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1807年頃の話です。パリの靴屋のある青年が、愛する女性と結婚する間際に、嫉妬深い友人たちの奸計によってイギリスのスパイという汚名を着せられ、投獄されました。ところが、獄中で知り合ったイタリアの老神父に、ミラノに隠してある財宝のありかを教えられ、出獄すると、その財宝を掘り出して金持ちになり、その富の力をかりて、自分を陥れた友人達を次々に殺すという事件があったそうです。
どこかで聞いた話だと思う方もあると思いますが、この事件をモデルに、フランスの文豪アレクサンドル・デュマが書きあげたのが『モンテ・クリスト伯』です。私はサスペンスや推理小説が好きで、この小説も非常に長編ながら、二度ほど読みました。しかし、こんな話は小説の中だけの話だろうと思っていましたら、実際は逆で、本当の事件がモデルとなってこの小説が出来上がったということに非常な驚きを覚えるのです。
私は、ヨブ記を学びながら、この『モンテ・クリスト伯』の話を思い起こしました。真面目な好青年であった船乗りエドモン・ダンテスは、その仕事ぶりが認められ、まもなく船長に昇格するはずでした。そして愛する人との結婚も控えていました。その幸せの絶頂にいたダンテスをねたむ友人たちが、奸計によってダンテスを陥れ、彼は無実の罪で地中海の孤島にある牢獄の、光がまったく入らない暗闇の土牢に幽閉されてしまったのでした。ダンテスは自分を陥れた者が誰であるかを知りません。彼は気が狂わんばかりになり、どこの誰とも分からぬ相手に復讐を誓い、やがて絶望し、狂おしいほどに神に祈り、死を願うようになります・・・
まさにヨブの姿ではありませんか! しかし、ヨブとエドモン・ダンテスの間には大きな違いもあります。ダンテスは神の正義を疑いません。むしろ、神の正義を信じるがゆえに、自分を陥れた人間に神の罰をくだす執行人になろうとするのです。その結果、彼はモンテ・クリスト伯という復讐の鬼と化したのでした。ヨブは違います。ヨブは誰にも復讐をしようとしません。その代わり、神様に向かって思いっきり訴えるのです。神こそが自分に冤罪をかけているのだ、というわけです。
この二人の違いは、重要です。自分が不幸だと感じている人間は、心のどこかに冤罪意識があるだと思うのです。自分はどうしてこんな目に遭うのか? だれが自分をこんな目に遭わせているのか? 現在自分の置かれている境遇に、このような理不尽さを覚えるところに不幸感があるのです。その時に、私たちはエドモン・ダンテスのように特定の人や世の中を恨む人間になるのでしょうか。それとも、ヨブのように「神様、どうしてですか」と、神に訴える人間になるのでしょうか。その違いは、私たちが神様とどのような関係に生きているのか、ということによって生じるのだと思います。
エドモン・ダンテスが神様とどのような関係に生きていたのか、ちょっと引用してみましょう。
「ダンテスは、牢獄の中にすて去られている囚人たちが経験する不幸のあらゆる段階を踏んできた。彼は最初は傲慢な態度を取っていた。これが希望があるからであり、無罪を信ずる気持ちがあったからである。そのうち、彼は自分の無罪を疑うようになった。これは、彼を気ちがいと思いこんだ所長の考えをどうやら正当なものにした。ついに彼は傲慢の絶頂からころがり落ちた。そして、彼は祈った。だが、それはまだ神にではなく、人間にだった。神は最後の頼りだった。不幸な人間は、まず神に祈るべきなのに、他のあらゆる希望が失われてしまったあとでなければ、神に希望を求めようとしないのだ」(『モンテ・クリスト伯』,講談社文庫,224頁)
デュマによって、ここにはっきりと書かれますように、不幸な人間は最初に神に祈るべきです。しかし、確かに多くの人間が、すべての望みを失った最後になって、はじめて神に祈るようになるのです。どうしてでしょうか。それはその人が、神以外の多くのものに頼って生きていたからです。エドモン・ダンテスはそのような多くの人間の一人なのです。
しかし、ヨブは真っ先に神に祈りました。それは、幸せな時も、ただ神のみを頼りとして生きていた証拠だとはいえないでしょうか。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1章21節)という信仰と、「わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」(31章37節)というように神と真正面から対決姿勢を取ろうとするヨブの信仰とは、表裏一体なのです。 |
