ヨブ物語 50
「人間の議論の結論」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記36章
人の業をすべて封じこめる神の業
 何度かご紹介したことがありますが、荒川教会でもコンサートしてくださったことがある山口博子さんの歌に「時を忘れて」という曲があります。

  目を閉じなければ 見えない世界がある
  口を閉じなければ 言えない言葉がある
  耳をふさがなければ 聞こえない声がある
  歩み止めなければ 会えない人がいる
  少しぐらい遅れたとしても
  大切なものを見つけたいから アアアー
  道であり真理であり命である主に
  尋ね求める 時を忘れて

  目を閉じなければ 見えない世界がある
  口を閉じなければ 言えない言葉がある
  耳をふさがなければ 聞こえない声がある
  歩み止めなければ 会えない人がいる
  疲れすぎて 自分を見失う
  乾いた大地が 水を求めるように
  愛と霊といのち 注がれる主に
  祈り求める 時を忘れて

 人生には、今まで出来ていたことが、急に出来なくなってしまうような辛い経験をすることがあります。そんな時、今までみんなと一緒に歩んでいたのに、自分一人が立ち止まり、取りのされていくような寂しさや焦りを感じるのではないでしょうか。

 山口博子さんも病弱な体ゆえに、しばしばそのような経験をなさったようです。けれども、そんな時があったからこそ、自分の人生について、命について真剣に見つめ、イエス様に出会うことができたというお話を聞いたことがあります。誰にとっても生きるということは悲喜交々あることだと思いますが、悲しみや悩みの中にいる時間も、実はとても大切な時間なのだということを証ししている慰めに満ちた感銘深い歌です。

 実は、エリフも同じようなことをヨブに語っています。

 「神は命じられる。
  雪には、『地に降り積もれ』
  雨には、『激しく降れ』と。
  人の手の業をすべて封じ込め
  すべての人間に御業を認めさせられる。
  獣は隠れがに入り、巣に伏す。
  嵐がその蓄えられている所を出ると
  寒さがまき散らされる。
  神が息を吹きかければ氷ができ
  水の広がりは凍って固まる。
  雲は雨を含んで重くなり
  密雲は稲妻を放つ。
  雨雲はここかしこに垂れこめ
  導かれるままに姿を変え
  命じられるところを
  あまねく地の面に行う。
  懲らしめのためにも、大地のためにも
  そして恵みを与えるためにも
  神はこれを行わせられる。」(6-13)

 ここには冬の厳しい光景が描き出されています。雪が降り積もる。冷たい雨が降りしきる。木枯らしが吹いて、寒さがまき散らされ、水面は氷で覆われる。面白いのは8節で、「獣は隠れがに入り、巣に伏す」とあるのは冬眠のことを言っているのでありましょう。そして、このような厳しい冬には、人間もまた、とあるように、しばしば仕事や活動を休止することを余儀なくされることがあります。

 エリフは、このような暗くて、寒くて、じっと耐えるばかりの厳しい冬の訪れもまた、神の御心、神の業によるものであり、「懲らしめのためにも、大地のために、そして恵みを与えるためにも、神はこれを行わせられる」のだ、というのです。

 残念ながら、私には自然科学の知識が乏しく、冬という季節が自然界にどれほど大切な意味や役割があるのかということを雄弁に説明することができません。しかし、春になると一斉に新しい命が芽吹きはじめ、動物や昆虫たちも起き出して活発な活動を始めるようになります。人の目には何かも雪と氷の中に閉じこめ、命を凍てつかせるばかりの厳しい冬でありますが、実は人の目の届かないところで、新しい命を育まれる神様のお働きがあったのだと思わされるのです。

 それは単に自然界のことばかりではありません。山口さんの歌で紹介しましたように、ヨブの受けている厳しい苦難もまた、神様のそのような人の目には不思議に見える神様の知恵の働きの中にあることなのだと、エリフは言っているのであります。

 私も、これは本当にその通りだと思います。私はかつて詩編74編の御言葉によって、悩みから救われたことがあります。

 「あなたは、泉や川を開かれましたが
  絶えることのない大河の水を涸らされました。
  あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。
  昼はあなたのもの、
  そして夜もあなたのものです。
  あなたは、地の境をことごとく定められました。
  夏と冬を造られたのもあなたです。」(『詩編』74編15-17節)

 泉や川を開かれるのも神であるなばら、大河を枯らされるのも神である。明るい昼を造られたのも神であるならば、暗い夜を造られたのも神である。夏を造られたのも神であるならば、冬をお造りになったもの神である。そのように書かれています。

