ヨブ物語 41
「神への告訴状B」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記31章31-40節
旅人の世話
 31章について三回目のお話です。この31章はヨブの最後の弁明です。この中で、ヨブは十二条の潔白を表明しており、形式的には告訴状の形を整えています。しかし、ヨブが冤罪を主張するこの法廷には、一つの重大な問題がありました。それはヨブに冤罪をかける検察官役も神様であり、ヨブの主張を聞き是非を判断する裁判官役も神様であるということです。そのことを頭に入れておいて、今日は31節から学んでいきたいと思います。

 「わたしの天幕に住んでいた人々が
  『彼が腹いっぱい肉をくれればよいのに』
  と言ったことは決してない。
  見知らぬ人さえ野宿させたことはない。
  わが家の扉はいつも旅人に開かれていた。」(31-32)

 これはヨブの十二条の潔白の主張のうちの第十条にあたります。「わたしの天幕に住んでいた人々」というのは、ヨブの家で働いていた使用人や奴隷たちのことでありましょう。また、時には旅人を家に招き入れ、暖かくもてなしたようであります。「野宿させたことはない」というのですから、積極的に寄る辺なき旅人を見つけ出して招き入れた様子もうかがえます。そういう人たちもヨブの家にいる限り、決して不自由をさせたことはないというわけです。

 旅人をもてなすということに関しては、アブラハムにこういう話があります(創世記18章)。暑い真昼に、アブラハムが天幕の入り口で休んでいると、三人の旅人が通りかかり、アブラハムの天幕の前で立ち止まったのです。それを見るやいなや、アブラハムは旅人たちに駆け寄り、「ぜひ、わたしの天幕で休んでいってください。せっかく僕の近くをお通りになったのですから」と申し出て、この人たちを客として迎え入れ精一杯もてなします。すると、実はこの三人は主の御使いたちであったという話です。

 この故事から、『ヘブライ人への手紙』13章2節では、次のようも教えています。

 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」

 客人や旅人をもてなすということは、たとえ気づかなくても、それによって主に仕えることになるのだというのです。

 ところで、これを私たちの生活に当てはめようとするとなかなか難しい現実があります。お客さんと言っても、押し売りや詐欺まがいのセールスマンが来るかもしれませんし、教会にはホームレスが物乞いに来たりしますが、巷にあふれるホームレスを全部世話することなどとてもできないのが現実です。

 それに一口にホームレスといってもいろいろです。四国では「お接待」と言って、装束を着て歩いている人を親切にもてなす温かい習慣が未だ残っているそうです。ところが、です。そういう人の親切につけ込んで、遍路装束を着てホームレス生活をする人たちが増えています。彼らはお遍路さんになりすまして、お金や食べ物の施しを受けることを、「仕事」と称しているそうです。

 教会にもホームレスが「何日も食べていない」と施しを求めてくることがあります。私は、彼らを決して無下に追い返すようなことはしないで、家にある食べ物(パンやおにぎり)を差し上げることにしています。しかし他方で、私は現金をあげないことにしているのです。かつては少しの現金を渡していたのですが、そうすると必ず連日のように入れ替わり、立ち替わり、教会にホームレスがやってきます。どうも、ホームレス仲間で情報のやりとりがあるらしいのです。それだけならまだしも、どうもお金を手に入れるとそれでお酒を飲んでいるらしいこともわかりました。

 また詐欺の常習犯にしてやれたこともあります。少しおかしいなと思いつつも、親切でお金を貸したら、後で警察が来て、やはり詐欺だったことが分かりました。ほかにもいろいろなことがありましたが、要するに人の親切につけこんで物乞いをしたり、だまし取ったりする人が多いのです。そんないろいろな経験から、お金は渡さないという方針を決めたのでした。

 もちろん、私はこういうやり方が一番正しいなどとは思っていません。ただ、一人の人間に出来ることには限界があるのです。困っている人を助けてあげたいという気持ちがあっても、実際にはいろいろな人がいて、いつでも、どんな人でも快く迎えるということはなかなかできません。

 それにも関わらず、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」という教えは、私たちにとって忘れてはならない大切な真理を含んでいると思います。それは、どんな時でも、あなたを訪ねてきた人を邪魔者扱いをしてはいけないということです。

 ホームレスだけではありません。教会にはまったく実も知らぬ人からの電話や訪問者がいます。真夜中に、何度も電話をかけてきて、どうでもいいようなお話を長々と聞かされることもあります。それにつきあっていると、自分の一日の計画が大幅にくるってしまうこともしばしばです。それを自分の仕事に邪魔者が入ったと思ったら、とても親切にはしていられないのです。

 しかし、聖書が言うのは、「それは決して邪魔ではなく、それこそが、あなたに与えられた神様の仕事ではないか」と教えていると思うのです。神様の仕事は、いつも突然舞い込んできます。その時、自分の仕事が忙しいからといって、神様の仕事を邪魔に思うと、対応がいい加減になってしまうことがあります。仕事にしろ、訪問者にしろ、「邪魔だ、余計だ」と思うよりも、それを神様から送られてきた天使であるとか、神様の特別注文の仕事だと思ったら、少しは愉快に働けるのではありませんでしょうか。
罪の隠蔽

 「わたしがアダムのように自分の罪を隠し
  咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。
  もしあるというなら
  群衆の前に震え、一族の侮りにおののき
  黙して門の内にこもっていただろう。」(33-34)

