同士の絆が壊れることはなかったのですが、折伏をあきらめた後、彼は「クリスチャンというのは実に不思議だ。どんなに論理的に追いつめても、少しも信仰が動じない」と、しみじみと語っておりました。私にしてみれば、クリスチャンというのは理屈で信じているわけではなく、イエス様とのつながりによって信じているのですから、どんな論法で信仰を攻撃されてもイエス様の愛のある限り信仰がビクリともしないのは当然なのです。

 ともあれ、理屈だけで人間の考えや思想が変わるものではないのです。たとえば好き嫌いが理屈で変わるでしょうか? どんなにおいしいよと説明されても、嫌いな食べ物が好きになることはないに違いありません。逆にどんなにまずいと言われても、好きなものは好きなのです。

 私は、説教者ですから、いかに伝えるかということには関心があります。論法や言葉の使い方にも気を配ります。しかし、準備する段階ではかなり気にして完全な原稿を用意しているのですが、実際に礼拝で説教をする時には、逆にそういうことに捕らわれないで、寝ずに準備した原稿さえも無視してお話をすることが多いのです。

 というのは、話すというのは、一方的なことではなく交わりだからです。聴衆がたとえ黙って聞いていても、語る者は顔ぶれや姿勢などから聴衆の声を聞き取る必要があります。だから、同じ説教原稿でも、聴く者によって語り方が違ってしまいます。それがなければ、つまり書き上げた原稿を読むだけであったならば、話は伝わらないと思っています。

 それから、説教の場合は聴衆だけではなく、神様との交わりということも大事です。神様の言葉を取り次ぐのが説教なのですから、準備の時はもちろんのこと、まさに説教をしている時にも神様の声を聴くということが大事なのです。ですから、まったく準備していなかったことを説教中に示されて語ることも多いのです。

 その交わりの中で語られなければ、話というのは心の中にまで届きません。私がそれに成功しているとは言えませんが、そういう心がけをもっているわけです。

 エリフは、その辺のところをどう考えていたのでしょうか。彼はどうも理屈や論法ばかりを気にして、ヨブの心の声を聴くということが出来ていなかったような気がするのです。だから、私はエリフの言っていることは、かなりいい線をいってると思うのですが、なんだから独り言みたいに聞こえてしまうのです。

 「言いたいことはたくさんある。
  腹の内で霊がわたしを駆り立てている。
  見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋
  新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ。
  わたしも話して、気持を静めたい。
  唇を開いて、答えたい。」(18-20)

 自分の気持ちを静めるだけの言葉は、どんな論法で語られようとも、相手は傷つけることがあっても、相手に伝わることはないのです。

 「いや、わたしはだれの顔を立てようともしない。
  人間にへつらうことはしたくない。
  気づかずにへつらうようなことを言ったら
  どうか造り主が
  直ちにわたしを退けてくださるように。」(21-22)

 「へつらう」というのは御機嫌を取る態度の言葉ですが、へつらうのではなく、相手の気持ちを気遣うことは必要です。たとえ気遣ったとしても、言葉というのは難しく、相手にちゃんと伝わらないこともあるのです。しかし、多少行き違いや誤解があっても、愛があれば、それを乗り越えて気持ちを通じ合わせることができるようになるでしょう。時間はかかるかもしれませんが、きっとそうなると信じています。

 エリフにはヨブへの怒りがありました。その怒りには彼なりの正当な理由がありました。しかし、ヨブへの愛があったのでしょうか。それが重要なのです。
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