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32章から『ヨブ記』は新しい局面に入ります。エリフという、今まで登場してこなかった人物が突如として現れ、ヨブに対して、またエリファズ、ビルダド、ツォファルの三人の友人らに対しても、延々と38章まで演説を始めるのです。エリフとは如何なる人物でしょう。
「この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。」(2節)
エリフは「ブズ出身」とあります。一方、ヨブは出身は「ウツの地」の人でありました(ヨブ記1章1節)。そして、ウツとブズは、実は兄弟であり、アブラハムの甥であったことが、創世記に記されています。
「アブラハムに知らせが届いた。『ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルとの間に子供を産みました。長男はウツ、その弟はブズ、次はアラムの父ケムエル、それからケセド、ハゾ、ピルダシュ、イドラフ、ベトエルです。」(創世記22章20-22節)
つまり、ヨブとエリフの祖先は共にアブラハムの弟ナホルであり、兄弟であったの長男ウツの子孫で、エリフはウツの弟ブズの子孫であったということらしいのです。こんなことから、エリフは他の三人の友人よりヨブに近い関係にあったのではないかと言う人もいます。
ちなみに、エリフとは、「彼は神である」という意味をもった名前です。父の「バラクエル」は、「神が祝福する」という意味、部族名「ラム」は、「神は高い」という意味があると言います。このような名前の意味は、あまり本質的なことではないかもしれません。しかし、エリフ登場の意味を考えるときに、私の想像力を掻き立ててくれます。 |
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エリフは、ヨブの物語の中に唐突に登場してきます。どうしてここでエリフが出てくるのか、誰もが疑問に思うに違いありません。31章の最後には「ヨブは語り尽くした」とあります。そこから38章1節の「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と続く方が、物語としても自然な流れなのです。ですから、ほとんどすべての学者が、エリフの言葉は後代による挿入であるとしています。つまり、余計なもの、異質なものがここに入っているのだ、というのです。
なるほど、エリフは後にも先にもこれっきりの存在です。『ヨブ記』の最後にヨブが三人の友人らが和解する場面がありますが、そこにもエリフの姿はありません。これが後代の挿入であるとする学説はかなり説得力があると思います。しかし、エリフは果たして『ヨブ記』の中で余計な存在、異質な存在だと言い切ることができるのでしょうか。私は、決してそんなことはないのではないか、むしろこのエリフの存在によって、『ヨブ記』により深い生命、より生き生きとしたリアリティが与えられているとさえ思うのです。
どういうことかと言いますと、エリフの名は「彼は神である」という意味だと申しました。これが面白いと思うのです。31章で、ヨブは神様の登場を非常に強く願いつつ、自分の言葉を締めくくりました。
「どうか、わたしの言うことを聞いてください。
見よ、わたしはここに署名する。
全能者よ、答えてください。
わたしと争う者が書いた告訴状を
わたしはしかと肩に担い
冠のようにして頭に結び付けよう。
わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し
君主のように彼と対決しよう。」(31:35-37)
このあとで38章の神の登場と続けば、物語の流れとしてはとても自然なのです。しかし実際には、神様が登場する前に、「彼は神である」という名をもったエリフが、神様に代わって登場します。そして、彼はヨブと三人の友人たちが繰り広げてきた討論に解決を与えようとして、長々と演説をはじめるのです。
エリフは、苦難の問題について新しい光を与えます。今まで、ヨブも三人の友も、因果応報の思想に基づいて、神の裁きは正しいか、正しくないかということをずっと議論をしてきました。しかし、エリフは、苦難は神の罰とは限らない。神の警告、神の教育的な配慮をもって、苦難が与えられることがあるのだと言うのです。また、たとえその神様の深い御心を悟り得なくても、神様は正しいことをしておられると信じなければならいということも言います。
このエリフの演説は、「わたしは何も悪いことをしていないのに、神様はどうしてこんなに私を苦しめるのか」というヨブの苦難に対する問いに対して、一つの説得力のある答えとなっていると言えましょう。もっとも言えば、人間が導き出すことのできる最高の答えだとも言えるかもしれません。しかし、それにも関わらず、ヨブはエリフの言葉を聞いても、なお救われないのです。なぜなら、ヨブが求めているのは、「納得のいく説明」ではなく、神との出会いだったからなのです。
一月ほど前、荒川教会で東支区の連合祈祷会がありまして、植木姉がとても素晴らし証詞をしてくださいました。植木姉は22年前に亜紀子さんという11歳のお嬢さんを白血病でなくされました。その時、植木姉のご主人はその悲しみを「神のご計画の最大のミスだ」と嘆かれたそうです。ところが、そのご主人が最近はこんな風におっしゃるようになったというのです。「この22年間の私の仕事は意志をもってやってきたことだが、次々と待ち構えていたかのように『与えられてきた』ものである。私の知恵では計り知れない事が多かった。これは神様がご計画された事としか思えないほど、不思議な力が動いていた」と。
愛するお嬢さんの死、それはどんな慰めの言葉も慰めとならなかったことでありましょう。「神様の教育的配慮である」とか、「神様のなさることは計り知れないのだ」などと、分かったようなことを言っても何の意味もないに違いないのです。しかし、22年間の歳月を通して、神様は植木姉のご主人に様々な形で出会ってくださった。その神様の出会いによって、「神様の最大のミスだ」という気持ちがだんだんと消していき、「これは神様の不思議なご計画だ」と言う思いが大きなものとさせてきたのです。そのような神様との出会いを果たしつつある植木姉のご主人も素晴らしい祈りの人であると思いますし、そのように人間の頑なな心を柔らかにし、神様への呪いの言葉すらも賛美の言葉に変え給う御業は本当に素晴らしいと思うのです。