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さて、今お話ししましたように、31章はヨブが神にかけられた冤罪を晴らそうと、自分の無実を訴え、潔白を証明しようとしている章です。これまでも、ヨブは同様の趣旨を訴えているのですが、注解書などを勉強してみますと、ここでは旧約的な法の伝統に則った誓約の定式で、潔白を誓っているのが特徴だと言われています。たとえば、この中でヨブは十二の潔白の誓いを立てています。
@ 性的誘惑(1-4節)
A 虚偽の行為(5-6節)
B 貪欲(7-8節)
C 姦淫の罪(9-12節)
D 権利の養護(13-15節)
E 援助の放棄(16-23節)
F 富の誘惑(24-25節)
G 迷信の迷い(26-28節)
H 憎悪の誘惑(29-30節)
I 旅人の世話(31-32節)
J 罪の隠蔽(33-34節)
K 搾取(38-40節)
この十二という数字も旧約の特徴でありますし、また31章にはヨブの苦難や友人たちへの非難は一切語られていません。潔白の主張だけが徹底的になされている点も、この章が単なる独白ではなく、告訴状の定式をもって語られており、ヨブはあたかも法廷で神と争い、一歩も引かないぞというぐらいの決意をもってこれを述べているのだということがわかるのです。
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「わたしは自分の目と契約を結んでいるのに
どうしておとめに目を注いだりしようか。」(1)
罪というのは、もちろん目で犯すものとばかりは言えないのですが、目から入ってくる情報が、私たちの心の欲望を刺激し、大きな誘惑となることは事実です。
エバは禁断の木の実を見ることによって、食欲をそそられ、罪を犯しました。ダビデは沐浴するバテシェバの裸を見て誘惑され、罪を犯しました。悪魔は、私たちが目から入る情報の誘惑に弱いことをよく知っているのです。 ですから、イエス様を誘惑するときも、悪魔はイエス様を高い山の上に連れて行き、この世のすべての繁栄ぶりを見せて、「もし、わたしを拝むならば、これらのものを与えよう」と誘惑したのでした。
イエス様もまた、人間が目から入る情報に弱いことを知っています。ですから、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」とまで言われました。
しかし、ヨブは目と契約を結んだと言います。「目と契約を結ぶ」というのはおもしろい表現です。契約というと、『創世記』15章に、神様がアブラハムと契約を結ぶ場面があります。神様はその時、アブラハムに牛、山羊、羊などの動物を持ってこさせ、それを二つに切り裂き、互いに向き合わせて置かせます。すると神様がその二つに裂かれた動物の間をお通りになって、アブラハムと契約を結んだということが出てきます。この「結ぶ」というのは、元来「切る」という意味があるそうで、イスラエル人は契約を結ぶとき、このように動物の肉を真っ二つに切り裂き、「もし、契約を破ったら、自分の体をこのように切り裂いても構わない」という徴としたのだそうです。
さらに、イエス様の教えの中に「もし片方の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。」(マタイ18:9)という、目がいくつあっても足りないような厳しい教えがあります。この二つを合わせて考えますと、「目と契約を結ぶ」とは、目が罪を犯すならばそれを自らえぐりださんとするほど、目の犯す罪に対して自分に厳しくしていたということなのでありましょう。
性の罪についても考えてみましょう。性そのものは、神様がお造りになったもので、人格や愛と結びついた尊いものです。それだけに、それが歪んだものになると、人格を非常に深く傷つける恐ろしい罪を生み出します。
今日、目を覆いたくなるような刺激的で、歪んだ性の情報が氾濫しており、小中学生までが簡単にそのようなものを目にする世の中になっています。性犯罪や性的非行が増えているのは当たり前です。子供たちにそのようなものを見せないようにするのは、大人の重大な責任ではないでしょうか。
「上から神がくださる分は何か
高きにいます全能者のお与えになるものは何か。」(2)
目と契約まで結んで、罪から自分を守ってきた自分は、神様からどのような報いを受けることができるのだろうか、という意味です。
「不正を行う者には災いを
悪を行う者には外敵をお与えになるではないか。
神はわたしの道を見張り
わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。」(3-4)
不正を行ったり、悪を起こったりするならば、それなりの神の裁きを受けねばならないだろう。しかし、私は歩みについて、つまり潔白については、神様がご存知のはずではないか、と言っているのです。