 これを読んで、「ああ、私は真っ暗な気持ちで悩んで苦しんでいるけれども、これもまた必要があって神様が私の人生に備えてくださった時間なんだな」と、すっと飲み込めたのです。そうしたら、「抜けだそう、抜けだそう」と焦る気持ちがなくなって、とても心が楽になりました。悩みの時には悩むことが私の人生なのだ。耐えなければならない時は、何もしないで耐えることが私の人生なのだ。そう思えたのです。

 そうすると、悩みや暗さの中で、自分が学ぶことや、見えてくる神様の御業というものがずいぶんあるんですね。それによって自分の心が成長させられて、また新しい時を、活動の時を生きることができるようになるわけです。エリフはこう言っています。

 「神は命じられる。
  雪には、『地に降り積もれ』
  雨には、『激しく降れ』と。
  人の手の業をすべて封じ込め
  すべての人間に御業を認めさせられる。」

 神様は、私たちの人生にもいろいろ厳しい試練をお与えになって、私たちの歩みを止めさせることがあるのです。しかし、そのことによって、神様はご自身の御業を、私たちに認めさせるというのです。自分一人で頑張っている、生きていると思っていた自分が、急に何もできない状態にさせられて、その時に、親のありがたさ、家族のありがたさ、人の恩のようなものを実感したり、私たちを生かしてくださっている神様の御手の力強さというものを感じたりすることがあると思います。そういうことをエリフは言っているのです。

 今日は、もう一つご紹介したい文章があるのですが、私は、うまくいかない時や、試練の時に詩編74編と共に思い起こす内村鑑三の「寒中の木の芽」という詩があります。

 (1) 春の枝に花あり
   夏の枝に葉あり
   秋の枝に果あり
   冬の枝に慰めあり
 (2) 花散りて後に 
   葉落ちて後に
   果失せて後に 
   芽は枝に顕はる      
 (3) 嗚呼 憂いに沈むものよ
   嗚呼 不幸をかこつものよ
   嗚呼 希望の失せしものよ
   春陽の期近し
 (4) 春の枝に花あり 
   夏の枝に葉あり
   秋の枝に果あり
   冬の枝に慰めあり

 「冬の枝に慰めあり」と内村鑑三はいいます。どうしてか、春の後には花が散る。夏の後には葉が散る。秋の後には果が失せる。そういう風に失われるということが最後に来るのです。しかし、冬は何も失いません。逆に冬が終わると、枝に木の芽が出てくるのです。だから、冬には慰めがある、希望があるというわけです。
神の御業を思え
 だから、ヨブよ、自分の苦難を嘆いてばかりいないで、もっと神様の御心と御業を信頼したらどうだと、エリフはいうのです。

 「ヨブよ、耳を傾け
  神の驚くべき御業について、よく考えよ。
  あなたは知っているか
  どのように神が指図して
  密雲の中から稲妻を輝かせるかを。
  あなたは知っているか
  完全な知識を持つ方が
  垂れこめる雨雲によって
  驚くべき御業を果たされることを。
  南風が吹いて大地が黙すときには
  あなたの衣すら熱くなるというのに
  鋳て造った鏡のような堅い大空を
  あなたは、神と共に
  固めることができるとでもいうのか。」(14-18)

 「あなたは知っているか」と、エリフは繰り返しヨブに問いかけています。自然には、人間には計り知れない神の業があります。今は科学が発達し、どうして雨が降るのか、どうして雷が起こるのか、そういうことが解明されてきました。しかし、いくら説明ができたとしても、このようなダイナミックで神秘的な世界がどのようにして出来たのかということに思いを馳せますと、まったく神の奇跡であるとしかいいようがない思いにさせられるのです。

 確かに、神様はエリフが言うように「完全な知識を持つ方」です。私たちが少しぐらい知識をもっていたとしても、神様の前には無きに等しいものに違いありません。それなのに、神様は間違っているなどと言って、神様に挑戦するのはまったくの傲慢であると、エリフは言うのです。

 「神に何と申し上げるべきかを
  わたしたちに言ってみよ。
  暗黒を前にして
  わたしたちに何の申し立てができようか。
  わたしが話したとしても
  神に対して説明になるだろうか。
  人間が何か言ったところで
  神が言い負かされるだろうか。」(19-20)

 「暗黒」とは人間の根源的な無知を意味しています。人間にとって神様は暗闇(人間の知りうることの範囲外)の彼方にある存在なのです。神に問うなどというのは身の程を弁えぬ愚かな行為だというのがエリフの信念です。

 実は、この点がヨブの信仰とエリフの信仰の大きな違いです。ヨブとて神様の偉大さと人間のちっぽけさを認めないわけではありませんが、それにも関わらず、人間との関わりを求めてくださる人格的な存在が、ヨブの信じる神様なのです。人格的とは、要するに呼べば答えてくださるということです。ですから、ヨブは必死になって神に問い、その答えを求め続けざるを得なかったのです。

