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前回は、この31章をお読みしまして、モンテ・クリスト伯の例を引きながらヨブの冤罪意識ということをお話ししました。それに対して、わたしはこんなに潔白なのだということを神に主張しているのが、この31章です。この中でヨブは十二の潔白の誓いを立てています。
@ 性的誘惑(1-4節)
A 虚偽の行為(5-6節)
B 貪欲(7-8節)
C 姦淫の罪(9-12節)
D 権利の養護(13-15節)
E 援助の放棄(16-23節)
F 富の誘惑(24-25節)
G 迷信の迷い(26-28節)
H 憎悪の誘惑(29-30節)
I 旅人の世話(31-32節)
J 罪の隠蔽(33-34節)
K 搾取(38-40節)
前回は@とAについてもお話ししましたので、教はBから解説していきたいと思います。
「わたしの歩みが道を外れ
目の向くままに心が動いたことは、決してない。
この手には、決して汚れはない。」(7節a)
「目の毒」という言葉がありますが、人はしばしば「見る」ことによって誘惑されます。イエス様も誘惑を受けられたのですから、誘惑を受けること自体は罪とはいえません。どんな誘惑を受けても、そんなことでビクリともしない堅き心を持っていれば、私たちは何を見ても神の道、人の道を外れ、罪を犯すことはないでしょう。
「罪は門口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4章7節)
これは、自分の捧げ物を顧みてくれない神様に腹を立て顔を伏せたカインに、神様がおっしゃった言葉です。罪が門口で待ち伏せをしている状態、それを誘惑と言ってもよいでしょう。私達はこの誘惑のままに動かされる人間ではなく、誘惑にも動かされないしっかりとした人間とならなければならないのです。ヨブは、「目の向くままに心が動いたことは、決してない」と言って、あらゆる貪欲を心から退けて来たと、自分の潔白を主張しています。
ちょっと唐突ですが、私は、孔子が自分の一生について語った有名な言葉を思い起こします。
「子、曰わく、
吾れ十有五にして學に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って、
矩を踰えず。」
ヨブの年齢は不詳です。十人の息子・娘らがいてそれぞれ自分の家をもって生活していたという事からおよその年齢を推測するしかありません。当時は十五、六で一人前の大人になったとしても、四十歳は越えていたでしょう。実際の年齢はともかく、孔子の年齢に従うと、ヨブは「不惑」に到達していることがわかります。
しかし、人生はそれで終わりではありません。「五十にして天命を知る」とあります。天命とは「天の宿命」ということですが、どんなに人事を尽くしてもどうにもならないことです。聖書的に言えば、神の経綸、摂理ということでありましょう。ヨブはまさにこの苦難を通して、神の経綸を悟るのです(42章1-6節)。そうしますと、ヨブの年齢は五十歳ぐらいということになるかと思います。
孔子は、天命を知った人間はようやく「耳順」になると言っています。「不惑」というのは、誘惑に対して抵抗する力をもっているわけですが、そこには心の中の戦いということが未だ消えていません。聖書的表現に翻訳するならば「御言葉に踏みとどまる」、これが「不惑」です。しかし、そこから神の経綸を知る者とされ、自然と御心に従う者にされていく、それが「耳順」ということでありましょう。「踏みとどまる」という消極的従順から、従うという積極的従順へと成長していくだといえます。
こうして、孔子は「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」と言います。孔子は七十四歳でなくなっていますから、それ八十歳以降のことは語られていませんが、これが本当に孔子の到達したところだとしたら、本当に驚くべき円熟です。
ここまで来る人間はまったく自由になります。我慢するとか、自制するとかではなく、ただ善なることだけを望み、喜びとする人間に到達するわけです。人間の最後の目標は何かといったら、心のままに生きて、なおかつ道をまったく踏み外さなくなる、その自由でありながら道を外れることがない人間になること、これはイエス様が与えてくださる人間の自由ということに通じることだともいえましょう。
しかし、この自由は、孔子のような類い希なる人間が死ぬ四年前にようやく到達した心境であるとするならば、多くの凡人には救いはないことになりましょう。キリスト教では、イエス・キリストを信じ、その罪のゆるしと愛に留まる者はすべてこの自由が与えられるのだと教えているのです。ここに私達の救いがあります。そして、それが孔子の説く道と、キリストの説く道の違いなのです。
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@ 姦淫の罪の対する潔白
「わたしが隣人の妻に心奪われたり
門で待ち伏せしたりしたことは、決してない。」
十戒の中には、第七戒に「姦淫してはならない」とあります。また、第十戒には「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」とあります(出エジプト記20章)。ここでは「妻」が夫の所有物の一部として並べられているところが気に掛かります。ヨブの10節の言葉の中にもそういう考えが背景にあるのでしょう。そういう問題点もあるものの、単に夫の所有物がとられるというだけではなく、夫婦の間における人格的な罪がそこにあると規定しているのが、第七戒の姦淫罪なのです。
聖書では、人間の基本的単位と個人ではなく家族においています。たとえば、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16:31)は、その典型でありましょう。そして、その家族の中心は親子ではなく夫婦なのです。創世記2:24ではこう言われています。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」