人間が苦難に遭う時、それを恐れ、不安に思うのは、そこに正当な理由が見つからないからではなく、そこに「神様の不在」を感じるからなのです。こんな不幸の中にもなお神様がいらっしゃるということが信じられなくなり、神様の御顔がみえなくなってしまうことが、不安であり、恐れなのです。
『ヨブ記』におけるエリフの存在の意義は、人間が導き出し得る最高の知恵ですら、人間を苦難の恐れと不安から解放することはできないということが明らかにされるためであり、生きた神様の出会いだけが、人間のすべての問題に答えを与えるものだということが、いっそう印象的な形で、生き生きとした形で伝えられるためなのです。
そういう意味では、エリフの存在はとても重要なのです。エリフはヨブを救うことに失敗しますが、その失敗によって次に来る神様との出会いの重要性が見えてくるのです。 |
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さて、エリフがなぜそこにいたのか、その辺は定かでありません。が、今までじっと黙って、ヨブと三人との議論を立ち聞きしていたのでありました。つまり、彼は、なかなか謙遜な人物で、自分が青年にすぎない者であったために、ヨブや三人の年長者に敬意を払い、言いたいこともあったけれどもずっと発言を控えてきたのです。
しかし、三人がヨブに言いまくられて、ついに答えることができなくなり、それをいいことにヨブがますます饒舌になり、「自分は間違っていない。神様が間違っているのだ」と、いよいよ過激な言動を繰り広げるに至って、エリフはとうとう黙っていることができなくなったのです。
「さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。また、ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った。彼らが皆、年長だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、この三人の口から何の反論も出ないのを見たので怒ったのである。」(2-4節)
ここには、ずっと沈黙を守ってきた控えめで、謙遜な青年エリフが、ついに黙っていられなくなったのは強い「怒り」によるものだ、ということが言われています。「エリフは怒った」、「彼は怒った」、「彼らに対しても怒った」「何の反論も出来ないのを見たので怒った」と、四回もエリフの怒りについて語られているのです。
なぜ、エリフはそんなに怒ったのでしょうか。一つは、彼の目には、ヨブが神様を冒涜しているように映ったからです。次に、そのようなヨブを黙らせることの出来ない三人の不甲斐なさに対しても、強い怒りを覚えたのだと言われています。言ってみれば義憤であります。
怒りにもいろいろ種類があって、まったくのエゴイズムからくる怒りは何も生み出さないばかりか、破壊的な怒りとなります。しかし、自分のためではない怒りというものもあるのです。たとえば子供や弱者が虐げられているのを見て怒る。また愛する人が不当な扱いを受けているのを見て怒る。こういう怒りは、正義感や愛があればこその怒りであって、人を助けたり、守ったりすることもあるのです。
エリフの場合は、神様のことを思っての怒りでありますから、「聖なる怒り」と言ってもいいかもしれません。聖書には、このような「聖なる怒り」をもって、イスラエルを神の裁きから救ったピネハスという人もいます。イスラエル人がシティムで,ミデヤンの娘たちにそそのかされてバアル礼拝を行った時,彼は宿営の中に異邦の女を連れ込んだ1人のイスラエル人を,その女と共に刺し殺しました。イスラエルの偶像礼拝に業を煮やしていた神様は、ピネハスの行為を見て、「彼は私の怒りを自分の怒りとして、私の怒りを晴らしてくれた」といい、イスラエルを滅ぼすことを思いとどまったというのです。
「主はモーセに仰せになった。『祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、こう告げるがよい。「見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために、罪の贖いをしたからである。」』」(『民数記』25:10-13)
ピネハスは、神様を愛しているからこそ、偶像礼拝する者たちを許せず、強い怒りをもったのでした。このような怒りがまったくない人に、果たして信仰があると言えるでしょうか。信者によって、あるいは牧師によって神様の御名が汚されているのを見て、平気な顔をしていられる人に、果たして信仰があると言えましょうか。
実は、成熟した大人には、このような怒りが見られなくなります。ここでいう「成熟した大人」とは、善悪や正義といった青臭い理念や理想を追求することを捨てて、何事もうまく立ち回り、やり過ごす処世術を身につけた人たちです。このような人たちは、得にならないことには一切関わりません。自分の信念など持たず、できるだけ衝突を避けるように立ち回ります。面倒な争いごとは少しでも穏便に済ませようとし、善悪に関わらず全てのことを利害関係、損得勘定で行動するのです。
絶対者である神様を信じて生きるクリスチャンは、このような成熟した大人には成り得ません。青臭いと言われようが、神を神とし、善を善とし、悪を悪として生きるのが、クリスチャンなのです。だとすれば、この世の悪に対して、「聖なる怒り」を感じずにいられましょうか?
しかし、そのような「聖なる怒り」にも落とし穴があります。「聖なる怒り」は、自分を聖なる者と一体化させ、自分もまたひとりの人間として悔い改めなければならない罪人であることを忘れ、自分が神の座にのし上がって裁きを下す者となって、傲慢の罪に陥ってしまう危険があるのです。
ですから、聖書にはこのように言われています。
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」(『ヤコブの手紙』1章19-20節)
私は、エリフの怒りの中に、青年エリフの純粋さを見る思いがします。しかし、それがエリフが長所でもあると同時に、仇ともなるのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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