 しかし、エリフの信じる神は違います。人間との人格的な交わりなど持つことのない超越者なる神なのです。
人間の結論
 その超越者なる神様を、どんな時にも信頼すること、これがエリフの信仰的な生き方であり、希望でありました。

 「今、光は見えないが
  それは雲のかなたで輝いている。
  やがて風が吹き、雲を払うと
  北から黄金の光が射し
  恐るべき輝きが神を包むだろう。」(21-22)

 昨日は一日中、台風十四号のニュースでした。各地でたいへんな被害が出ているようで、神様の助けを祈りたいと思います。ところで、エリフはどんなに厚い雲が空を覆い尽くして、この地が暗闇に覆われようとも、太陽は雲の向こうに存在して輝いているのだというのです。地上からはそれを見ることができないこともあります。しかし、光がなくなってしまったのではなく、厚い雲さえ吹き去らされるならば、再びその光が私たちを照らす時が来るでありましょう。

 神様の栄光に満ちた知恵や御業も、人間には見えなくなる時があります。しかし、それでもその存在を信じて、じっと忍耐して待つならば、やがて雲のは吹き去らされ、再び輝く神の栄光を見ることができるであろうという、本当に希望に満ちた言葉です。これは、私の愛唱の御言葉の一つなのですが、それでも、そこには神に問い、神の答えを聞くというヨブの人格的な神の存在を必ずしも必要としないというエリフの信仰は貫かれています。

 さて、32章以来続いてきたエリフの長広舌の結論です。これまで長きにわたってヨブと友人たちの議論を読んでまいりました。ヨブが受けた苦難の意味を問いながら、「神様は本当に正しいのか?」ということを議論がなされてきたのです。最後の論客であるエリフも、今日の37章をもって持論を語り尽くします。これでヨブ記における人間の議論はすべて終わりを告げることになるのです。では、その結論とは何でしょうか。

 「全能者を見いだすことは
  わたしたちにはできない。
  神は優れた力をもって治めておられる。
  憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。
  それゆえ、人は神を畏れ敬う。
  人の知恵はすべて顧みるに値しない。」(23-24)

 要するに、「神を見いだすことはできない。人間の知恵は愚かで何の訳にも立たない。」、これがエリフの出した結論なのです。思い返してみますと、三人の友人たちがヨブに語った最後の言葉も似たり寄ったりでした。

 「どうして、人が神の前に正しくありえよう。
  どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
  月すらも神の前では輝かず
  星も神の目には清らかではない。
  まして人間は蛆虫
  人の子は虫けらにすぎない。」(25章4-5節)

 私は、エリフや三人の友人たちの出した結論を否定しません。確かに、人間は神様の御前にはいと小さき者に過ぎません。それは認めないわけにはいかないのです。しかし、このように取るに足らぬ者を、ご自分のお相手としてお造りになり、足下に置かれ、慈しみの眼差しを注ぎ、愛をもって語りかけ給う。それが人間をお造りになった父なる神様ではありませんでしょうか。

 詩編8編で、ダビデはこのように神様を賛美しています。

 「あなたの天を、あなたの指の業を
  わたしは仰ぎます。
  月も、星も、あなたが配置なさったもの。
  そのあなたが御心に留めてくださるとは
  人間は何ものなのでしょう。
  人の子は何ものなのでしょう
  あなたが顧みてくださるとは。
  神に僅かに劣るものとして人を造り
  なお、栄光と威光を冠としていただかせ
  御手によって造られたものを
         すべて治めるように
  その足もとに置かれました。
  羊も牛も、野の獣も
  空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
  主よ、わたしたちの主よ
  あなたの御名は、いかに力強く
  全地に満ちていることでしょう。」(『詩編』8編4-10節)

 ダビデも、やはり造り主なる神様の知恵を語り、その栄光を語ります。人間が神様の御前では何者でもないことをも告白します。しかし、ダビデは、人間は虫けら同然だとは言いません。人間には何もできないとも言いません。神様は、このような小さき者に、神様の栄光と威光を冠として与え、神様にわずかに劣る者、言い換えれば神様に近き者にしてくださったというのです。

 その意味は何か。言葉には表されていませんが、それは人間が神の御心に応答する存在として、神様を愛し、信仰をもって従うためではないかと言っているのではないでしょうか。

 そのためにも、私たちは神の声を聞かなくてはならないと思うのです。それはエリフが言うような自然界の中にある雷鳴や雷光を見て、神の御業を知るといいようなことでは足りないのです。それはどんなに大きな音でとどろいても、魂にまで語りかけてものではありません。エリヤが聞いたような、静かで細い声でもいいから、魂の奥底にまで届いてくるような神の声を聞く必要があるのです。ヨブはそれを求めてやまなかったではありませんでしょうか。
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