夫婦というのは、妻が夫の所有物となることではなく、二人が人格的に一体となることであるということが、聖書の最初の部分で言われているのです。そして、それを基として新しい家族ができます。そのことに対する罪が姦淫罪です。
A 権利の擁護に対する潔白
「わたしが奴隷たちの言い分を聞かず
はしための権利を拒んだことは、決してない」(13節)
奴隷制の是非はともかく、政治的な理由や経済的な理由で奴隷となる人たちが、当時は当然のように存在しました。ヨブもまたそのような多くの奴隷たちを使用人としていたと思われます。そのような古代社会において、奴隷というのは主人の所有物、馬やロバと同様に財産ぐらいにしか見られないことも多くあったのです。そういう時代に「奴隷やはしための権利」という言葉が出てくること自体、本当に画期的なことであろうと思います。ヨブは、彼らの権利を守ったと言い切るのです。
ヨブが言っているように、権利を守るとは、言い分を聞くということに通じます。ヨブは、神様になかなか言い分を聞いてもらえません。少なくとも、ヨブはそう感じていました。そこから、自分が神様に不当に扱われているという思いがわいてくるのです。
さて、私達は伴侶や子どもたち、あるいは仕事上の部下の言い分に耳を傾けているでしょうか。自分の権利ばかりを主張し、相手の権利には無頓着でいることがないでしょうか。ヨブはこのように言います。
「わたしを胎内に造ってくださった方が
彼らをもお造りになり
我々は同じ方によって
母の胎内に置かれたのだから」(15節)
自分の立場が違っても、すべての人間が神に作られた尊い存在であるということを忘れないで、人の言葉に耳を傾ける者でありたいと願います。
B 援助の放棄に対する潔白
「わたしが貧しい人々を失望させ
やもめが目を泣きつぶしても顧みず
食べ物を独り占めにし
みなしごを飢えさせたことは、決してない」
人間の社会には、奴隷、やもめ、孤児、障害者、浮浪者など、常に貧しい者や虐げられている者たちがいます。このような人々を生み出さない社会は理想でありますけれども、それはなかなか人間の力でできることではありません。政治家が悪いとか、体制が悪いとか、挙げ句の果てには神様が悪いといって、誰もが人に責任をなすりつけてしまうのです。
聖書は、このような人々を生み出さない社会を造りなさいというよりも、このような人々を愛する社会を造りなさいと教えます。それは誰かが愛してくれるということではなく、私達一人一人がなすべきことなのです。
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「わたしは黄金を頼みとし
純金があれば安心だと思い
財産の多いことを喜び
自分の力を強大だと思ったことは、決してない」(24-25節)
イエス様はこう言われました。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6章24節)
富を愛することは、偶像礼拝にも似た罪であると言われています。お金は大事ですが、決して神様ではありません。私達を祝福し、まことの喜びを与えるのはお金ではなく、神様なのです。
しかし、これはクリスチャンが金持ちになることを禁じる法ではありません。ヨブもまた金持ちでした。しかし、その富を独り占めすることなく、貧しい人々に惜しみなく用いた、それがヨブでありました。
事業を興して金儲けをするというのは、神様が与えてくださる一つの才能でありますから、その才能のある人は大いに金持ちになってほしいと思うのです。問題は、その稼いだ金をどうするか、ということでありましょう。世のため、人のためにその富を用いるためには、富ではなく神を神とすることのできるクリスチャンこそ大金持ちになってほしい、そんな風に思います。 |
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@ 迷信の迷いに対する潔白
「太陽の輝き、満ち欠ける月を仰いで
ひそかに心を迷わせ
口づけを投げたことは、決してない」(26-27)
人間というのは、神の形に作られたのですから、どこかで神様を慕い求めているものです。しかし、罪によって神様と正常な関係を失ってしまったために、どんなに知恵を尽くしても真の神様を知ることができません。それゆえに、神様らしきものを神様としえ祭り上げ、偶像礼拝が起こるのです。天体は神様がお作りになったものです。それにもかかわらず、太陽や月を神様としてしまうのはそういうことでありましょう。しかし、ヨブはそのような偶像礼拝をしなかったと言っています。
A 憎悪、呪いに対する潔白
「わたしは憎む者の不幸を喜び
彼が災いに遭うのを見て
わたしがはやしたてたことは、決しない。
呪いをかけて人の命を求めることによって
自分の口が罪を犯すのを許したことは
決してない」(29-30)
「人の不幸を喜ばない」ということをつきつめていくと「あなたの敵を愛しなさい」というイエス様の教えに通じていくように思います。箴言にはこのよう教えもあります。
「敵が倒れても喜んではならない。
彼がつまづいても心を躍らせるな。
主がそういうあなたを見て不快とされるなら
彼への怒りを翻されるであろう」
つまり、あなたが正しくて、あなたの敵が神様の裁きを受けるとき、あなたが「ざまあみろ」などという気持ちでいると、神様はあなたのそういう気持ちを不快に思われて、彼ではなく、あなたに裁きが下るかもしれないというわけです。わたしたちの敵が裁かれるとき、私達はそのことを悲しみ、執り成しの祈りを捧げるべきなのです。このような憐れみの心こそ、神様が喜び給うことなのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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