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「わたしがむなしいものと共に歩き
この足が欺きの道を急いだことは、決してない。
もしあるというなら
正義を秤として量ってもらいたい。
神にわたしの潔白を知っていただきたい。」(5-6節)
「むなしいものと共に歩き」とは、神ではないものを頼りにして生きるということです。「欺きの道」というのは、神や人を騙す生き方でありましょう。私たちはウソをつく罪を甘く見てはいけません。ウソは悪魔から出ているからです。イエス様はこう言われました。
「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネによる福音書8章44節)
「嘘つきは泥棒の始まり」と言いますが、それは本当なのです。ウソをつく人間には真理はありません。ウソをつく人間は神の子ではなく、悪魔の子ださえ、イエス様は言うのです。
もちろん、悪魔のウソは非常に巧みですから、わたしたちはうっかりそれを信じ込み、悪魔のウソこそが本当だと思って生きていることも少なくないのです。たとえば、「お金があれば幸せになれる」とか、「誰も自分を愛してくれない」とか、「能力のない奴は駄目だ」とか、「神などいない」とか、「人間は猿から進化した」とか、「平和を守るためには軍備が必要である」とか、世の中には悪魔のウソがまことしやかに語られ、真顔でそれを信じている人達は非常に多いのです。
イエス様によれば、そういう人達はみな悪魔に騙されてしまっている人達です。そういう意味では、ヨブが「むなしいものと共に歩き」と言っているのは、悪魔と共に歩いているという意味だと言ってもいいかもしれません。その証拠に、このような人達は、いつも不安であり、不満であり、いつも何かを求めており、決して満たされないのです。
しかし、ヨブは、わたしは決してそんな生き方をしてこなかったと言っています。どうか、そのことを、「正義の秤」をもって量って欲しいというのです。
正義の根本の一つは、正しい配分です。たとえば、みんなで分け合って食べるお米があるとします。これを誰もが納得するような分け方をするのが正義です。たとえば、お金をもっている人や、力の強いひとが好きなだけそれを取り、弱い人がその残りを細々と分け合うというので良いのでしょうか。よく働いた人と怠けた人が同じ配分でいいでしょうか。健康な人と病気の人が同じ配分でいいでしょうか。たくさん家族のいる人と独身者が同じ配分でいいでしょうか。できるだけみんなが納得する合理的なルールを決めて、それ従って配分するのが「正義の秤」です。
もう一つ大切なのは、懲罰です。正しいルールに基づいてお米が配分されたとしても、ある者はルール違反をして、人のお米を力づくで奪ったり、盗んだりするかもしれません。そういうことは起こったとき、やはりみんなが納得するようなルールに従って、違反者に罰が与えられたり、弁償が要求され、それが実行されなければなりません。それもまた「正義の秤」なのです。
ヨブは、そのような正義の秤をもって、私を量って欲しい、そして正当な扱いをして欲しいと訴えているわけです。しかし、このような正義さえあれば、世の中には何の問題もないかと言えば、決してそうではありません。「愛」という原理が人間の世の中になかったら、殺伐とした世の中になってしまうのです。ところが、愛というのは正義に比べるとずっと不合理で、ルール化することができません。悪い人を赦したり、自分の正当な配分を他人に与えてしまったり、そういうことが起こりえるのが愛の行動なのです。
神様は、ヨブが正しいことをご存知でした。ヨブこそ多くの祝福を受けるべき者だと思い、そのようにしておられました。しかし、悪魔が、ヨブを中傷したのです。神様は悪魔の中傷からヨブの名誉を守り、擁護されようとします。その方法として、神様は悪魔に「ヨブを試してみよ」と言うのです。神様はヨブが苦しみに耐え抜くことを信じていました。神様が人間を信じるというのは変に思うかも知れませんが、それほどに神様はヨブを愛していたということではないでしょうか。つまり、神様はヨブを「正義の秤」ではなく、「愛の秤」によって量ったとも言えるのではないでしょうか。そのような神様の愛を悟り得ぬところが、人間の苦しみなのです。
31章はまだ続きますが、今回はここまでにしておきましょう。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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