 ヨブは、「私は罪を犯したことがない」とは言いません。しかし、「罪を覆い隠したことはない」というのです。逆に言えば、ヨブもまた罪を避けられない人間だったのでありましょう。

 しかし、ヨブは正直の人でありました。人間というのは、神様ですら「人が心に思うことは幼い時から悪いのだ」と言っておりますように、罪を犯さずに生きるということは不可能な存在なのです。ですから、神様が人間を裁き給う基準は罪のあるなしではなく、正直であるかどうかなのです。

 ダビデも詩編の中でこのように祈っています。

 「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
  打ち砕かれ悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。」(『詩編』51編19節)

 「いかに幸いなことでしょう
  背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
  いかに幸いなことでしょう
  主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(『詩編』32編1-2節)

 新約聖書にも、このように罪を告白することの大切がこのように言われています。

 「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」(『ヤコブの手紙』5章15-16節)

 このように、聖書における義人とは、罪を犯さない人ではありません。自分が罪人であることを、心を欺かず、正直になって、砕かれた魂を主に捧げることによって、その罪を覆われ、その咎を数えられない人は幸いであるというのです。
搾取
次は、少し飛びますが38節からをお読みします。

 「わたしの畑がわたしに対して叫び声をあげ
  その畝が泣き
  わたしが金を払わずに収穫を奪って食べ
  持ち主を死に至らしめたことは、決してない。もしあるというなら
  小麦の代わりに茨が生え
  大麦の代わりに雑草が生えてもよい。」(38-40)

 ヨブは大地主でありました。しかし、不当な仕方で農地を得たり、また小作から収穫を搾取するようなことは決してなかったと言うのです。聖書には「土地」は神様のものであり、それを人間に貸し与えているという教えがあります。ですから、土地に対する不正というのは大罪であったのです。 
結 論
 以上でヨブの十二条の潔白を読み終わりました。普通、私たちが自分の半生を振り返れば、それは本当に罪と後悔で真っ黒けになってしまうのです。ところが、ヨブの人生は違います。金ピカです。神様に胸を張って、私はこうでしたと言えるのです。

 なるほど、神様が「地上で彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と太鼓判を押すだけのことはあります。本当にすばらしいことだと思います。

 ところが、そんなヨブが大災難に見舞われ、恐ろしい病気にかかってしまったのでした。どうして、こんな義しい人が苦しむのか。幸せになれないのか。ヨブならずともそう訴えたくなるのです。

 さて、35節に戻ります。

 「どうか、わたしの言うことを聞いてください。
  見よ、わたしはここに署名する。
  全能者よ、答えてください。
  わたしと争う者が書いた告訴状を
  わたしはしかと肩に担い
  冠のようにして頭に結び付けよう。
  わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し
  君主のように彼と対決しよう。」

 ヨブは、ここで神様と対決姿勢を示しています。「わたしと争う者が書いた告訴状」とは、神様が書いた告訴状という意味です。それを「しかと肩に担い、冠のように頭に結びつけ」、正々堂々と正義の法廷に出て行き、自分の冤罪を晴らしたいと言っているわけです。

 このようなヨブの言葉は、確かに少々自信過剰ではないかと思えます。いくらなんでも神様と対決しようなどというのは思い上がりだと言えましょう。しかし、逆に言えば、ヨブはそれだけ神様に喜ばれる人間になろうと努力をしてきたということではないでしょうか。それは、ヨブにとって、神様に認められることこそが生きることのすべてだったからです。それほどヨブは神様を愛していたのです。

 プロテスタント信仰の要諦は「信仰義認」にあります。人間の努力や行いによって救われるのではなく、ただイエス様の十字架と復活によって救われるのです。私もまた、これはただしい聖書理解、福音理解だと信じています。しかし、その反面で、人間の行いや努力というものがあまりに軽視されてきたきらいがあるのではないでしょうか。

 パウロはロマ書5章で信仰義認を説いた後、すぐにこう言っています。

 「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。」(『ローマの信徒へ手紙』6章1-2節)

 「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」(『ローマの信徒へ手紙』6章12-14節)

 私たちの努力の目標は、罪を犯さない人間になることではありません。罪を犯さない人間になれば、神様に愛されるということでもありません。しかし、神様に愛されている人間として、神様に喜ばれる人間になりたいとおもうのが自然なことであり、そのために努力するのはまったく当たり前のことだというのです。

 その一方で、やはりヨブの言葉の中には、自分の義に頼りすぎているという感が否めません。ヨブは確かに努力もしたでしょうし、それをやり抜いた人間としてまことに立派なことです。しかし、はたしてそれは自分だけの力であったのか。神様がヨブを守り、助けてくださっていたからこそ、自分の義を全うすることができたという点が、ヨブの主張の中には欠落しているのです。

 「ヨブは語り尽くした」

 31章の最後に、このように記されています。神様に心の中のすべてをあらわにし、注ぎ出すこと、それが祈りであります。ですから、これは「ヨブは祈り尽くした」と言い換えてもいいのではないでしょうか。この後、ようやく、神様がヨブに答えてくださいます。その前にエリフの言葉を読まなければなりませんが、それにしても神様はまもなくヨブに語りかけてくださるのです。

 私たちは、神様は祈りを聞いてくださらないなどと安易に語る前に、はたしてヨブのように私たちは御前に祈りを尽くしているのか、そのことを問う必要があると思います。ヨブは語り尽くしたという言葉は、ヨブのすべての言葉を神様が余すことなく聞いてくださったということでもあります。神様は答える前に、すべてを聞いてくださるのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp